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緑玉で君を想い眠る㉙



 家に帰ると、叶羽さんはソファーに腰掛けて、そのまま背もたれにもたれかかった。布で体は滑って、深く腰掛ける形になる。ぐでんとダルそうにして目を閉じている。

 退院してから、外出した後は、こうなることが多い。気分の浮き沈みは減ってきているものの、まだ完全に回復したわけではないのだろう。

「……叶羽さーん、よかったんですか? あんなこと言って……」

 お疲れの時に聞くのも無神経だろうか。

 けれどもし後悔しているなら、早めに行動した方がいい。担当を変更するという話も、代わりにボクが白紙に戻すよう話すことだってできる。もう一度話したいことがあれば、改めてプライベートで連絡を取ってもいい。

 彼女はあれで全てを終わりにしたのだろうけど、あんな終わり方で、本当によかったのだろうか。

「……よかったの。むしろ、どうしてもっと早くに、こう言わないといけないって、気付けなかったんだろう」

 彼女は目を瞑ったまま言った。
 そしてゆっくりと目を開けた。宙を見たまま、話し出す。

「……私はね、守に、私を理由に、自分の人生を壊してほしくなかったの」

 彼の言動はすべて叶羽さんのためだった。

 叶羽さんと別れたのも、結婚したのも、刺されたのも…………。

 知らないだけで、まだ他にも、自己犠牲をしてきたのかもしれない。一切の躊躇いも無く。

「守の幸せを願ってる人は、るんだよ。彼のお父さんもお母さんもお兄さんも、蓮社長や紗羅さんだって。私が知らないだけで、彼を大切に想ってる人は、他にもる」

 もしかしたら、あの担当医も、プライベートで親しくしていたのかもしれない。互いに名前で呼びあっていたのを思い出して、ふとそう思った。

「だから彼は、人生や命を懸けたりして、私の幸せを守ろうとする必要なんか無いの。彼は彼の幸せを、守ろうとしなくちゃいけないの」

「……守さんの幸せが、叶羽さんと一緒にいることだったり、叶羽さんに関することだったら、どうするんですか?」

 ――輝一郎さんみたいに。

「私はあなたの加護は要らない」

 彼女の目が、こちらを向いた。

「今度ははっきり、そう言う」

 眠そうにしていたはずなのに、しっかりとした意志を感じた。
 彼女は一度目を伏せる。

「私の人生は私の人生で、守の人生は守の人生なの」

 少し間を置いて「勿論、由貴の人生は由貴の人生だよ」と付け加えた。

「私達ね、事件の後、自然消滅して別れたの。親の反対があったから。中等部の時だったから……親に反対されたら、言い返せない。でも、大切な人を悪く言われたまま言い返さないで、言われるがままに離れていったのは、事実なの。桜ノ宮の中等部……寮生活なんだから、黙ってれば内緒で付き合い続けることはできた。お互いが関係無い人達に傷付けられてても、それを理由に距離を置く必要も無かった。

 でも私達は、二人で乗り越える方法を、考えられなかったし考えようとしなかった。
 自分の所為で大切な人を傷付けた罪悪感から逃げたくて、手を離すことでしか、相手の幸せを願い続けられなかった。そういう関係だったの。
 その時点で、いつかは、別れる日が来てた」

 伏せられた目からは、そこにどんな感情が秘められているのかは、読み取れなかった。

「無責任だし、私こそ自分勝手に価値観を押し付けてるだけなんだろうけど。でもね、今度こそ守も、自分自身のために生きてほしいの。傲慢に、自分の人生を。

 その先で、過ちを犯しても手を離さないでいられる相手がいたのなら、その人と、どんな困難でも乗り越えていくべきだと思う。今度こそ、手を離さないで、どこまでも、遠くまで。

