死に際 (2111字)


ふわっと体が宙に浮く。体が空中に飛んで落ちていく寸前、あの瞬間が僕の今までの人生の中で一番長い1秒間であっただろう。「あ、間違いなくここで死ぬんだな。」とはっきり意識させられた。

 大学生になったと同時に始めたピザ配達のバイト。原付で街を走るのは嫌いではなかったからこの仕事は向いていると思った。このバイトを始めて既に2年と半年近くたっている。その日は朝からの長時間勤務で最後の1件の配達途中だった。シーフードピザを積んだ僕のバイクは、既に日が落ちて薄暗い住宅街を走っていた。ここのあたりの住宅街はピザの注文が多い場所で、何度も通ったことのある道であった。一時停止のある十字路交差点、いつもはしっかり止まってから進む道だが、この日は寒い日の長期勤務でなるべく早く家に帰りたかったし、経験上交通量も少ない交差点であったため速度を落とさず交差点に進入した。右からワンボックスカーが迫っていると気づいた時にはもう手遅れであった。鈍い音と共に僕の体は人生の中で一番高く舞った。

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 気が付くと僕は何処かの建物の中にいた。大きな窓に目をやると、行きかう車や歩き回る人々を見下ろすことができた。随分高い建物だなとぼんやり見下ろしていると、僕の隣で机に向き合い、望遠鏡を覗きながら何かを必死に書いている男がいた。その男の周りには自分で書いたと思われるレポートが散らばっていて、気づけば僕の足元にも大量に紙が散らばっていた。痩せて頬骨が目立つスーツ姿のその男は「そこのレポート、君の右足に前にあるやつ、それこっちに持ってきてくれないかな。」と急かすように声をかけてきた。僕は足元からレポートを拾い、男に手渡した。「こんなところで何やってるんですか?」と尋ねてみると、男は気怠そうに「人間観察、人の行動について調べてる。」と答えた。

「あのカップルを見てみろ、あれは俺の経験上近くのラブホテルに入っていくぞ。」と手渡された望遠鏡で僕はそのカップルを見ていたが確かにその通りになった。「商店街に入ってたあのおばさんは総菜屋に、その後ろのほうにいるベビーカーの女は喫茶店に入るな。」この男の予想はすべて的中した。「公園にいる男は人待ちだな。あれは女を待っているのかな。」この男は確かに人待ちではあったが来たのは男の友人で会った。「ちっ、まだまだ研究不足か。」と男は口惜しそうにまたレポートに何かを記入し始めた。

僕は不思議に思い、なぜそんなに正確に分かるのか聞いてみた。すると男は「ずっとこうやって観察してたからな。目線や足取り、服装とかの外観で意外とその人が考えてることって伝わるもんだからな。」と得意げであった。僕はこの人に興味がわいて質問を続けた。「どんくらい人間観察を続けてるんですか?」「さぁ、ずっとやってるよ。」「いつまで続けるんですか?」「人間の行動の方程式を見つけるまでだな。ところで、君は何してんだ?」男は唐突に立場を逆転させ、僕に質問してきた。「大学生でバイトしてます。」「え、それだけ?」と男は大きく目を見開いていた。「それって何が得られるんだ?」「お金です。」僕はこう答えたが男は納得できないらしい。「そのお金どうすんの?」「飲みに行ったり、貯金します。」「つまり、バイトで稼いだお金で遊んでまた稼いで遊んでって繰り返してるのか。それで、その行動は君がやりたいことなのか?」僕は答えに困ってしまった。大学に入ってから自分の行動に対して真剣に向き合ったことはなかったし、何となく毎日を過ごしていた。今のこの生活を不満に感じたことはなかったし、楽しいこともあったけど、振り返ってみると何も感じないし、何も残っていない。僕が俯いて黙っていると、男は何か察したように話し始めた。

「俺はこうやって人間観察し続けて、今では少しづつ人の行動を読み取れるようになったけど、ここまで来るのに166年かかったな。それでもまだ完璧じゃない。166年間ずっとこっから人間観察しててもまだまだ分かんないことだらけだ。君はこっから何年生きるのか知らないけど、何事でも自分が納得するまでやるって時間かかることだからな、するべきことがあるなら早めにすることをお勧めするよ。」

男はこう言い終えると、再び望遠鏡を片手にレポートを書き始めた。

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 目を覚ますとそこは病院のベットであった。窓からは太陽の光が部屋の隅々まで差し込んでいる。カレンダーを見ると車にはねられたのが昨日の事だと分かった。医師に聞いた話だと、僕はバイクで車と衝突して意識を失ったが、幸い打ちどころが良く、軽傷で済んだため今日検査を受けたら退院できるということであった。無事に検査を終えて家に帰った僕は、押し入れの中からキャンバスと筆、絵具などを取り出した。美大からの不合格通知が届いて以来使ってなかった道具には埃がかぶっていた。僕はさっとそれを手で払い、筆をとる。これが正しい事なのかは分からないけど、今の僕が本当にやりたいことのような気がした。166年間続くとは思わないが、納得のいくまでやり切ってみようとは思う。

 

 

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