見出し画像

オオタニサンと花總まり

朝から夫が、テレビにかじり付いている。WBC。ふぅん。
それが気に入らない長女がアニメを見せろと騒ぎ立て、始まる攻防戦。夫は、父としての威厳やプライドを捨てたらしく、娘のおもちゃを人質に、チャンネル権を譲るよう交渉を始めた。泣き喚く三歳。いやさすがにソレはおかしい、と私に叱られたオトナの男は、すごすごと退散、寝室の小さなテレビで観戦していたらしい。しばらく経つと出社していった。

翌朝のこと。
朝の情報番組は、例の試合結果に湧いている。味噌汁をすすりながら、夫が言う。

昨日の試合は、漫画みたいだったよ。
…へぇ、ちょっと待って。

私は生返事をして、慌ててゴミ出しに出た。帰宅後、改めて聞き直す。彼が自分から話題を振るなんて、数少ない機会なのだ、ちゃんと聞いてやらねば。

ー漫画みたいな試合って、どういうこと。
九回裏で、大谷が投げるんだけど、打者がトラウトで
ートラウトって誰。
大谷が、メジャーで同じチームの、同僚みたいなもん。スター選手だよ
ーじゃあ、普段はあり得ない組み合わせ、て訳ね。
そう、で、内野ゴロでゲッツーになって
ーゲッツーって何。
ダブルプレーって事
ーダブルプレーって何。

こんな調子なのだ。
理解の前に、分からない。なにも。
断っておくが、嫌いだとか聞くのが嫌だとかそういう訳ではないのだ、ただひたすらに、分からないのだ。
ひとつの状況説明を受け、その都度、登場した単語の解説を求める。いちいち話の腰を折る私に苛立つ事もなく、丁寧に答える彼。職業柄、人に何かを説明するのは得意なのだ。
しかしまぁ、本当になんにも知らない自分自身に驚くし、そんな私に根気よく話し続ける夫には感心する。

白状しよう、昨日、スマホのニュース速報で
「侍JAPAN、優勝!」の文字が流れてきた瞬間、私は知ったのだ。今日が決勝だと。だから「オトナの男」は、あんなにみっともないチャンネル争いをしていたのか、と。
丁寧な説明を続ける彼、ついには
「野球は、ランナーが塁を回ってホームに戻ったら得点なんだけどね…」
さすがにソレは分かる…と言えたクチではないか。
ひと通り説明を終えたものの、この話し手は、私を聞き役とした事を後悔してないだろうか。聞き手の基礎知識、興味関心意欲態度が限りなくゼロだと、話し甲斐も無かろう。だって、どんなに熱く熱く語られても、大谷とトラウトの一騎打ちにどれだけの価値があったのか、起死回生の村神様の一打にどれだけの盛り上がりと感動があったのか、本当の意味で、理解も共感も出来ないのだ。申し訳ない気持ちになる。
きっと、それでもいいから分かち合いたいのだ、誰かと。感動とか興奮とかってそういうもんだ。分かるよ、分かる。

情報番組が次のコーナーに移った。
なんと、大地真央と花總まりのデュエット、この場限りのスペシャルパフォーマンス!
花總まりだ!
と声高に叫ぶ私、そして始まる、一方的なミュージカル講義。彼女が宝塚のトップ娘役として君臨した期間が異例である事、それゆえ「女帝」と呼ばれていた事、そして今は日本のミュージカル界のトップオブトップに鎮座する、押しも押されもせぬ大女優である事、その方をテレビで観られるなんて!…まさに水を得た魚、ペラペラと矢継ぎ早に喋る私、フンフンと生返事する夫。
…それでもいいから分かち合いたいのだ、誰かと。感動とか興奮とかって、そういうもんでしょう?

そして、夫に言った。
「本当に申し訳ないけど、野球さ、私に説明してくれるより、多分ソッチの娘さんたちを育てた方が確実だよ。私はもう望み薄いから。申し訳なくなるのよ、一緒に盛り上がれなくて。あの子たちはこれからどうにでもなるからさ、ソッチに力注いだ方がいいよ。」
…しかし、齢三つの長女は、抜け目ない私の「英才教育」により、ディズニーソングをこよなく愛し更にはミュージカル「ジャージーボーイズ」や「エリザベート」も歌える、既にそんな仕上がりなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?