緑玉で君を想い眠る㉓
6
叶羽に危害を加えられないように、彼女とは徹底的に距離を置いた。
何も難しいことではない。連絡を取らず、近付きもしなければ済む話だ。
それで僕が何を思いどう感じるかは、別の話だ。
感情を殺すのは、得意だろう? なら、上手くやり通せ。
なのにあの人は何が不満なのか、叶羽の友人面をやめない。彼女が桜ノ宮を去る時でさえ、善人を演じていた。
二人が何を話しているかは、僕には聞こえない。
それでも、校内から様子を見ていた僕に気付いていたあの人は、ふとこちらを見上げて、微かに笑みを浮かべた。
忌々しい。
そう感じながらも、僕にできることは、これ以上何も無い。
大学二年になった時に、経済学部経営学科に特待生が入学したと、桜ノ宮生の間で話題になった。
特待生制度はあっても、その条件をクリアするレベルの学力を持つ人が現れるのは、非常に稀だ。桜ノ宮は幼少期から英才教育を受けられる環境にある財と格がある者のための学校。そこに頭脳だけで、それも通常の桜ノ宮生よりも優秀な成績を修められるだけの頭脳を持つ人が現れるのは、滅多なことが無い限り、無い。学園生活が無償で、それに特別支援金も付いているのだから、それだけハードルが高いのも当然だ。
だから、特待生の名前は、法学部にまで伝わった。
彼女が桜ノ宮に戻って来たと聞いて、一瞬、僕に会いに来たのかとも思ってしまった。
自惚れもいいところだ。
彼女が学園を去ってから、僕からは愚か、彼女からも一切連絡も接触もなかったのに。
特待生で入学して、化粧品会社を設立しようとしているのだという噂を聞いて、安心した。
彼女は彼女は思った通り、自分の足で新たな場所へ、進んでいる。
その道すがらに、僕の手なんて必要ない。
翌年は薬学部に特待生が入学した。前年の特待生を追いかけて桜ノ宮を志望したという不純な動機は、特待生が入学することよりも珍しく、半年近く話題になっていた。皆、彼の奇行とも言える志望動機を面白がっているようだった。
僕は彼女を追いかけて学園去ることは愚か、引き止めることも繋ぎ止めることもせず、あの事件の犯人をつきとめることもできていないのに。
動機は不純であっても、それでも彼女と一緒に居るためにわざわざ桜ノ宮まで来た蛙田由貴くんには、脱帽するしかなかった。
文化芸術学部の栄華さんは、学部が違っても、一番気が楽だからとよく僕と一緒に居たし、こうも言った。「私は森城さんの方が好きだった」と。「元気?」と恐る恐る彼女が訊ねてくる度に、こうも言った。
「いい加減、元気かどうかだけでも、答えてあげなさいよ」
「栄華さんには関係無いだろ」
そうやって言っても、あの人がやって来ると、この場をあっさりと後にする。「私は私の使いたいことに時間を使うの」と言って。
逃げたりなんかしないのに、あの人は必ず僕の腕に自分の腕をキツく絡める。
「叶羽と会えて、嬉しかった?」
「嬉しいとか、そういう感情、不必要だよ」
小さな舌打ちが聞こえた。
「叶羽に特待生になって桜ノ宮に戻るの勧めたの、あたしだから」
この人はマーケティング学科だ。彼女と学科は違っても同じ経済学部だ。玉井の会社に勤めるわけでもエスポワールの事務員になるわけでもないのに経済学部に入っていたことを疑問に思っていたが、ようやくわかった。叶羽の行動を見張っていられるというわけだ。
「なるほど」
「……それだけ?」
視線を感じる。それを無視する。人気がなくなってきたところで、不意に腕を解放された。また問われる。
「……あたしが誘拐事件に関わってるって、気付いてるんでしょ?」
「だったら?」
「叶羽に伝えてあげたら? あたしの所為で誘拐されるハメになって、彼氏まで奪われた、って」
「言ってどうなる?」
