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玉砕パティシエ小豆田⑧
Mémoire 4
都と交際を始めて、『FUKUSHI』がオープンして、結婚して、気付いた。
都は、食に無頓着なところがある。
彼女はフリーのイラストレーターなので、家で仕事をしている。だから、好きな時間に好きな物を食べられる。
なのに、仕事に没頭して、食事を摂るのを忘れる時がある。
忙しい時は空腹に気付いても食べないことがしばしばあった。
食に関心が無いわけでなく、料理をする、という時間が惜しいらしい。
しかし掃除は好きで、無心で埃を取ったり拭いたりする行為が、頭の中を整理するのに丁度いいそうだ。
ただし、自分のデスク周りは大抵荒れている。使用する画材――コピックを何度も出したりしまったりするのは、手間になるらしい。一見机に乱雑に置かれているように見えるけれど、その時使用する順に並べられているようなので、僕も彼女の仕事道具にだけは触れたことがない。職人のこだわりというのは、なんとなく理解はできても、その職人にしかわらかないものである。
ちなみに仕事が一段落すると、広げっぱなしにされていた画材は、虹のように綺麗に収納されている。コピックに記載されているBやYなどのアルファベットはブルーやイエローなど、色の頭文字から取られていて、アルファベットの後ろに記載されている13や54などの数字は色の濃さで、大きい数字になればなるほど濃くなるらしい。それをもとに並べているようだ。
僕は家事の中では料理が一番好きだ。煮たり焼いたりしながら、どの順番で食材を入れて、どのくらい調味量を加えるか、そういった手順を考えるのが楽しい。実家が和食屋だったら、洋食屋になっていたかもしれない。元来、食べ物を調理するという行為が好きなのだ。
そういうわけで、僕達の家事分担は自ずと決まった。
店が休みの時に惣菜を作りおきして、朝簡単に主菜と味噌汁を作っておくと、都は忙しくてもきちんと食べてくれるようになった。
「千歳と暮らすようになって、太ったんだけど」
「太ったんじゃなくて、戻ったんじゃないの?」
同棲を始める前は、一日一食に近い生活をしていた日も珍しくなかったと聞く。
「あんまり美味しい物作らないでくれる? 食べ過ぎるから」
「都はこれまで食べなかった分食べた方がいいよ」
理不尽なことを言われることもしばしばあった。
結婚したらこれまであまり会えなかった分、二人だけの時間を噛み締めながら幸せな毎日を送られると思っていた。
しかし、現実はそうでもなかった。僕は七時には店に着いていないといけないから、都が寝ている間に家を出ることになる。夕食時の十九時に営業が終了して、そこから売り場が片付け作業になるから、基本的に夕飯も別々で食べる。帰宅しても都は部屋で仕事をしているから、家事を済ませたらそのまま就寝。
彼女と顔を合わせるのは、定休日の二日だけだ。
そうやって、同じ家にいるのに会わない時間を重ねる度に、何かがすれ違っていった。
もっと穏やかな結婚生活になると想像していたのに。
それを柏森くんに何気なく吐露した。
「都さん、ずっと家で一人なんだろう?」
「まぁ。打ち合わせがある時は出てるけど」
「お前はこうやって職場の人間にでも愚痴れるけどな、都さんは今でもずーっと一人で仕事だけに向き合ってなくちゃいけないんだよ。社会、というか他者との繋がりから断絶された生活っていうのは、想像するよりも何倍も孤独なんだよ。経験してない俺達はその孤独を受け止めるくらいしかできないんだから、そこは対話して向き合え」
「朔乃さんもそういう時期があったの?」
「産休育休で、家で子供と二人きりの時間が多くて、精神的な負担が大きい。俺の仕事の融通が利かんから、アイツに我慢させることが多い」
