見出し画像

玉砕パティシエ小豆田⑦

四.君に贈るヨーグルトムースシトロン

 ケーキを食べたいがために自らパティシエとなった小豆田さんは、別に和菓子が嫌いというわけではないらしい。和菓子の方が馴染みもあるし、むしろ普段扱うのが洋菓子な分、和菓子が恋しくなる時があるのだとか。

 それ故、職場に持ち込むお菓子はほぼ和菓子だそうだ。箱買いしては従業員に配るのも珍しいことではないらしい。私も今日の終業後、和菓子といえば一番に名前が挙がる『東宮とうみや』の羊羹をもらった。
 着替え終えた後、皆で羊羹の包を開封してもひもひ食べている中、小豆田さんが呟いた。

「和風のケーキでも作ってみようかなぁ。抹茶ベースの生地に生クリームとあんを挟んだりして」

 わらびさんと柏森さんが続く。

「だったらいっそのことスポンジ生地に羊羹を突き立てたケーキなんていかがでしょうか? フレーズシャンティのイチゴを羊羹に変えるんです。色合いが寂しくなる分二段にしてウェディングケーキっぽくするなんてどうですか? 名付けて、『結婚は墓場ケーキ』」

「羊羹で墓石を表現しているのか。悪くないかもな。文字なら俺が彫る」

「僕の名前彫ろうとしてるでしょ」

「『わらび』は曲線が難しいし『甘樂あまら』はとにかく画数が多いからな。『小豆田』はシンプルだし画数も少ない方だし」

「君達と一緒にしないでくれ」

 多分この人達、暑さで頭がおかしくなっている。

 しかし、無理もない話だ。

「日本の四季」と聞けば、初夏は薫風が吹き抜ける爽やかな緑の季節、梅雨はしとしとと降る雨を縁側で見つめて大人しく過ごし、梅雨が明けると、太陽が燦々と輝く夏に活力がみなぎる。などと彩りのある想像をしてしまうが……。

 現実は、桜が散ればもう夏が来たのかと錯覚する、二十五度超えの日が続くことは珍しくない。つまり、五月から暑さを感じるのが、近年の日本の四季なのだ。梅雨がくればジメジメと湿気が多く、息苦しい空気の中で毎日を過ごし、梅雨が明ければ湿気はそのままに、灼熱そのものの太陽の光が地上に降り注ぐ。

 店内も五月でも夏日には冷房を入れている。令和になってますます異常気象は増加し、五年目の今年も絶好調に気温が上昇している。しかし、営業中はあまり人が出入りすることがないバックヤードでは、冷房は点けていない。

 業務後の疲労した体、蒸し暑い室内。思考回路がバグを起こしても、不思議な状況ではない。

 ちなみに羊羹は厨房に避難させられていたらしい。よく柏森さんが許したなと思ったが、『東宮とうみや』なら仕方がない、と言っていた。さすが『東宮とうみや』の羊羹だ。

「結婚は墓場ですよ。そもそも何で結婚なんて制度作っちゃったんだろう。無い方が皆幸せになれそうなのに。ね、燈架さん」

 このタイミングで話を振られるとは思っておらず、内心「ええぇ」と思いながら返答する。

「まぁ……、『結婚しないと』ってプレッシャーからは、解放されますよね」

「え? そうなの? てっきり燈架ちゃんくらいの歳の人達って、『結婚するしないは個人の自由』って考えが強いのかと思ってた」

 小豆田さんが意外そうな顔で食い付いてきた。

「その辺り、個人差があると思いますよ。家族の考えとその人本人の価値観もありますし。私は三十までには結婚したい派だったんですけどね」

 残念ながら、その思いは虚しく散った。
 自分は尚登の、否、伊田いだ君の「特別」にはなれなかったのだという現実は、やはり辛い。しかし、価値観が違っていた相手と結婚する前に別れたことは、ある意味で良かったのかもしれない。そう割り切るしかない。

「はぁ〜、なるほどねぇ……」

 そう言って残りの羊羹を頬張り、納得したように私を見つめた。

「やめた方がいいですよ燈架さん。自分の年齢に縛られるのなんて。『女は若い方がいい』なんて、十代の未成年相手に鼻の下伸ばすような男の価値観ですよ? そんなのに自分を合わせなくていいんです。そういう男はロクでもない奴なんですから。クソ食らえですよ」

「コラ。食べ物を扱う店なんだから、クソなんて言うな」

「もー! 柏森さん今度飲みに行きましょー!」

 わらびさんの羊羹にだけお酒でも入っているんじゃないだろうか。

 制した柏森さんに対しても、怒っているのか泣きたいのか、よくわからない声色と表情で叫んでいた。ここまで感情を剥き出しにしているわらびさんにどう対応したらいいかわからなかったが、慣れているらしい柏森さんは「はいはい、わかったわかった。今は大人しく食え」となだめている。その間に小豆田さんにこそっと聞いてみた。