 私にとっては、それが由貴だった。『桜ノ宮に来てくれたら付き合う』だなんて。傲慢にもほどがある。でも、そうしてでも、離れたくなかった。由貴はそれに、応えてくれた」

 彼女は天井を仰ぎ見た。

「……私ね、凄く、たくさんの人に愛されてきたんだなって、自惚うぬぼれではなく感じるよ。恵まれてると思うし、本当に、幸せな日々だった。それは、変わらない。

 でも、それがずっと続いていくわけじゃない。変わっていくの。形を変えていくの。
 いつまでも過去に浸って目を瞑っていたら、それに気付けない。刮目かつもくしないと」

 言葉に反して、眠そうに瞬きをしていた。

「……少し、寝させて」

 体を少しずらして、瞼を閉じた。

「はい、休んでください」

 一定のリズムで呼吸が聞こえる。ボクの言葉は、届いていただろうか。

 告白した時に言われた言葉と、ボクを好きになった理由を、思い出していた。

『私の愛は希薄だから、寂しい思いをさせるかもしれない。けど、もし追いかけてくれるなら、一緒に歩んでくれるなら、絶対に、手を離さない』

『絶対に私の手を離さないで、握り返してくれるところ』

 あの時から、叶羽さんは、守さんではなくボクを選んでくれていたのだ。

 なぜ、疑ったりしてしまったのだろう。

 叶羽さんが守さんを想っていたのは、ただ、彼の幸せを願っていたからだ。

 無責任な願いでも、自分とは掴めなかったその安寧あんねいを、十五年の時を経て手に入れられているのか、気に掛かっていただけだ。
 それなのに、ボクは……。

 子供に愛情を注げない親がいる一方で、過度の愛情を注いでいる親がいる可能性にも、思い至らなかった。

 愛していたら、何をしてもいいわけではない。
 人を傷付けるのも、己を犠牲にするのも、愛を理由にしてはいけない。
 それなのに、ボクは……。

 何が、「自分の存在を深く刻み込むため」だ。こんな発想をするボクの方が、十分に危険人物ではないか。

 それに……あの時ヽヽヽ、あんなに必死で叶羽さんを探していた人が、犯人であるわけがなかった。

 ボクが叶羽さんと初めて会ったヽヽヽヽヽヽのは高校生の時だけど、ボクが叶羽さんを初めて見たヽヽヽヽヽのは、小学生の時だ。

 どうして、思い出せなかったのだろう。

 鎌倉の街の中で独り、息を乱して、不安でいっぱいで、なのに誰かに頼ろうとせずにいた、守さんを。

 子供のボクに話を聞くのに、わざわざしゃがんでくれて、一緒に探そうか言うおじいちゃんとおばあちゃんの申し出も、ボク達のために断って、一人で抱えてしまうような、あの人を。

 あの時ボク達が一緒に探していたら、彼の心の負担は減っていたのではないだろうか。
 それなのに、ボクは……。

 病院で彼を引き留めたのは、後ろめたさからだ。
「婚約者」なんて肩書を軽々飛び越えるだけの心の繋がりが、二人にはあった。

 理屈だとか論理だとかで説明できなくても、心の傷という、他人には安易に触れることができない奥底の部分で、きっと二人は繋がっていた。

 このまま叶羽さんと一緒に生きることを他の誰かに譲るのは、簡単だ。

 でも、彼女が、ボクが過ちを犯しても手を離さないでいてくれるなら、ボクだって、その手を離したくない。いや、多分、小さな過ちは、既にたくさん犯してしまっている。それでも彼女は、ボクと生きることを選んだ。

 ボクは決して、叶羽さんの傲慢に付き合って同じ道を辿ったわけではない。

 ボクが傲慢に、叶羽さんと一緒に居ることを望んだから、今ここに居る。
 これからも、それが赦されるなら――。

「風邪引いちゃいますよ」

 小声で呼び掛けてみるが、反応がない。
 ブランケットを広げて、彼女の体にそっとかけた。

 その隣に並んで、彼女の肩に手を置いて、寝かしつけるように、一定の感覚で軽くポンポン叩く。

 彼女は今、過去を想い眠りについているのか、未来を想い眠りについているのか。
 その瞼の裏に、誰を見て、何を想っているのだろう。

 何でもいい。
 もしかしたらこの寝顔を壊していたのは、ボクなのかもしれないのだから。

 ボクが、彼女を刺していた可能性だってある。何をおもっているのかわからない彼女に、ボクという存在を刻み込むために。叶羽さんを愛しているからという理由で。

 手のひらに当たるブランケットの柔らかさが、心地いい。
 ブランケット越しに、彼女の躰温ぬくもりが伝わってくる。
 優しい吐息が、眠気を誘う。

 瞬きの回数が多くなってきたのがわかる。
 瞼が重い。視界が狭くなる。

 ……少しだけ。少しの間だけ……。
 目の前が暗くなる。何も見えない。

 それでも、目覚めた時には――。



 刮目せよ。
 愛は、盲目なのだから。


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