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緑玉で君を想い眠る⑫



 昨夜、夢香を送りに外に出てから、彼女はスマホを取り出した。エレベーターの中にいる時も、一階に降りてからも、画面を凝視しながら、時折何か文字を打つ動作をしていた。

 送れ、と言われても、彼女は公共の乗り物なんて使わない。交通手段は、専属の運転手を呼ぶか、タクシーを呼ぶかのどちらかだ。

 迎えを呼んでその場所まで向かっているのかと思って、私は黙って彼女の後ろをついて歩くしかなかった。

 夜とはいっても住宅街だから、一定の感覚で街灯があり、真っ暗闇というわけではない。平日ということで帰宅途中の人の姿もあった。叫べば近くの人が気付くだろうし、近隣住民の耳には届く。女だけで歩いていても、異変があれば、誰かが察知はしてくれるだろう。勿論、異変を伝えられるような行動を取れたら、だが。

 由貴が言った通り、脅迫状の件もある。片手にスマホを握り締めて、ハイヒールの音を颯爽と響かせる彼女に遅れないように、歩みを進める。

 彼女の背中を見つめながら、これまで頭の隅で思っていたことを、そして先程室内で話していて確信に近いものとなった考えを、意を決して問う。

「ねぇ、夢香……。十五年前、私が誘拐されてレイプされたって噂を流したのは……貴女なの……?」

 ハイヒールの軽快な音が止む。

 急に止まった彼女にぶつからないように、つま先に力を込めて私も静止した。

 彼女の肩が震えだし、次第に押し殺した笑い声も聞こえ始める。

 ふわりと巻いた髪に、さらに空気を含ませるように優雅に振り向いた彼女の顔は、笑っていた。

「今さら気付いたのぉ?」

 不気味に上がった口角。暗がりでもはっきりわかる赤い唇。闇夜に浮かぶほっそりとした月のように燦々と輝く目。

 その表情だけで、私は気圧されそうになった。

「何で、あんな……」

 心に芽生えた恐怖心を払い除けるため、一度思考を整理する。

 まず始めに違和感を覚えたのは、誘拐事件後、これまで親しくしたことがない彼女が、急に私に近付いてきた時だ。私の味方をするようにしながら、事件を……誤情報を吹聴するように励まし続けた。

 確信に変わったのは、由貴と彼女の会話を聞いてからだ。

「事実じゃないことまでベラベラ話さないでもらえますか?」と言う由貴の言葉を、彼女は否定しなかった。

 彼女は知っていたのだ。

 彼女が自分で言った、「誘拐されてレイプされた」という内容に、事実じゃないことが混ざっている、ということを。

「何で、って。アンタ、ここまできてまだわからないのぉ?」

 顔を近付けられて、思わず、身を引くように体を縮める。

「アンタのことが嫌いだからよ」

 身を縮めた拍子に地面を見るような形になった私と視線を合わるために、彼女は体を屈めて、真正面から視線を合わせて言った。私よりも低い背丈なのに、ヒールで私より高くなった分の背を低くした。その分の高さは、私と彼女との、見えない差のように感じた。

「いつもヘラヘラ笑ってるアンタが、初等部の頃から心底嫌いだったの」

「……それだけで、あんな?」

 ここで負けてはいけない。そう思って彼女の目を見つめ返して言い返すも、何を言えばいいかわからず、言葉が続かなかった。

 彼女は姿勢を正して、ヒールで高くなった身長分、大きな目で私を見下ろした。

「逆に聞くけど、嫌いな人を貶めるために、特別な理由なんているの? 嫌いな食べ物を嫌いなことに、特別な理由なんてないでしょ? それを食べない理由も、嫌いだから以外の理由なんてないでしょ? 嫌いの対象が人に変わったからって、論理的に納得できる理由がいるわけ?」

 人を憎むこと自体は、善悪では決められない。しかし、だからといって危害を加えようとする行為を、

「正当化しないで!」

「やだぁ。近所迷惑よぉ?」

 軽く握った左手で口元を押さえながら笑う夢香。街灯の光に照らされていない場所でも、ダイヤモンドが付いた指輪と装飾がない指輪のプラチナは、眩く輝いていた。

「守ねぇ、案外簡単にあたしと付き合ってくれたわよぉ?」

 その言葉で、忘れていた罪悪感が蘇り、私は今度こそ何も言い返せなかった。
 それを見た彼女はくすりと笑って、踵を返して歩き始める。

「ひっどい言われようだったものねぇ。男としてのプライドズタズタだったでしょ。アンタと付き合ったこと、後悔してたんじゃない?」

 私が歩き出せていないことをわかっているのか、幾分か大きな声で言われる。

 それにハッとして、駆け足で彼女の背を追いかけた。誰の口からであっても、当時の彼を悪く言われるのは避けたい。それが現在妻である女性だったとしても。彼を知る者がいなくても、こんな住宅街で、大きな声で言われたくはなかった。