「それは僕の方こそすみません……」
「その分しっかり働こうとも思うし、以前よりも話すことの大切さを学んでるよ」
一歳しか変わらないのに、結婚して一児の父である柏森くんは、妙に達観しているところがある。
初めて会った時は同い歳か少し下なのだと思っていたけれど、話してみると歳上なのだと感じる瞬間が多々ある。
「家事育児を完璧にやっていつでも笑ってる女と結婚したくて都さんと一緒にいるわけじゃ、ないだろ?」
そう諭されては、反論できない。
振り返ってみれば、同じ建物内にいても、居るだけ居て、互いのことなんてそれ以上知ろうとしてなかった気がする。
まだ結婚前の方が、相手を知りたくて、会話にそれとなく探るような質問を混ぜていた。
すぐそこに彼女が居るからと、そんな細工のような努力を、僕は怠るようになっていたのかもしれない。
いや、細工なんてしなくてもいい関係性になったから、それに甘んじていたのかもしれない。
話したいことがある。
そう言うと、彼女は強張った表情で座った。
「都は、ずっと家に居るの、しんどい?」
「……どういう意味?」
「ストレス溜まってるのかと思ってね。僕の作った物じゃなくて、外食したい時はして来てもいいし、友達と会いたい時は会って来てもいいからね。仕事の日はずっと一人きりにさせてるし――」
話している間に、彼女の表情はみるみる歪んで、しまいにはボロボロ泣き始めた。
なぜこのタイミングで。
彼女が泣いている理由を考える方に思考を奪われ、話そうとしていた言葉は脳内から飛び去り、口角が引き攣ったまま静止してしまう。
「ごめん、違う。違うの」
それだけを言うのがやっとのようで、顔を手で覆い、首を仕切りに左右に振っている。
何度もしゃくり上げて、いっこうに落ち着く気配がない。
その姿を見て、初めて会った――仕事が飛んで一人で泣いていたという、あの日のことを思い出した。
その時の彼女の生活なんてわからないけれど、誰もいない部屋でだけ、思い切り泣けていたのであろう。感情を露わにできたのが唯一、一人で暮らしていた家の中だったのだろう。
外に出る時はきっちりと身だしなみを整えて、愛想の良い笑顔を浮かべて、どんな要求をされてもその表情を保っていたのだろう。
そんな彼女が、外で戦うための着飾った見た目と、物事を平和かつ円滑に進めるための笑顔という鎧を、唯一脱ぎ捨てられる家という空間で。僕と住み、ボロボロになった姿を晒している。
それが、たまらなく愛しく感じた。
そして、それにようやく気付いたことに、罪悪感を覚えた。
自然と彼女に伸びた腕は、義務感なのか、後ろめたさなのか。
そういう後ろ向きな感情が混じっていたとしても、愛情も含まれていたと信じたい。
「千歳が悪いんじゃない。いつも八つ当たりしてごめん」
ようやく喋れるようになった彼女は、ゆっくりと、途切れ途切れに話し始めた。
「生活に不満があるわけじゃないの。ご飯いつも本当に美味しいよ。ただね。
友達に会っても、出社しなくていいし、上司に付き合ったり後輩の面倒みなくていいから楽だよね、って言われたりするし。親からは家に籠もって絵ばかり描いてるから出会いがないとかチャンスを逃すとか子供もできないとか、だからアンタだけ遅れるとか言われるし。〆切があるのに良いアイディアが浮かばなかったりするし。
そういうの全部、言ったところでわかってもらえないし、言ったところでどうにもならないし――」
話の前後関係は、ほぼ無かった。
それは特定の何かの事柄にかかっている言葉というよりも、生活していく中ですれ違ってしまった価値観や、些細で漠然とした不安感や孤独感に近い気がした。
彼女は合間合間に「ごめん」「千歳には関係ないのに」といった類の言葉を挟む。