「この羊羹、お酒入りですか?」

「んーん、全く。普通の美味しい羊羹だよ」

「わらびさん、どうしちゃったんでしょうか。最近ずっとこんな調子でしたが、今日は一段と激しいというか……」

「まず、いつからわらびちゃんの様子がおかしくなったか、覚えてるかな?」

 おっとりにっこりしている彼女が、バックヤードで不貞腐れるようになったのは、確か……、

「岸田様にフォレノワールの謎を明かしてから?」

「じゃあ次に、僕達は今、何について話してた?」

「……えぇ、わらびさん、結婚に何か怨みでもあるんですか?」

 岸田様が幼馴染からプロポーズ紛いのお返しをもらったとわかった時、彼女は驚愕というより、嫌悪に近い表情をしていた。

「わらびちゃーん! 燈架ちゃんが、結婚に怨みでもあるのか、だってー」

「ちょ、ちょっと待ってください! 本人に聞ける雰囲気じゃないから小豆田さんに聞いたのに!」

 私の抗議も虚しく、わらびさんが私をジッと見る。長めの沈黙の後、

「………………わたしの夫は最低最悪のクズでクソ野郎なんです‼」

 と言い放って両腕に顔を埋めるようにして机に突っ伏した。

「こらこら、わらびちゃん。さっき柏森くんから注意されたでしょ」

「小豆田さんは黙ってください! いつも小豆田さんの玉砕茶番に付き合ってあげてるのは誰ですか!」

 付き合おうだのデートしようだの言っては、辛辣に断わられている、あのやり取りだ。

「あれは茶番だったんですか?」

「だから甘樂、小豆田は不治の病なんだ。『わらびは絶対に自分を好きにならない』とわかっているから、毎日のようにあの茶番に付き合わされている」

 それを聞いて思ったのが、「では、私に対しては何だったのか」なのだが、聞ける空気ではない。

 机に突っ伏した状態で、離婚したい一人になりたい旧姓に戻りたい、と言い始めたわらびさんは、次第に涙声になり、愚痴も言えないくらい本当に泣き出してしまった。

 そんな彼女を「羊羹もう一個あげるから」「今度マティーニ奢ってやるから」「離婚したら離婚おめでとうケーキ作ってあげるね」「XYZで祝おうな」と小豆田さんと柏森さんで慰めている。が、慰めも虚しく、

「小豆田さんなんて嫌いです! 出てってください!」

 泣きながら叫んだわらびさんの言葉を聞いて小豆田さんは、眉毛を八の字に垂らして小文字のオメガ記号の口をした顔文字みたいな表情をした。その顔で机に突っ伏して大泣きするわらびさんを見つめた後、

「じゃあ柏森くん、今日は戸締まりお願いね」

「あぁ、わかった」

「じゃあ燈架ちゃん、僕達は先に出ようか」

 本当に荷物を纏めて店を出てしまった。


 二番目に偉い柏森さんに追い出されるなら、新人の私でもまだわかるのだが。ただの一従業員に追い出される店の持ち主である彼は、それらしい威厳は確かに無かった。

 鍵は小豆田さんと柏森さんがそれぞれ一つずつ持って管理しているらしく、荷物を纏めてから何事もなかったように店を出た小豆田さんと、二人で歩く。先程の嵐のような場面との温度差の所為か、夜の暗がりで落ち着いた街中で並んで歩くのは、少々気まずく感じた。何か会話がほしくなり、思い付いたことを話してみる。

「わらびさん、大丈夫なんでしょうか?」

 わざわざ自分で蒸し返すだなんて。
 これという世間話が思い浮かばない自分の会話の引き出しの無さを呪いたくなった。

「あれでも随分と良くなってるんじゃないかな。誰かに愚痴を言えるんだから」

「最初は違ったんですか?」

「初めて会った時は、目を見て話せなかったし、あまり会話しようともしなかったし、笑いもしなかったし。柏森くんなんて、怖がられてたからね」

 今のわらびさんとは、別人のようだ。本当に、今聞いたのが、過去のわらびさんなのだろうか。
 なんとなくそれ以上聞くのは躊躇われた。

 小豆田さんは店を追い出されたことなど気にしていない様子で、頭の後ろで手を組み、少し上を――空を見ながら歩いている。その所為か、服がいつもより体に密着して、ネックレスのペンダントトップの形も浮き出ていた。

「……小豆田さんのネックレス、知恵の輪みたいな形してるんですか?」

 輪のような形をしているけれど、複数の輪が重なり合っているようだ。それを見て、昔一時期流行った知恵の輪が脳裏を過った。サンプルで店に出ていた物の中には、必ず輪が重なり合ったタイプの物が一つはあった。