僕を睨んでわざとらしく大きな溜め息を吐いて、「もういい」と吐き捨てて、一人で去っていった。
弁護士になって、父から矢切製薬の顧問弁護士を引き継いだ。
親同士の交流や栄華さんとの繋がりもあり、現社長の蓮とは、子供の頃から知っている仲だ。仕事以外の話をすることも珍しくなかったし、信頼できる関係性だった。
しばらくして、蓮から話を持ち掛けられた。
「守、新しくできた会社の顧問弁護士もできるか?」
「矢切のかい?」
「いや、ウチは商品の開発とか手伝ってるだけだけど」
「へぇ、なのに蓮がそこまで面倒みるんだ」
「社長が面白ェ奴なんだよ。会社の資金とか出資者とかツテのために桜ノ宮受験したんだってさ」
嫌な予感がした。
特待生はこれまで、四人しか出ていない。特待生制度設立のきっかけになった、蓮の妻の紗羅さん、もともと通っていた高校に通えなくなってしまったからという切羽詰まった状況だった望月さん、叶羽を追いかけたという蛙田由貴くん……。特待生は、それだけで目立つ。名前と、桜ノ宮をわざわざ受験した理由は、ワンセットのように語られ、耳に入ってくる。残る一人の受験理由だって……。
「……蓮がそんな理由で、他人の世話を焼いているのかい?」
「俺、野心ある奴嫌いじゃねーし」
「君が物好きな人だってこと、忘れてたよ」
じゃないと、桜ノ宮と縁戚関係がある矢切の人間なのに、わざわざ一般人をパートナーとして選ばない。
ただでさえ、桜ノ宮の人間は――特に親の世代は、家柄や格を重視しているのに。
「で、どうすんの? 会うだけ会ってみっか?」
「……会社の名前は?」
「シロノ化粧品」
音だけだと、城之かと思った。けれど、これで、確定した。
「……少し考えさせて」
家に帰って、あの人にそれを伝えると、面白そうに笑った。
「何ソレ、ウケる」
この人は、叶羽が絡んでくると上機嫌になる。まだ彼女に何かしたくてたまらないらしい。
「大学といい卒業してからといい、貴方達って、離れてても巡り合っちゃうワケ?」
一瞬、タンポポを思い出した。
今の今まで忘れていたのに、何でよりによって今思い出してしまったのか。
「それで言うと、高校は違うから、成り立たないよ」
「それもそっかぁ」
また声を出して笑う。
「今度蓮に会った時、断っておくから」
「は? 何でよ」
「断った方がシロノは困るだろうから、そっちの方が、都合がいいだろう?」
「引き受けなさいよ」
思わずあの人の方を見た。久し振りに視線を合わせたその人は、無表情になっていた。
「安心してよ、別に叶羽に危害なんて加えないから」
てか、そんなの犯罪じゃない。とぼやいていた。どの口が言っているのだろう。
「……何がしたいんだい?」
「別に。ただ、もう一度叶羽とお友達になろうと思っただけ。いいでしょう? そのくらい」
「……」
「だぁいじょうぶよ。お互い身の程をわきまえた、いいお友達になれると思うわ」
左手の薬指を翳しながら言った。そこには、その人の希望通りのプリンセスカットのダイヤが付いた指輪が填められている。
蓮の紹介で再び出会った僕を見て、叶羽は息を飲んで驚いていた。
けれどそれは、すぐに緊張に変わり、時には脅えの色が見え隠れした。
昔から、彼女は悪意や無神経さを敏感に感じ取っているところがあった。
由貴くんはそんな叶羽を見て、僕を敵視するようになっていた。
ごめんね、叶羽。
頃合いを見て顧問弁護士の担当は変わるから。兄なら初対面の相手とでもすぐに打ち解けられるし、陽気な兄となら、肩の力を抜いて気難しい話や相談も、できると思うから。
大好きだった城之を生まれ変わらせた君から、もう何も奪いたくないし、邪魔もしたくない。
由貴くんと、幸せになって。
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