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緋色の花㊶

     

 同じ学園に通っているのだから、久し振りに会うわけではない従弟妹いとこ達との親族会での再会は、懐かしさなんて微塵も無かった。
 特待生制度の話は順調に進み、今年度までは試験採用ということになったらしい。彼女の成績ならば来年度には本採用され、特待生制度も正式に設立される。それがわかったことが収穫だ。
 惜しむようなものもなく、新年会が終わるや否や早々に寮に戻った。
 紗羅は何をしているのだろうか。そう思ってメールを送ってみたら、宛先不明で戻って来た。
 新学期初日に紗羅のクラスに行くと、紗羅は休みだと言われた。午後から登校する予定だったけれど、午後も休むことにしたのだと。
 それを聞いて、一瞬目の前が暗くなった。
 学校を休んだ。ふと珠莉を思い出してしまった。
 紗羅が死ぬわけない。紗羅が死ぬわけない。
 呪文のように心の中で唱えた。だって、ちゃんと欠席の連絡まで自分でしている。
 その翌日、彼女はちゃんと登校していると聞いた。だが、昼休みの教室にその姿は無かった。昼休みになって教室を出て行ったと紗羅のクラスメイトは言った。中庭にもいない。保健室にもいない。放課後にまた来てみようか。そう思って三年の教室に戻ろうと階段を上り、二階の二年の教室が連なる廊下で、彼女の姿を見た。
 紗羅と一緒にいたのは司だった。
 司が俺に気付いて、軽く会釈をする。それを見て、紗羅も俺に気付いた。彼女達に歩み寄る。
「蓮、元気にしてた?」
「明けましておめでとうが先だろ。何してんの?」
「ちょっと用事があっただけ」
「他愛もないことですよ」
 僕は失礼しますね、と付け足して、司は教室に入っていった。
「司と何話してたんだよ」
 点灯式で、俺と司がどういう会話をしていたのか気にしていたことを思い出す。
「珠莉さんのお墓参りでわかれた後にさ、司が来て、メモ渡されたの」
 手に持っているのは、その時渡されたメモだろう。四つ折りにしたら簡単に手に納まるくらいの紙に、病院名がいくつか書かれていた。
「『傷付いたら血が出るのは当たり前だから、んだりしないうちに適切な手当てをした方がいいよ』って」
 何について言及しているのか、司はこの時まで言葉を伏せたのか。
「なんかさ、よくわかんないけど涙出てきちゃって。ずっとあたしがおかしいんだと思ってたから。優しくされたからとかじゃなくて、一人の人として扱ってもらえた気がして」
 まとまらない感情を重ねるが、嬉しかったのだとはわかった。
「で、ハンカチ渡されてさ。フィクションではよくあるのに、現実でされたらちょっと引いたわ。しかも蓮達ってハンカチ一枚にいくらかけてんの? 思わずクリーニング出しちゃった」
 引いたと言いながら結局使ってるところが紗羅らしかった。
「……でも、ちゃんと理解してくれてたのは、嬉しかった」
 静かに吐き出された言葉は、昼休みの喧騒に消えた。
「昨日の午前中、カウンセリング行ったんだけど、理解があるところで、大泣きしちゃって。目腫れまくって、午後も休んじゃった」
 そこで一度言葉を区切って、続けた。
「ハンカチ返して、お礼言って、それだけだよ」
 念を押すように言った。
「蓮もどこか行ってみたら?」
 そう言って、折りたたんだメモを渡された。
「自分と近しい人がそういう目に遭ったら、直接的な被害に遭ってなくても、精神的に傷付くんだって。自分は贖罪のつもりなのかもしれないけど、一回行ってみたら?」
 まっすぐ向けられた彼女の目。差し出してくる手は、引き取るまで引っ込められそうにない。
 彼女の手からメモを受け取る。
「あたし涼香すずかのとこ行かなきゃだから」
「涼香?」
「どんき、って演目の? なんか、バレエの発表会の主役やるから、全く知らない人が見ても楽しく見られるか知りたいんだってさ。道に迷っちゃうだろうから、中等部の体育館まで来てくれるって」
 じゃあ、と言って、彼女は逃げるように階段を下りて行った。
「蓮!」
 紗羅が去った後声を掛けてきたのは瑠依だった。鋭い目つきで歩み寄って来たかと思うと、
「……紗羅と、付き合い始めたの?」
「いや、付き合ってねーけど」
 そう、と少し安心したように言って、紗羅を追いかけるように去って行った。
「蓮さんって、残酷ですよねぇ」
「は? どこが」
「別に、何でもないですよ」
 扉にもたれかかって呆れ顔をしていた司は、そう言ってこちらにやって来た。
 紗羅が下りて行った階段を眺めながら、ポツリと呟く。
「涼香達に会わせたのは正解だったかな。地元に嫌な記憶しかないわけじゃないみたいだし、来年度は、楽しい学園生活が送れるといいな」
 彼の表情は柔らかく、目もやさしさに満ちていた。俺がそんな感情を持てるのは大切だと思った人だけなのに、司は違うらしい。一学年しか変わらない彼が、妙に大人びて見えた。
「ところで、紗羅と喧嘩でもしたんですか?」
「何で」
「蓮さん、避けられてるように見えたので」
「……やっぱ避けられてんの?」
「そう見えただけですよ」
「メールも宛先不明で返ってきたんだよ」
「それは完全に避けられてますよね。どうして気付かないんですか?」
「お前に言われたくねーよ。つか、紗羅が選んだことなら仕方ねーだろ」
「僕も蓮さんに言われたくないです。あと、諦めることと身を引くことは違うと思いますけど」
 何がどう違うっていうんだ。
 会話が途切れて、一瞬沈黙が流れた。
 昼休みの喧騒だけが鼓膜に届く。
「僕、『知らない』ことは、罪だと思うんです」
 最初に沈黙を破ったのは司だ。ポツリと落ちた言葉は、そのまま静かに紡がれていく。
「一人一人別の人間なんだから、相手を理解するなんて、無理だとは思うんですけどね。相手のことをちゃんと知らないと、知ろうとしないと、寄り添うことすらできないんですよ」
 そこまで言うと、視線を俺の方に向けた。手元のメモを捉えている。
 このメモは、司なりの紗羅への謝罪だろう。
「でも、知ったところで限界はある。結局僕では何もできない。どんなに権力を持っても、役に立てるとは限らない」
 一度目を伏せた。非力を受け入れるように。
「自分の話をして、相手の話も聞いて、そうやって互いを知るのは、理想的だと思いますよ」
 あれから司は、結局紗羅からスピークアウトはされていないのだろう。だから知らないというていで接しているし、紗羅も司が全て知っていることに気付いていないというていで接している。
 互いに暗黙のうちに闇に沈めた。
 紗羅がスピークアウトできたのはきっと、俺だけだ。
「……俺達がどうなろうと、どうでもいいんじゃねーの?」
「どうでもいいですよ。でも、人の恋路ってエンタメなんですよね。僕は高見の見物をしているんです」
 悪びれずに笑顔で楽しそうに言う彼を見て、瑠依を振り向かせられる日はまだしばらく来ないと感じた。