 それに、もう一つ、聞かなければならないことがある。

「……貴女は、あの脅迫状の件で、守から何を言われたの?」

 彼女の足が、再び止まった。
 勢いよく振り向いて、

「それはアンタに関係無いでしょ!」

 それだけを言って、早足で歩いて行く。ちょうど、線路沿いに出た。

「こんな時間に乗り込んで来て……! 中等部の時あんなデマまで流して私を貶めたんだから、これくらい教えてくれてもいいでしょ!」

 私が話している途中で、電車が通過した。私の言葉は、最後まで彼女に聞こえていただろうか。

 電車が通過した後、また彼女が振り返った。目が合う。大きくて、ギラギラと輝く彼女の目が、私を捉えている。

 この彼女の目が、なんとなく苦手だった。理由はわからなかったけれど、ずっと苦手だった。

 けれど今、ようやくわかった気がする。
 悪意を持って――否、悪意を悪意だとも思わず、私に剥き出しのやいばを向けているからだ。

 彼女はゆっくりと、その顔に、鈍い光を反射する刃物のような笑みを浮かべた。

「いいわ。この際教えてあげる」

 赤い唇が、はっきりと動いた。

「『次は叶羽に何をする気だ』って言われたの」

 また、電車が近付いてくる音がする。それに構わず、彼女は歩き出した。電車が通り抜けて、騒音が止んで、それでも私の頭は混乱していた。

 頭を整理する前に、彼女から直接意味を問いただした方が早い。そう判断して、走って彼女を追いかけた。

「ねぇ、それってどういう意味⁉」

 夢香は足を止めずに、黙々と歩き続ける。いつの間にか住宅街からは逸れていて、周囲には背の高い木々がそびえ立っていた。

「ねぇ!」

 混乱と動揺で、足が上手く動かない。スニーカーなのに彼女に追い付くのに苦労しながら、やっとの思いで肩を掴んだ。

「気安く触らないで!」

 振り返りざまに、手を思い切り払い退けられる。

「信じちゃったぁ?」

 いつも私を見る時と同じ、小馬鹿にする眼差しを向けられる。

「本当はね、『勝手なことをするな』って言われたの」

 先程の言葉とは、大きく意味が異なる。

「……本当は、何て言ったの?」

 彼女に聞いたって、本当のことなんて教えてもらえるわけがない。
 守に聞いたところで、それは変わらない。

「これ以上、私に何がしたいの?」

 けれど、私は彼女が流した噂で学園に居辛くなった。
 その噂の所為で、守だって、たくさん傷付いたはずだ。

 私が学園を去った後で何があったのかはわからないし、どういう経緯で守と夢香が交際し、結婚にまで至ったのかなんてこともわからない。これについては、私が口出しをする権利なんて無い。

 しかし、あの時私と守が、どうして傷付けられなければいけなかったのか。それを理由にこれ以上傷付けられないといけない理由があるのか。それらについて、ここで説明を求める権利くらい、あるはずだ。

 彼女は高らかに笑った。

「別に、あたしはアンタに何かしたいわけじゃないの。ただ、そうね。アンタに新たな利用価値を見出したってところかしら」

 そう言って彼女はまたスマホを取り出して、何かを確認していた。画面を触り、小さく笑っていた。

「じゃ、ここでいいから」

 そう言って、目の前にあった公園に歩みを進めた。広い公園で、昼間にはフリスビーやキャッチボールをして遊んでいる子供や家族連れ以外に、犬の散歩をする人や楽器の練習をしている人も見かける。公園の周りを背の高い木が囲んでいて、日中の日差しが木々の間を通り抜けて、光の屑を撒いたような影が地面に落ちる。夜は公園を囲む木々と、公園内にもいくつか生えている木で、随分と薄暗い不気味な場所に見えた。公園ではなく、森に見えるほどに。

「ちょっと待ってよ!」

 私が彼女に追い付くよりも早く、彼女は振り向いて言った。

「早く家に帰ってあげたら? カエル君、心配し過ぎて交番に駆け込んだんじゃない?」

 握り締めていたスマホの画面を見ると、家を出てから三十分近く経っていた。
 由貴からメッセージアプリに四件通知も来ている。マナーモードを解除していたのに、気付かなかった。