思えば交際前も、遠慮する姿勢が、常にあった。
「千歳は新作のケーキが思い浮かばない時って、どんな感じ?」
「どんな感じ、って?」
「私はね、頭の中に線画がいくつかあるんだけど、その黒い線が彷徨って、次第に絡み合って、ほつれた糸みたいなのができる」
想像していたよりも、随分と感覚的だった。
「んー、僕は思い付いたものをいろいろノートに書いていくからなぁ。思い浮かんだ味の構成を書き出して、ケーキのイメージ図も描いてみて、味を想像して、そこから試作を作っていくけど……。これの前段階ってことだよねぇ……。柏森くんに相談することが多いかなぁ。そこから新しいアイディアが浮かんだり」
何かを創り出す者同士、少しでも彼女に寄り添えるかもしれないと思ったけれど、僕と彼女とでは置かれている状況が違う。口にして、それに気付いた。
彼女もそれに気付いたのか、力無く「そっか」と呟いた。
「あぁ、でも。店持つ前は、一人で悶々としてたな」
「それって『FUKUSHI』ができる前に働いてたとこ?」
「うん、ちょうど都と出会ったくらいの時期」
「千歳でも一人で悩むことあるの? ヨウの分子を持つ人間なのに?」
ヨウ? 妖? 都は僕のことを人間ではなく妖怪か何かだと思っているのだろうか。
「普通にあるよ。僕の中で洋菓子って凄く特別な物だけど、他の人にとってはそうじゃないのかな、って悩んでた」
都は少し首を傾げた。
「僕にとってお菓子は……、そうだなぁ……、例えるなら、ジュエリーみたいな存在、かな」
僕の目をじっと見つめて、都は僕の話を聞く。
「誕生日やクリスマスプレゼント、形見分け、そういう場面で、ジュエリーって出てくるでしょ? 洋菓子はそういう特別な瞬間の食べ物って印象が強かったからね。勿論、人によってはそこに和菓子があっただろうし僕の実家もそうだったけど、簡単に手が届かない分、憧れが強かったんだね。それをハレの日だけでなくケの日でも食べられたらいいな、って。都も出掛ける時ネックレスとかイヤリングとか着けてるでしょ?」
「千歳、アクセサリーとジュエリーは違うよ」
「え?」
「アクセサリーは、イヤリングとかネックレスとか指輪とか、その他装飾品の総称で、ジュエリーもその中に入ってはいるよ。でもジュエリーは、地金に金とかプラチナとか良い物使って、宝石も色とか輝きとか高品質な物を使ってるの。だから、私が普段着けてるのは、アクセサリーであってもジュエリーではないの。私が着けてるのは、パールはアクリルビーズで軽いし、石もキュービックジルコニア。地金もただの金属だし、メッキ加工されてるものだったり、」
「……」
「千歳、私が婚約指輪はいらないって言った理由、よくわかってなかったでしょ」
「指輪は着けないからだと思ってたんだけど……」
「婚約指輪は品質の良いダイヤとか、ブリリアントカットっていう、ダイヤモンドの輝きを最大限に引き出す特別なカットが施されてるものとか。まぁ、そういう理由でね、値段が高いの。結婚指輪より」
「さ、左様でございますか?」
「勿論ピンキリだけどね。でも私達が結婚指輪買ったところだと、確実に婚約指輪の方が高くつくよ。私達二人とも、収入が安定してる職業じゃないからね。これからのことにお金を取っておきたかったの」
結婚式もしなくていい、と言っていたのは、彼女が両親と折り合いが悪いからだと思っていた。婚約指輪もウエディングドレスも、彼女が望まないならと見送った。しかし、彼女なりに僕との生活を考えていたのだろう。
そこまで言って「ごめん、話の腰を折っちゃったね……」と言った。
「でも、千歳にとってお菓子が特別なものって言うのはわかった! その、つまり、ジュエリーだからって特別な日だけ着けたり贈ったりするんじゃなくて、日常でも好きな時に自分で買ったり身に着けたりして特別にしちゃえ、ってことだよね?」