 紗羅とは以前のようには会わなくなっていた。
 あれから彼女は、綺麗すぎて周りが近付かない辰哉と普通に会話をしていたり、体育館で亮太と雪菜と一緒に涼香のキトリのバリエーションを見たりしていた。中庭で瑠依と司の愚痴を言い合っている時もあった。
 そうやって、事件とは無関係の環境に身を置くことにも慣れてきたのか、それともカウンセリングの効果が出ているのか、紗羅の表情は以前よりも明るくなっていった。
 本人が自覚していたのか定かではないが、以前は教室で常に暗い表情をしていた。今では柔らかい表情で会話できるようになったようで、ようやくクラスにも馴染みつつあるようだった。
 一限目の遅刻が減ったわけではないけれど、体育の授業は問題なく出席できるようになった様子だ。もともと体育は好きだったらしく、来年の体育祭では活躍している姿が想像できた。
 俺を避けているのだとしても、紗羅が日常を送ろうとしていることには安堵した。
 このまま、紗羅の中で俺を風化させて、いつか大切な人と、巡り合えたらいい。
 紗羅が密かに矢切製薬に投獄されても、共に生きる相手くらい、まともな人を選んでほしい。
 今俺の心臓が血を流していても、どうせ十代の熱しやすく冷めやすい感情にすぎない。
 彼女は決して傷が癒えたわけではないし、忘れたわけでもないということは、珠莉の墓参りに来てわかった。
 一月二六日、先月備えたピンクのバラと一緒に、白いバラが両サイドの花立はなたてに二輪ずつ生けられていた。生けられて二週間を過ぎた頃だろうか。ピンクのバラよりかはまだ花弁にしなやかさがあったが、萎れて元気がなくなっていた。
 翌月も白いバラが二輪ずつ生けられていた。先月と同じく、ちょうど生け替える時期だった。
 白羽ご夫妻は、バラを献花にしていなかったはずだ。
 紗羅は俺と会うのを避けるため、月の上旬に花を手向けに来ているようだった。
 彼女はどういう気持ちでここへ来ているのだろう。
 性犯罪被害の恐怖や後遺症と闘うサバイバーとしてなのか。珠莉から俺を奪おうとしていたことを謝罪するためなのか。彼女ならきっと、前者が理由だろう。
 では、俺はどうだろう。
 珠莉の墓参りを、これからも続ける。最初は未練や後悔が理由だった。いつの間にか、珠莉を置いて進む世界の流れに乗って、変わりゆく自分の世界を無言で報告するようになっていた。
 珠莉はきっと、俺の中で「思い出」になってしまったのだけれど、彼女を忘れることはない。
 やさしさも幸福も後悔も痛みも、彼女が教えてくれた。
 忘れられるわけがない。こんな大切な感情を。

   

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