見出し画像

□パリ改造とフランスの歴史

2019.02.16

ブラタモリ〜パリ編〜を見て、オスマンの大改造懐かしいなー都市計画でやったなーと思いながらも、意外とその背景とかちゃんと知らないなーと思って調べてみました。

・フランスの地にはもともとケルト人が住んでいて、ローマ人は彼らをパリシイと呼んだ。

・紀元前、ユリウスカエサルがこの地に侵攻し、古代ローマ帝国により統治された文化が築かれる。
この頃からシテ島周辺をパリと呼ぶようになった。

・5世紀末に西ローマ帝国が滅びるとフランク王国が勢力を伸ばし、一時はヨーロッパを統一したが、カール大帝の死後分裂し3国に分かれる。
これらがのちにフランス、ドイツ、イタリアの基礎となる。

・987年フランス王国が成立し、フランス革命までの800年間王政が存続した。

・ゴシック建築を代表するノートルダムが建てられたのはこの頃で、建設には1163年〜1345年まで200年近くかかり、一部に半円アーチの名残や太い1本の円柱、6分ヴォールトなどロマネスク様式や初期ゴシックのテイストを残している。

・同じ時期十字軍やテンプル騎士団、ジャンヌダルクなど数多くの宗教戦争が勃発し、後期には続く失策と贅沢の財政負担により王朝は衰退していた。

・1789年-1799年にフランス各地で起こった市民革命はフランス革命と呼ばれ、歴史家の中では世界史で最も重要な出来事の一つとも見なされている。
・革命の目的は身分制や領主制を一掃し、自由・平等・友愛をキーワードとした資本主義の確立。
これは後にフランスの標語となった。

・フランス革命は200年以上フランスを支えたブルボン朝(太陽王ルイ14世、マリーアントワネットの時代)の絶対君主制を廃止し、民法やメートル法など現代に続く制度を生み出した。
ベル薔薇はこの頃の作品。

・革命後ナポレオンによる共和政が始まったが、わずか5年で軍事独裁政権を樹立した第一帝政へと続く。

・1815年にナポレオンの失脚により王政復古したが、1830年の7月革命、1848年の2月革命を経て再び共和政となる。
レミゼはこの頃の作品。

・1852年、ナポレオンの甥ナポレオン三世が国民投票によりフランス皇帝となり第二帝政が始まった。

・当時のパリは劣悪な衛生環境により病気や疫病の蔓延する街となっていた。
ナポレオン三世は不満を抱える市民の蜂起に備え、セーヌ県知事ジョルジュオスマンに街路を広くし見通しをよくするパリの大改造を命じた。
これにはスラムを取り壊すこと、軍隊路を築くことなど支配的な狙いもあった。
現在のパリはこの時に出来上がる。

・パリ大改造では叔父であるナポレオンの建設したエトワール凱旋門を中心に放射状に12のブールバールを作り、パリの3/7を破壊して交通網を整備した。
これにより市内の物流機能改善とともに、市民革命で反政府勢力を助けた複雑な路地がなくなったため、反乱が起こりにくくなった。

・他にも上下水道の整備、学校や病院の拡充、ルーブル宮やオペラ座(シャルルガルニエ設計)など文化施設の建設も図り、ナポレオン三世の威光を強めた。
しかし都市としての防御力を弱め、下町のコミュニティ解体、歴史深い中世パリの街並みの喪失など批判的側面もある。

・パリが芸術の都と呼ばれるようになったのはこの頃で、その所以はルーブル宮殿にある。

・ルイ14〜16世の時代、莫大な権力と経済力により栄華を放ったブルボン朝は、メディチ家やハプスブルグ家との婚姻も相まって花の都フィレンツェやローマで花開いたルネサンス芸術のエネルギーとともにヨーロッパ各国から多くの美術品を流入させた。
国王のヴェルサイユ宮殿移住以降、荒れ果てたルーブル宮をフランス革命下の憲法会議で美術館として再整備することが決まり、国王や貴族らのコレクションであった美術品を展示、解放したことを発端として市民は美術や芸術に触れる機会を得た。
ブルジョワジーにより数多くのサロンが開かれ芸術家が集まったが、これに反発した芸術家らは新しい芸術運動を行いヨーロッパ中からそうした若手芸術家が集まった。
モネの印象派やゴッホのポスト印象派などもその1つである。