「知恵の輪じゃないよ」

 私の発言に笑った小豆田さんは、組んでいた手を解き、首元のチェーンを手繰り寄せて、ペンダントトップを引き出す。

「指輪だよ」

 見ると、シルバーに光るシンプルな指輪が二つと、水色の石が付いた指輪が一つ、チェーンに通されていた。

 装飾が無いタイプは片方が大きくて片方が小さい。水色の石が付いた物は、その二つよりもはるかに小さい。

「この一番小さいの、指輪なんですか? これ、女性でも入る人ほとんどいないくらい小さいと思うんですけど……」

「大人用じゃなくて、子供用だよ。べビーリングって聞いたことない?」

「ベビーリング? 赤ちゃん用の指輪、ですか?」

「うん。ヨーロッパでは『銀のスプーンをくわえてきた赤ちゃんは幸せになれる』って言い伝えがあるみたいなんだ。銀のスプーンは裕福な家庭の象徴だったから、『子供が食べ物に困らない、幸せな人生を送れるように』って願いを込めて、銀のスプーンを贈る習慣があったみたいでね。それがベビーリングの由来になってるそうだよ」

 わらびさんが大泣きし始める前――結婚は墓場ケーキの話をしていた時、確か彼は言っていた。『君達と一緒にしないでくれ』と。

「……小豆田さん、結婚して子供もいたんですか?」

「生まれてはいないんだけどね」

 そう言って、チェーンで重なった三つの指輪を眺めている。

 接客用の綺麗に整った笑みでなければ、従業員の私達といる時に見せる笑みでもない。
 穏やかで、隙だらけな、そんな笑みだった。

 ……いや、注目すべきはそこじゃない。この人、妻とこれから生まれる子供が居ながら、なんとやっかいな病を患っているのだろう。

「……一つは小豆田さんの結婚指輪ですか?」

「職業柄、着けていられないからね」

「あと一つって……」

「僕の妻のだよ」

 本当に既婚者で、しかもこれから父になる人だった。
 なのにあんな病を患っているとは……。
 他にもツッコミたいところがある。

「……何で奥さんの指輪を、小豆田さんが持ってるんですか?」

 結婚指輪とは、普通、それぞれで身に着けたり保管するものではないのだろうか。

 小豆田さんは職業柄指輪を着けられないから、代わりにネックレスとして身に着けておくのはまだ理解できる。まだ生まれていない子供のベビーリングも一緒に身に着けているのも、まだ納得できる。

 しかし、奥さんの分まで持っているとなると、奇妙な話だ。

「会えない代わりかなー」

 そう言って腕時計を確認していた。
 時刻は二十時半過ぎ。

 パティシエ組は夕方頃から明日の仕込みを行い、その後厨房の掃除を行う。鍵の管理や防犯の関係上、売り場の掃除やバックヤードの掃除も終えてから、全員で店を出ているため、帰りが遅くなる。休憩時間はあっても昼休憩のため、夕食はこれから摂らなくてはならない。

 だからといって、翌日の出勤時間が遅くなるわけではない。その日のケーキを焼き上げるために、パティシエ組は七時には店に到着していないといけないらしい。『FUKUSHI』はパティシエ二人のため、前日の仕込みも朝の準備も忙しい。

 結婚して一緒に住んでいるとしても、顔を合わせる機会は、定休日以外だとほとんどないのかもしれない。奥さんは妊娠中のようだし、疲れて早く寝ている日もあるだろう。

「このチェーン、ちょうど指輪が心臓と同じくらいの位置にくるんだ」

「それがどうかしたんですか?」

「自分の心臓の鼓動が指輪に響いてさ、『あー、生きてるー!』って思えて、とても良いんだよね」

 そう言いながら指輪を服の中に戻して、心臓を押さえるようにして、一緒に指輪も押さえている。目を閉じて、満足そうに微笑んでいる。

 この光景、どこかで見たことがある気がする。
 わらびさんが小豆田さんを辛辣にあしらった時と、非常によく似ている。
 そんなことで己の生を確かめるだなんて。

 普通の人にはわからない、かなり変た……、いやいや、特殊な感覚をお持ちのようだ。


 翌日、わらびさんはいつも通りの笑顔で「おはようございます」と挨拶をしてきた。目が腫れている様子もない。昨日の出来事が全て嘘だったような復活ぶりだった。「昨日、志音しおんちゃんがSNS配信してくれたんですけど、映画出演が決まったそうなんですよ!」とも言っていた。

 彼女が推している志音は、写真投稿に特化したSNSで宣伝、告知、その他プライベートも少しだけ投稿している。プライベートの投稿は、モデル仲間の紫乃しのと、一般人の友人の手だけが写った写真――つまり、二人プラス手の写真が多い。

 話を聞いていると、オタクや推し活をファッションにしている時代に乗ったファンではなく、十年ほど前から推しているコアなファンのようだ。

 本当に、見た目はキラキラリア充なのに、生活から漂ってくるのは、「それとは逆」だ。

 あまりにも元通りすぎて、私の記憶だけ他の人のものと違うのではないかと、逆に怖くなった。本人に聞いて、また泣き散らかす事態になっては業務に差し支えるから、柏森さんに訊ねてみた。