 彼女に視線を戻すと、私のことなどお構いなしに、踵を返して歩き始めていた。

 一度由貴に連絡しようとしたところで、五件目のメッセージが届いた。その通知に指が触れて、自動でアプリが立ち上がる。

『大丈夫ですか?』『何かありましたか?』『今どこですか?』『叶羽さん?』そして新着メッセージが、『ボクも出ます』だ。

 既読マークはついたはずだが、それを確認しているとは思えない。コンロの火を消したのを確認したら、玄関に飛んで行っている彼の姿が目に浮かぶ。

『光の森公園のところ。これから帰るから、由貴は待ってて』

 一度メッセージを送っておく。既読はつかない。電話した方がいいかもしれない。

 もう一度顔を上げて夢香の姿を探すも、すでに公園の中の闇と同化しようとしている。

 ……今日は、もう諦めよう。

 いや、もう、彼女達のことは忘れよう。忘れられなくても、気に留めないように努力しよう。

 顧問契約も、せめて担当を別の人に替えてもらおう。お世話になっている矢切製薬の蓮社長からの紹介だからとそのまま契約してしまったけれど、私はもう守と関わらないように生きた方がいい。彼だって、蓮社長の紹介だったから、断りづらかっただけだろう。

 それが、お互いのためになるはずだ。

 一度深呼吸をして、由貴に電話する。ワンコールで彼は電話に出た。

『叶羽さん、大丈夫ですか? 今どこですか? すぐそっちに行きます』

「光の森公園のところ。これから帰るから、大丈夫だよ」

 切羽詰まった声の彼を落ち着かせるために、なるべく平静を装って言った。

『そんなところまで行かされたんですか? あの女、ふざけてますね』

 それを聞いて、思わず笑ってしまった。

『どうしたんんですか?』

「私も由貴くらいストレートに夢香に言い返せたらいいのに、って思っただけ」

『……今度は、何言われたんですか?』

「大した事ないよ」

 そう、大した事は言われていない。思い切り人格を否定する言葉を浴びせられたわけではないし、脅されたわけでもない。

『……叶羽さん? 泣いてます……?』

 ただ、一方的な私怨で人生の一部を支配されていたということが、悔しくてたまらない。

「晩ご飯、完成した?」

『はい。冷めちゃいそうです』

 祖母と二人で暮らしていた時は、休日は家事全般をこなしていて、高校と大学では毎日自分でお弁当を作っていたという由貴は、手際よく料理をこなす。私が作るよりも美味しいものをいくつも作ってしまう。大学生になって初めて料理をした私は、卵をレンジで爆発させた経験がある。今では私も料理に関する知識は身についたが、腕前が大違いだ。

「これから帰るから、温め直しておいて?」

『……ズルいですよ。もう靴履いてるんですからね』

「帰ったら由貴が作ったご飯を食べたいの」

 昨年結婚報告をしてから、ふと眠りにつくように由貴の祖母が亡くなった時、彼は表情一つ変えなかった。そのまま目から水滴をニ、三粒落として、ゴシゴシと目を擦った後は、もう水滴が落ちることはなかった。

 由貴は冷めているようで、ただ感情にブレーキをかけているだけだ。

「おばあちゃんにはのんびり暮らしてほしいから」と、祖父にできなかった分も一緒に孝行していた様子から、彼の心情が窺える。彼にとっての祖父母は、私にとっての輝一郎さんだろう。先が長くないとわかっていたから、思い残すことが無いようにしてきたのだ。

 しばらく無意味に私を抱き締めることが増えたが、今ではそれも落ち着いている。

 彼なりに感情の整理はついたのだろう。

 私も、そのままにして曖昧に済ませていた感情を、整理しなければ。
 守への未練にも似た感情を。
 夢香に強く言って追い返さず、従うしかできなかったのは、きっと守への何らかの気持ちがあるからだ。

『……まっすぐ帰ってきてくださいね』

「うん」

 そこで通話を終えた。

 声は震えていなかったはずだし、鼻を啜るのも我慢した。
 なのに、何で泣いていることがバレてしまったのだろう。

 不思議に思いながら、頬を濡らしていた涙を強引に拭う。
 空を仰いで、涙を抑えようと試みる。

 上を見たところで、あの頃には戻れない。父がいて、母がいて、城之化粧品があったあの頃には戻れない。

 シロノ化粧品を作り上げたところで、見上げて、真似しただけの、別物。
 何も不安を感じずに過ごしていた、幸せの象徴みたいな日々は、戻って来ない。

 それに気付けただけでも、一歩前に進めたと思いたい。

 これからは、由貴と、シロノ化粧品と、前に進む。ただ前に。前に。
 私は由貴が待つ家に、足を進めた。

 今はあそこが、私の帰る場所。そして、またどこかに向かって進む場所なのだから。


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