・ファッションについても同様で、もともとのファッション大国イタリアから多くの文化を取り込み、革命により民主主義となったことでそれが市民にまで広まった。
これには信仰も一つの要因となっていて、イギリスやドイツでは質素倹約第一のプロテスタントが政権を握っていたのに比べ、イタリアやフランスでは膨大なお金と権威を持つカトリックを信仰していた。
特にカトリックの総本山であるローマ、ヴェニス、フィレンツェでは多くの芸術家が生み出され、その流れはパリへと発展した。

・華やかな芸術を呼び寄せたブルボン朝であったが、その芸術により呼び寄せられた当時音楽家であったジャンジャックルソーの影響を大きく受けてフランス革命が勃発したのは皮肉である。
音楽家として大成しなかったルソーはアカデミーの懸賞論文にて芸術と道徳について執筆し、これを契機に学者として人々に衝撃を与えることとなる。
フランス革命前に逝去したルソーだが、彼の著書社会契約論の中で語った「人間は生まれつき自由だが、いたるところで鎖につながれている。」という言葉はフランス革命のスローガンとして採択された。

・フランス革命時のパリから生まれた文化としては博覧会も有名で、徐々に規模が大きくなったことで各国へ影響を与え、1851年にはロンドンで初めての万国博覧会が開催された。
ジャポニスムと呼ばれる日本文化をヨーロッパへ伝える場となったのも万博であり、今ではパリのランドマークとなったエッフェル塔は1889年の第4回パリ万博のために建設されたものである。

・古くから世界各地で行われてきた高層建造物の競い合いは140m〜160m台の石造に過ぎなかった中、橋梁建設において高い評価を得ていたエッフェル社は高さ300mの鉄の塔を立てる案を提示した。
産業革命における製鉄業の成長は建設業に大きな当時は影響を与えたが、当時は鉄を建築に利用することに反対する人も多かった。
2年2ヶ月という驚異的な速さでエッフェル自身の金策によって建設されたエッフェル塔はあまりに奇抜な外観のため竣工後賛否両論分かれつつも、万博では世界中から観光客が押し寄せ大盛況となった。

・その後来訪者が徐々に減少し、塔の権利がパリ市に移った1909年には解体されることが確実視されていたが、フランス軍が軍事用無線の送受信を提案し取り壊しを免れることとなった。
1921年にはエッフェル塔からラジオ放送が開始され、現在でも使用されている。

・1870年、ナポレオン三世の退位により第三共和政が打ち立てられた後、世界大戦を経てナチスドイツに占領されていたパリを解放した英雄として、シャルルドゴールが現在まで続く第五共和政を成立した。

・パリの標語として「たゆたえども沈まず」という言葉がある。
この言葉はもともとはシテ島を拠点としていた水上商人の船乗りの言葉だったが、古代ローマ帝国からの占領を始めとして、数々の戦乱、革命の舞台となりながらも生き抜いてきたパリ市民の象徴となった。
2015年同時多発テロ事件直後にはパリの街角いたるところで掲げられ、今もパリ市民の心の礎となっている。

以上。

感想
フランス革命の影響すごい、いろんな物語とつながってるんだな。
市民革命というもの自体あまり詳しくなかったけど、日本の学生運動も同じ感じだったのかな?失敗したけど。
パリが2000年も中心都市であり続けたというのはすごいこと、ノートルダムに行ったときポイントゼロで写真を撮ったけど、その価値に気づいてなかったなぁ。
歴史を調べてもしばらくすると忘れてしまうけど、文字にしてまとめると頭に入りやすい。

またどこか調べてみます。

#フランス #歴史 #パリ #パリ改造 #フランス革命

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?