「わらびさん、もう大丈夫なんですか?」

「一通り愚痴を吐かせて気が済むまで泣かせたら、だいたい治まる。いつものことだ」

 私だけパラレルワールドを生きていたわけではないようだ。

「いつも……?」

「あぁなると大抵小豆田は追い出される。まぁ、ちょうどいい話し相手が俺しかいないんだろう」

 昨日、結婚は墓場ケーキの話で、小豆田さんの名前を彫ると言っていたのを思い出す。

「……柏森さんは、墓場側の人間なんですか?」

「人を死んだみたいに言うな」

 見るだけで真面目だとわかる彼の顔が、気難しそうに歪む。

「あと、俺はわらびほど酷い結婚生活ではなかったからな。ただ、価値観の違いに気付いて、話し合った上で離婚しただけだ」

 店名の由来は、どこへ消えてしまったのだろう。

 バツイチのスーシェフ、泣き喚くほど不幸せな結婚をした販売員。そんな私も人のことを言えない。結婚を考えていた彼氏に浮気されてフラれた新人だ。

 幸福が始まる気がしない。
 希望は、これから子供が生まれる予定の小豆田さんだろうか。

「……結局、あれからどのくらいで治まったんですか?」

「一時間くらいだったかな」

 今日も仕事が朝早くからあったのに、彼は最後まで彼女に付き合ったらしい。

「……お疲れ様です。お先に失礼して、すみませんでした……」

「気にするな。俺も別に苦じゃない。誰かが毒抜きしてやらんと、わらびもしんどいだろ。その役目が俺でいいなら、いくらでも付き合うさ」

 この店で一番歳上なのが柏森さんで、年齢は不明だが、恐らく一番歳下なのがわらびさんだ。
 二人で飲みに行くこともあるそうだ。兄と妹、はたまた父と子のような関係なのだろう。

「甘樂も、しんどい時は誰かに言えよ。その相手が俺でいいなら、いつでも付き合ってやるから」

 わずかに微笑んだ彼は、そのまま厨房へ消えた。

 価値観の違いで離婚したというのが、勿体ないと感じた。
 これは、第三者のエゴにすぎないのだろうけど。


 その日やってきたお客様は、一見ごくごく普通のお客様だった。

「あの、カロリーが低いものは、どれになりますか?」

 歳は、私よりも少し下くらいだろうか。二十代後半に見える。身長は平均より少し高い。
 ベージュのプリーツのロングスカートに白いブラウス。ヒールの無いパンプス。
 クセなのか、緩くウェーブのかかったショートボブの黒髪の女性だ。ぱっちりとした目がこちらを見上げている。

 新作のケーキが出たら小豆田さんから勉強にと一つもらっているから、味については簡単な説明ができる。しかし、カロリーとなると、私はまだそこまで把握できていない。
 確認いたします、とその場を離れてわらびさんに聞いてみた。

「洋菓子はほとんどに砂糖とバターを使ってるから……。今のラインナップだと、シュークリームが一番低いのかな……」

 そこでうーんと唸り、悔しそうに厨房へ行った。わらびさんでも、はっきりとはわからないらしい。
 少しして、彼女は小豆田さんと一緒に戻ってきた。わらびさんに軽く手で示されたショートボブのお客様を目に留めた彼は、近くまで行き、説明を始めた。

「今出ているものだと、プリンが一番低カロリーになります」

 隣で聞いていたわらびさんが少し目を丸くしながら小豆田さんを見た。そんな彼女に気付いているのかいないのか、彼は付け加えていく。

「シュークリームもカロリーが低い洋菓子になりますが、生地には小麦粉を使用して、中のカスタードクリームも砂糖が入っているため、糖質が高くなります。プリンは主な材料が卵になるため、その分カロリーが抑えられます。ただ、砂糖が入っているので、こちらも糖質が気になるのであれば、あまりオススメはできませんが」

 そこまで言って、言葉を切った。
 ショートボブのお客様は、小豆田さんの顔を真剣に眺めながら、なるほど糖質、と悩むように呟いていた。

 彼の顔を凝視して顔を綻ばせない女性は珍しい。彼は営業スマイルで普通に接客していれば、顔も態度も好印象な人だ。大抵のお客様は自然と笑みを溢す。

「あの……せっかくお越しいただいて、従業員のわたしがこんなことを言うのも失礼かもしれませんが……。洋菓子よりも和菓子の方が低カロリーなものが多いので、カロリーが気になるようであれば、そちらで探されるのはいかがでしょうか?」

「でもね、糖質を見ると、和菓子の方が数値が高いものもあるんだよ」

 話しにくそうに声を出したわらびさんの提案に、小豆田さんが言った。

「和菓子は餡を甘くするために砂糖を使うからね。低カロリーなものが多くても、油断はできないよ」

 そう続けて、ショートボブのお客様に向き直る。お客様はなおも考えている様子だった。
 低カロリーなものを探しているのにわざわざケーキ屋に来た理由を説明するように、彼女の口が動いた。