「うん、まぁ、そうだよ」
彼女の感性のおかげか、言いたいこと自体は伝わったようだ。
「でも他の人、この場合はお客さんかな? は、千歳と同じ熱量でお菓子について考えてるわけじゃないのかもって悩んでた、ってことね!」
続けて焦ったように、彼女は僕が悩んでいたことに対する理解を示した。
「その悩みは、どうやって解消したの?」
「……原点を思い出しただけだよ」
大失敗をしたわけではないのに、なぜか精神的なダメージを負っていた。空気が抜けるように、言葉が出ていく。
「自分の作るお菓子で、人を幸せにしたい、って。都の笑顔を見て思い出した」
音が消えた。
いや、ある。時計の音、冷蔵庫の機械音、マンションの上の階から聞こえる物音。
音が無くなったのではなく、都が沈黙しているのだ。
それと同時に、はたと気付く。
自分が今、何を言ったのかを。
「いや、ちょっと待って、」
何を待ってもらうのだろう。
自分の発言内容の意図さえ、わからなってきた。
家の中だから眼鏡を掛けていたのに、それすら忘れて火照った顔を隠すように片手で覆い、もう片方の手を都の視線を遮るように翳す。視線も合わせられない。なのに、彼女がこちらを見てニヤついている――と言ったら本人は怒る――のがわかる。
「千歳ぇ、その顔外でしちゃ駄目だよ?」
遮った手を擦り抜けて、顔を覆っている手を避けて、指先が頬にツンツン触れてくる。そのわずかな面積から、熱が伝わってしまいそうだ。
「こらこら触らない!」
「とってもマヌケ。ただでさえふわふわしてるのに、ますますオーナー店長として威厳が無い」
彼女の手を退けようとして、手のバリケードが形を崩す。その拍子に手の隙間から、案の定都のニヤニヤ顔が見えた。
精一杯の反撃で睨んでみようとするが、目元に上手く力が入らない。
「……しないよ」
するわけが無い。
なのに、彼女はその視線から僕を逃してくれない。
「しないから。……もう僕の話はいいだろう」
その言葉でようやく満足したのか、僕を一度視界から外した。その間に一息吐く。なぜかドッと疲労感が押し寄せた。
「私も、たまには初心を思い出すようにしようかな」
「そういえば都は、何でイラストレーターになったの?」
「さ〜て、なぜでしょ〜」
「……ズルい」
正直、悪戯っぽく笑いながら陽気に答える都を見て、理由はどうでもよくなった。
何かが解決したわけではないし、僕が解決できる問題でも、手助けできる問題でもない。
これからもきっと、彼女は独りで悩み苦しむ瞬間が訪れる。
それでも、彼女の中に溜まった毒を抜ける存在が僕であるならば、少しでもその役割を全うしたい。
「都が仕事中に息抜きできるようなお菓子でも作ろうか?」
一瞬「え!」と嬉しそうに笑ったが、
「あー、でも、私ずっと家に籠りっぱなしで動かないし、千歳の作る物美味しいから、ちょっと……。もう代謝がいい年齢でもないし、カロリーとか……」
「ヘルシーな物ならどう?」
「野菜を使ったお菓子ってこと?」
「お菓子に使う砂糖って、上白糖を使うとしっとりして、グラニュー糖を使うと軽い味わいになるんだ。でも、この二つの白い砂糖は、生成過程で他の栄養素を無くして、甘み成分だけを残してるんだよ。だから、この砂糖を替えるだけでも、味わいは変わるし、カロリーも変わるんだ」
へぇ、と関心したような声が聞こえた。
「罪悪感が少なくて美味しいお菓子、作るね。それで、たまには頑張る自分を甘やかしてね」
僕では完全に理解はしてあげられない、たくさんの漠然とした不安を抱えているであろう彼女の頭を、優しく撫でた。
手が離れた時に、少しでもその不安が出ていくことを念じて。
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