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緋色の花㊵

     

 十二月二十六日。点灯式から四日目の朝、俺は『香坂』に行った。
 晴実は厚手のセーターを肘までたくし上げて仕事をしていた。
「そんなことして袖口伸びねーの? つか、今月やけに店にいるな」
「あぁ、だから袖口段々緩くなってきてるのか」
 そう言って、彼は笑った。後半の言葉には、十二月はクリスマスと年末年始の予約がたくさん入るから、と視線を合わさずに言われた。本当に大学に行ってんのか?
 毎月二十六日に、俺はこの店を訪れるようになっていた。
 この日に花を買いに行くと言ったら、俺が店に行く時間には彼も店で待っていてくれている。
 三カ月前の九月のこの日は、紗羅と『Salonサロン de thé de la Reineレーヌ』で長居と寮の前で立ち話をし過ぎて、予約時間に遅れそうになった。紗羅と別れる直前に、親父から零が死んだ旨を学校にしらせる日取りについてメールが来て、思わず舌打ちしてしまったところまで、よく覚えている。 
 今月は二十六日以外でも彼が店にいる姿をよく見る。あまり話したくないというように誤魔化されるのも違和感があるが、いつもの穏やかな微笑みで、花を渡される。
 珠莉への献花。本当はタブーだが、白羽夫人に許可を取り、今月はバラの花を束ねてもらった。薄いピンクのバラの花。刺は晴実が落としてくれた。彼女が生きているうちに渡したかった花を、今日、ようやく贈れる。
 晴実が俺の後ろの人物にも微笑みかける。紗羅は会釈を返していた。誰なのだと尋ねてこないのが、晴実らしい。
 店を出て、二人で珠莉の墓へ向かう。
 クリスマスが過ぎて、年末を迎える前に一段落するこの時期の午前中に、墓参りに来ている人はおらず、辺りは閑散としていた。
 一カ月前に生けたキクはこうべを垂れていた。引き抜くと、茎がふにゃりと曲がる。新しくバラを生けると、少しだけ周りが明るくなった気がした。
「随分慣れてるね」
 墓に水をかけ、マッチに火を点け始めた俺に、紗羅が言った。
「六回目になると、さすがにな」
「五回目じゃなくて?」
「珠莉が亡くなってから、一回来てるんだよ。それが八月の初めだったかな。それから月命日に来てるから、今日が六回目」
 あぁ、と彼女は納得の声を上げる。俺は線香を差し出した。
「あたし、墓参りって久し振りだから、何すればいいのかわからないんだ。ごめんね、眺めるだけになっちゃって」
「じーちゃんばーちゃん、生きてんの?」
「いや、亡くなってるから昔は墓参りに行ってたけど、パッタリなくなっちゃったから」
 いつ頃行かなくなったか、行かなくなった理由が何かは、聞かない方がいい気がした。
 紗羅は細い線香を折らないようにと緊張した様子で手に持つ。マッチの火を蝋燭に移し、蝋燭から線香に火を灯す。紗羅も真似して火を灯す。
 二人で香炉に線香を寝かせた。線香の独特の香りが漂う。
 無言で両手を合わせて、祈るように目を閉じた。
 いつもは一人で来ているのに、今日は見知らぬ女と来ている俺の姿は、珠莉には見えているのだろうか。
 珠莉の異変に気付きながら何もできなかったことを、今日も心の中で、まず謝罪した。それから、突然見知らぬ女と墓参りに来たことも、同様に詫びる。そして彼女が、九月になってからいつも報告している「紗羅」という人物であると説明した。先日、彼女と踊ったこと、宝石のように輝いて見えたこと、だけど、恋人ではないこと。
 珠莉が亡くなって半年も経っていないのに心変わりして、自分でも情けなくなること、珠莉との件でさんざん後悔したのに、またあの時と同じ過ちを繰り返そうとしていること。それでもいつか、珠莉とは進めなかった未来を、彼女と歩めたらいいと思ってしまうこと……。
 墓の前で手を合わせて想いを馳せたって、本人に届いているとは思えない。だけど、届いているかもしれないと思うことで、遺された俺は救われている。自己満足に過ぎないけれど。
 それでも、生きている限り、珠莉の死と向き合い続けたかった。
 目を開けて紗羅を見ると、彼女はまだ手を合わせて目を閉じたまま、静止していた。合わせた両手で口元が隠れている。
 数秒後、ようやく目を開けて手を下ろした彼女に言う。
「行くか」