「プリンやシュークリーム……だと、コンビニでも買えるから、お店でしか買えないようなものを探してたんですけど……」

 ダイエット中のちょっとしたご褒美……、だろうか。小豆田さんが答える。

「カロリーや糖質を気にせず食べる甘味なら寒天がよろしいかと思うのですが……。寒天は海藻からできていて、食物繊維が豊富なので」

 それを聞いて、彼女は困ったように笑った。

「あくまで洋菓子でお探し、ということですね?」

 小豆田さんの問いに、お客様は頷いた。

「カロリーや糖質のことは、正直よくわからないんですけど……。一回くらいなら大丈夫だと思うので、ヘルシーなお菓子があればと思って探していまして……」

「味や食感にこだわりはございますか?」

「特には……」

「いつ頃までにお探しでしょうか?」

「期限も特には……、いや、できれば今月中には……」

 ショートボブのお客様は、何かを計算するように訂正した。

「なるほど……。もしよろしければ、何か低カロリーのお菓子をお作りしましょうか?」

 その言葉に驚いたのは、ショートボブのお客様だけではない。側で聞いていた私とわらびさんも、声は出していないが同様に驚いた。

 今週末には連絡したいから、と小豆田さんは予約票にショートボブのお客様にお名前と電話番号を書いてもらっている。短く切られた爪はオシャレに無頓着というより、落ち着いた服装だからか、清潔感を感じた。左手の小指に、ラベンダーの石が付いたピンキーリングをしている。その細かな意識にも似たコーディネートに、女性らしさを感じた。

 お客様――黒瀬くろせ様に、小豆田さんは別れ際、

「お代は今度お茶でもしていただければ――」

 結構ですので、と続けようとしたのか、「け」がきちんと声になる前に、言葉を詰まらせた。
 わらびさんが胸倉を掴むような手つきで、コックコートの脇腹辺りを掴んでいる。

 対する黒瀬様は「面白い方ですね」と笑っている。そんな彼女に対して素早く「大変失礼いたしました」とわらびさんが頭を下げるのに合わせて、私も頭を下げた。黒瀬様は「お気になさらないでください」と、わらびさんとは違う類のほんわかした笑みを浮かべた。
 彼女は見送る小豆田さんの微笑みに軽く会釈をして、見惚れもせずに店を後にした。

「……小豆田さんって、どうやって自分をフッてくれる相手かどうかを見分けているんですか?」

「僕は陽の分子を持った喋る陰キャだから、陽力でわかるんだよ」

 そう言って颯爽と厨房に戻って行った。

「……今の、とてつもなく意味がわからなかったんですけど」

「小豆田さんの言うヨウの分子って、妖怪の分子のことらしいですよ。ヨウ力も妖怪の力だと思ってるみたいです。インキャは、人語を喋る妖怪だそうです。わたしはそう柏森さんに教えてもらいました」

「やっぱりよくわからないんですけど、人間やめちゃったんですか? というか何で誰も訂正してあげないんですか?」

「今さら誰かが意味を上書きする必要ないんじゃないかって、柏森さんは言ってました。わたしもそう思いますし、面白いので」

 彼女なりの仕返しなのかもしれない。にっこり笑う姿を見て思った。


「わらびちゃんと燈架ちゃんは、ムースとババロアとパンナコッタとブラン・マンジェの違いはわかる?」

 就業後のバックヤード。最後の一つだけ聞き慣れない単語で、脳の働きが一瞬鈍った。

「すみません、最後のだけもう一回言ってもらってもいいですか?」

 聞き返したのは、一度目を瞬かせたわらびさんだ。

「ブラン・マンジェ。ブランは『白い』マンジェは『食べる』っていう意味。見た目もそのまんま、白いお菓子だよ。アーモンドを挽いた時に出るアーモンドミルクが主材料になってるんだ。うちでは取り扱ってないし、他でもあんまり見ないお菓子ではあるね」

「今挙げた四つのお菓子の特徴は、見た目が白いグラスデザート、といったところでしょうか?」

「燈架ちゃん、まぁまぁ正解かな。で、その四つの違いを説明してほしいんだ。違いがわかれば、簡単な説明でいいよ」

 そう言われると、説明に困る。

 ブラン・マンジェは食べたことがなくても、ババロアやパンナコッタのように、見た目が白い、シンプルなお菓子ということはわかった。だが、これらの白いお菓子の違いを説明しろと言われると、何がどう違うのかがわからない。

「……ブラン・マンジェは、アーモンドの風味がある、でしょうか?」

「わらびちゃん正解」

「……自分でヒント言いましたよね」

「二人とも知らないみたいだったからね。これくらいはいいだろう?」

 少し納得がいかないようにわらびさんは口を尖らせた。しかし小豆田さんの言う通り、知らないものについていくら考えても、わかるわけがない。そう思ったのか、切り替えて残りの三つについて考え始めた。