 女子寮の前で立ち止まる。もう冬休みだから、敷地内は静まりかえっていた。
 実家が無い生徒は紗羅以外にいないし、実家に帰りたくないから帰らないという人も、俺くらいだ。
「地獄花、来年また咲くかな」
 九月にはその姿があった方向を眺めながら、彼女は呟いた。
「だから、その呼び方やめろって」
 花言葉は「悲しき思い出」。別称も不吉なものばかり。なのに、紗羅は自分に似合うのは彼岸花だと言っていた。
 花言葉が暗くても、別称が不吉でも、綺麗だから好きなのだと言っているならいい。だが、あの物珍しい形や鮮やかな赤が似合うと言っているのではなく、死を連想させるから似合うと言っている彼女は、やはりどこか危なげに見える。
「蓮、今日はありがとう」
 点灯式が終わった後、最後に珠莉の墓参りに行きたいと言った彼女に、今日が月命日だと告げたら、構わず同行してきた。
「なんか、ちょっと気まずかったな。蓮が他のひとのこと考えてるのは気付いてたけど、あたしずっと、このまま蓮の隣を奪えたら、って思ってたから」
「意外と野心家だな」
 今日はほぼ会話をしていなかったから、思わず笑みが零れた。
 彼女が珠莉の墓の前で何を想って手を合わせていたのか、想像もつかないが、やはり彼女の意志の強さは、好きだった。
「蓮って、実家帰んないの?」
「大晦日から新年にかけて親族会があるから、大晦日の朝には帰るよ。新年会終わったら即戻ってくる」
 零の件があったから実家に帰りづらくなったわけではない。
 親父は諦めたように俺を跡取りにしようとしているが、良好な関係になったわけではない。母親は一時期塞ぎ込んで桜ノ宮医大の精神科に通っていたが、今では気丈に振る舞っている。各々で、以前のような日常を、取り戻そうとしていた。
 変わったのは俺が跡取りになったのと、左手首に時計を着け始めたことくらいだ。零ほど立派な物ではないが、親父から渡された。
 俺は跡取りとしてとりあえず認められたのかと、最初は思った。
 だが、それはその存在の通り俺を時間で拘束し、手錠のように手首に巻かれている。
 この腕時計は、もう矢切家から逃げられないのだという、証だ。
 これが俺の罰だろう。いざとなれば自分の首をまっさきに差し出し、責任を相応の立場で取る。それまでは守るべきもののために、身をにする。
 零は、親父から立派な時計を与えられて、俺に自慢するように見せつけていたように見えたが、本当は絶望していたのかもしれない。
 俺は生前の零のように、いつも腕時計をしている。
 規則正しいリズムに縛られる時は多いだろう。
 だが、自分で時を刻める瞬間も、あるはずだ。
 これは、絶望の証じゃない。いかに俺が、俺の時間を刻むかを、試すものだ。
「親族会って、司もいるの?」
 実家に帰らない理由を聞かないところは、どこか珠莉に似ている。
「まぁ、そうだな」
「へぇ、なんかウケる」
「紗羅くらいだよ。従兄弟妹いとことアイツの友達以外で司にそんなこと言えんの」
 彼女は笑いながら空を仰いだ。つられて見上げる。冬の冷えた蒼穹が、晴れ渡っていた。温かさは感じないが、目がジンジンとする明るさが広がっている。
「ごめんな、事件のこと不躾に聞いて」
 九月のカフェでのやり取りを思い出す。あの頃はまだ、彼女に対する怨みがあった。フォークの切っ先を向けて、彼女を咎めるように、試すように、問い掛けた。矢切家と紗羅との関係に気付いていないか確認するためでもあった。惹かれつつある彼女に、自分の正体を気付かれていないか、知りたかった。
「それより、最初に会った時、校内で絡んで来た方を謝ってよ」
「あれの何が悪いわけ?」
 そう聞くと、紗羅は溜め息を吐いて話し始めた。
「男は知らない女に絡むけど、女は知らない男に絡まないの。何でかわからないでしょ。『力でどうにかできる』って、無意識にでも思ってるから、知らない人に絡めるんだよ。『支配できる』ってどこかで感じてないと、得体の知れない人間には絡めないモンだよ」
「すみませんでした……」
 そう言って、紗羅に頭を下げた。
 直接的な暴行だけが暴力なのではないことも学んだけれど、知識があってもそれを踏まえて行動できるとは限らない。知っていても、言動を改められなければ意味がない。
 俺の頭を上げさせるように、彼女は話題を変える。
「立ち話、寒くなっちゃったね」
 最初の頃はまだ、残暑が厳しかったのに。名残惜しそうに季節の話をした彼女に言う。
「雪、降んのかな」
「東京の雪はべちゃべちゃしてるって聞いたけど、そうなの?」
「冷える地域で降るようなキメの細かいやつは滅多に降らねーな」
 そんなに弾まない会話を、無意味に続けた。幾度か続き、一瞬生まれた沈黙を機会に、どちらからともなく別れの雰囲気が漂い始めた。
「……じゃ、元気でね」
 まるで、恋人に別れを告げるような言葉だった。
「……そこは、よいお年を、だろ」
 彼女はただ笑って、訂正はしなかった。
 そのまま手を振って、女子寮の中へと姿を消した。

   

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