「この中で仲間外れは、ムースでしょうか」

「どうしてですか?」

「燈架さん、これはひっかけ問題だと思うんです。ムースの後にパンナコッタ、ババロアと続いて、今のブラン・マンジェの説明。白いお菓子が三つ並んでいます。それを聞いて、自然とムースも白い状態のものを思い浮かべてしまいますが、ムースは必ずしも白いとは限らないんです。イチゴムース、チョコレートムース、抹茶ムース、色付きのムースはいくらでもあります。だから、ババロアとパンナコッタの違いを考えて、次にムースの特徴を考えた方がわかりやすいかもしれません」

 小豆田さんは楽しそうに微笑みながら私達を見ている。一方で柏森さんは、腕を組んで、何も言わずに静観している。そんな二人を尻目に、私達は思考を続ける。

「ババロアとパンナコッタの違い、ですか……。二つとも最後に食べたのがいつかすら思い出せないんですけど」

「わたしも馴染みがないかもしれません……。でも確か、どちらかがフランス菓子ではなかった気が」

「そうなんですか?」

「パンナコッタはイタリアの菓子だ。パンナは『生クリーム』、コッタが『煮る』という意味だ」

「ちなみにババロアは、もとはドイツのバイエルン地方で飲まれていた、牛乳や卵黄で作ったバヴァロワーズという温かい飲み物だったんだ」

 柏森さんが助け舟を出すように言う。それに続いて、小豆田さんがババロアについての情報を足した。

「パンナコッタは、材料の名前がそのままお菓子の名前にも入っているんですね。生クリームの使用量が多いんですかね?」

「ということは、パンナコッタが一番クリーミーな味わい、ということでしょうか」

 私の言葉を受けて、わらびさんが答えを出す。

「ババロアにも生クリームは入れるけど、卵も使うんだよ。ただし、使うのは卵黄のみ」

「二人が最初に除外したムースにも卵は使うが、卵白のみだ。そしてムースには『泡』という意味がある」

 小豆田さんが追加でヒントを出し、柏森さんは私達が後回しにしてきたムースについての情報を追加した。わらびさんがそれに反応する。

「泡……メレンゲですね! じゃあ、ムースが一番軽い味わいってことか。卵黄を使ったババロアは、コクがある」

 そう言いながら、わらびさんはノートを取り出してメモを取り始めた。

「全く話が変わるんだけどさ、わらびちゃん。素焚糖すだきとうって知ってる?」

「いえ、初めて聞きました。お砂糖の一種ですか?」

のまま焚いた砂糖、って書くんだ。あ、焚くはご飯を炊く方じゃなくて、火を焚く方ね」

 わらびさんはムース、ババロア、パンナコッタ、ブラン・マンジェの特徴を書いた後に、『素焚糖』と書き足した。

「原材料が奄美大島のサトウキビのみを使った、一〇〇パーセント国産の砂糖なんだ。きび砂糖よりもミネラルといった含有量が豊富で、血糖値も上がりにくいから、内臓脂肪の蓄積も防止できるんだ」

 体に良い、ということはわかったのだが、なぜ体に良いのかが、いまいちわからなかった。わらびさんは納得した様子でペンを走らせている。こっそり柏森さんに「どのあたりが体に良いんでしょうか?」と聞いてみた。

「ビタミンとミネラルは代謝を上げて脂肪燃焼を促す効果がある。脂肪をより効率よく燃焼させるのに必要な栄養素というわけだ。
 ちなみに、砂糖は大きく分けると『分蜜糖ぶんみつとう』と『含蜜糖がんみつとう』の二種類になる。分蜜糖は、サトウキビから甘い成分のみを取り出したものだ。白砂糖やグラニュー糖がそれだ。反対に他の成分が残っているのが含蜜糖で、黒砂糖やきび砂糖がこっちに分類される」

「お菓子を作る時に使うのは基本分蜜糖。だから、お菓子は基本的に体に悪い、ってことになっちゃうんですね」

 そういうことだ、と柏森さんにマル印をもらえたことを確認して、わらびさんを見ると、ノートのメモも終わったようだ。

「黒瀬様のお菓子ができあがったら、わらびちゃんが説明して渡してあげてね」

「え、わたしが、ですか?」

「わらびちゃんが接客した方がいいと思うからさ。ちなみに、これをもとに作ろうかと思ってる」

 小豆田さんもノートを私達に見せた。片方のページに「ヨーグルトムース」と書かれた文字と、色が塗られたムースの絵がある。ほんのり茶色く塗られていた。

「素焚糖が茶色い砂糖だから、完成したら真っ白じゃなくて、少し茶色っぽくなるからね」

「通常は上白糖やグラニュー糖を使うから、お菓子の色合いに影響が出ないんですね」

「燈架ちゃんもわかってきたみたいだね」

 わかるように、二人が説明してくれているから、なのだが。
 自力で出した答えのように褒めてもらえると、素直に嬉しい。

 隣のページには、アイディアスケッチなのか、お菓子の名前や構成は書かれおらず、絵だけが描かれている。そして、ヨーグルトムースは色鉛筆で淡く塗られているのに対して、こちらはペンで塗ったようにはっきりとした色で塗られている。

「こっちの絵、ペンですか? ペンって、グラデーションに塗れるんですか?」

「これはコッピクだよ。色塗り専用のペン、ってところかな。だからグラデーションも作れるんだ。家にあるから使ってみたんだけどね、僕じゃ上手く使いこなせないし、僕のノートの使用用途とは向いていないみたいなんだ」

 そう言ってページを捲られた。裏にはインクがしっかり染みている。それで文字を書けないと判断したのか、そのページは飛ばしてから、続きのページが使用されている。

「そういうペンって、イラストレーターとかが使う、専門的な道具じゃないんですか?」

 なぜ、そんな物が家にあるのだろう。
「そうだよ。あ、わらびちゃんがたまに読んでる、神那かんな詩織しおりの表紙とか」

 わらびさんはまだ素焚糖についてまとめているようで、反応が無い。柏森さんも、彼女のメモに間違いがないかチェックするように覗いている。

「神那詩織の表紙って、水彩画なのかと思っていたんですけど、あれはコピックだったんですか?」

「あー、今描いてる一色いっしきりくは確かに水彩画のイラストレーターだよ。その前に描いてた人」

「そういえば、ずっと同じ人が描いてたのに、途中から描いてる人変わったんですよね。最初はきょうみやびさんでしたっけ?」

 神那詩織のファンでは無いが、有名作家がずっと同じイラストレーターに描いてもらっていたのに突然担当が変わったというのは、SNSでファンを中心に話題になっていた。

「惜しい。京都の京って書いて、『みやこ』って読むんだよ。みやこみやびね」

「その人が、コピックで塗ってるんですか?」

「そうそう。一色陸が京雅の作風に寄せて描いてくれてるみたいだけど、作家も道具も変わると、違う印象になるよね」

 SNS上でファンもいろいろな論争を繰り広げていた。しかし、天才イラストレーターと謳われる一色陸が担当となり、喜んでいるファンも結構いた印象だ。今では海外の歌手やアパレルにも作品を提供している世界的アーティストだ。

 小豆田さんはムースとババロアとパンナコッタとブラン・マンジェの違いを考える私達にヒントを与えた時のように、素材の違いを楽しむように彼等を語った。

 しかし、楽しそうな顔のどこからか、少し寂しさが漏れているようにも見えた。


 小豆田さんが作ったのは、レモンのジュレとイチョウ切りにしたレモンを載せた、ヨーグルトムースだった。
 素焚糖を使用しているため、ほんのり茶色みを帯びている。淡さを感じる優しい甘さがあるヨーグルトとレモンの爽やかな味わいのムースだ。

 黒瀬様がお見えして、わらびさんが品物を持ってくる。

「お待ちしておりました。こちら、ヨーグルトムースシトロンでございます。お砂糖は素焚糖を使用しております。通常よりもミネラルが豊富で低GIのため、血糖値も上昇しにくくなっております。ジュレに使用しているのも素焚糖のため、黄色の色合いが濃く出ております。通常のお菓子よりもさっぱりと、健康的に仕上げた一品となります」

 黒瀬様はそれを聞いて安心したように微笑んだ。

「これ、SNSに載せても大丈夫ですか?」

「大丈夫です。今後の製造は未定となりますが、お作りした余りを本日限定販売するので、そちらの売れ行きを見て、初夏から夏のラインナップに追加するか検討しようと思っているところです」

 小豆田さんから伝え聞いたことを簡略化してよりわかりやすく説明するわらびさんを見て、さすがだと感じた。まだここで働いて間もないが、柏森さんが売り場で彼女を信頼している理由は、説明されずとも理解できる。
 わらびさんが個数の確認に入る。

「三点でお間違いございませんでしょうか?」

 てっきり彼女の分一個だけなのかと思っていたが……、家族、はたまたパートナーやお子さんと一緒に食べるのだろうか。

 黒瀬さんが品物を受け取る時、左の小指のピンキーリングが光った。ラベンダーカラーは今日も、小さいながらも存在を主張していた。


 数日後、終業後にわらびさんはスマホを見て「えっ」と言って口を押えた。

「これ、見てください!」

 向けられた画面には、彼女の推しの志音、彼女と仲が良いモデル仲間の紫乃、そして一般人の友人の手が写っている、いつもわらびさんから見せられるような投稿画像だ。しかし、三人の持つ手には、見覚えのあるグラススイーツが。

「これ、以前黒瀬様にお作りしたヨーグルトムースシトロンですよね」

 驚きと動揺が隠せない様子の彼女は、確認するように小豆田さんと柏森さんに言った。「うちのだな」と肯定する柏森さんの言葉を聞いて、「えー! いつ志音ちゃんうちに来たんだろう。あの日帽子被ったりサングラス着けてたお客様いたっけ?」とわらびさんは頭を押さえて記憶を辿る。

 その様子を、小豆田さんは微笑ましそうに眺めていた。

「……小豆田さん、黒瀬様が志音だったんでしょうか?」

「まさか、身長が全然違うよ。志音は一七〇センチくらいの身長のはずだよ。黒瀬様は一六〇センチ前半の身長じゃないかな。ヒールや厚底で身長を高くできたとしても、低くするなんてことはできないんじゃないかな。
 それに、普段から体系を気にしているなら、カロリーや糖質についての知識もあるはずだ。普段食べるお菓子にだって、気を遣うだろう。例えば、普段口にするのは寒天と決めて、時々コンビニやスーパーでシュークリームやプリンを買う、とかね。けれど彼女は、カロリーや糖質の知識は無い様子だったし、寒天や気軽に買えるお菓子も避けたいみたいだった」

 その言葉を聞いて私も無言で記憶を辿り始めた。それを見て小豆田さんは小さく笑った。

「これは、僕の勝手な想像だけどね、」

 前置きして、わらびさんに聞こえないように話し始めた。

「最近のオフィスでは、華美でない柄ならネイルは問題無いっていう自由度が高い所もあるから、ネイルを楽しむ人が多いよね。でも、黒瀬様は爪を短く切り揃えていた。もしかしたら、爪を短くしていないといけない職業なのかもしれない。飲食系とか、医療系とか。黒瀬様の手は荒れてなかったから、普段から水に触れる機会が多い飲食系ではない。看護師でもないだろう」

「……じゃあ、何になるんですか?」

「燈架ちゃん、僕は看護師ではないだろう、と言っただけだよ。医療関係者は、決して看護師や外科医だけが該当するわけではない。黒瀬様は、香水の匂いもしなかったし、服の色合いも非常に落ち着いたものだった。ピンキーリングを除けば、アクセサリーも身に着けていない。仕事中はそれだけ外してるのかもね。彼女を視界に映しても、刺激になるようなものは、一切無いよね。誰もが安心して、彼女の診察を受けられる」

「……精神科医?」

 それを聞いて、彼はそっと微笑んだ。

「でも、どうしてそれで、志音の友人だ、ってことになるんですか?」

 一般人の友人は、医療関係者、としか紹介されていない。顔出ししたことも、何かに映り込んで顔が写っていたこともない。

「あのピンキーリング、見覚えなかった?」

「あれが三人お揃いのピンキーリングだったとしても、私はデザインまで覚えていませんよ。それに、どの画像もはっきりとデザインがわかるものじゃないし、特徴のあるものでもないじゃないですか」

 まぁそうだよね。と苦笑した彼は、何でもない風に言う。

「志音のピンキーリング、うちの近くにあるジュエリーショップで取り扱ってるものだと思うよ。黒瀬様が着けてたものなんて、まさにそれだ。予約表を書いてもらってる時にじっくり見たからね」

 つまり、彼は、女性向けブランドのあのジュエリーショップの商品を、何度か目にしたことがあるということだ。
 そんなに真剣に女性物のジュエリーを見ていた、というのは……奥さんにプレゼントで購入したことがあるのか。いや、そうではなく……。

「あの店で買うために、店に頻繁に行ってた時期があるし、その時他の商品も目についてたからね」

 心臓に片手を当てながら言った。
 そこには、奥さんから預かっている結婚指輪と、これから生まれてくる子供のためのベビーリングがある。

「まぁ、今話したことはぜーんぶ、しがないパティシエの、ただの想像だけどね。彼女がわらびちゃんの推しの友達だったのかは、投稿画像には顔が写ってるわけじゃなければ、声だって聞こえないし、同じピンキーリングを着けている人だって他にもいるだろうし、わかんないよ。そうだったらいいな、っていう願望まみれの、都合のいい、妄想だね」

 そう言って、彼も自身のスマホを見た。指で何かをタップしていた。

 私も志音の投稿を自分のスマホで確認する。『映画出演のお祝い』としか投稿文はない。ハッシュタグも、映画の作品名くらいしかない。彼女の投稿は、いつでも簡潔だ。

「わらびちゃんね、うちに来てから、ずーっとノートにメモしてるんだ。
 商品一つ一つの味、特徴、洋酒が使用されているかどうか、とか。商品を普通に写真で撮ったものと断面の、二枚の写真付きで。それを家で暗唱して、説明の練習もしてるそうだよ。
『お客様と一番距離が近いのは、売り子のわたしだから、商品の良さをきちんとお伝えできるように』って」

 小豆田さんがわらびさんに視線を戻した。釣られて彼女を見る。「あの時購入したお客様は……」と一から記憶を辿り始めている。

「辛いこともあるけどさ。でも、その辛さを忘れていられる時くらい、小さくっても幸福があってほしいだろ?」

 彼は、友人を想う黒瀬様に幸福を届けただけでなく、わらびさんの新しい小さな幸福が始まるきっかけも作ったのかもしれない。

 その幸福が始まる日が訪れるかどうかはわからないけれど、忘れた頃でもいいから、ここから何かが始まればいいのに。

 そう思いながら、私はひとまず、志音の投稿に「いいね」を押しておいた。

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?