正義か、幸福か。(お肉を食べるのをやめることを決意する)

‘あなたは正しさと幸福と、どちらが好ましいと思うか’
初めてこの一文を目にしたときは、この問いの意味そのものがよくわからなかった。

一昨日、10年くらい前に1年間、お肉を食べない時期があったなぁ、と思い出した。

梅雨前線が引き連れている雲等の所為なのか、TVから流れてくるニュースで気が重いのかわからないけれども、何となく頭もハッキリしないし、きちんと眠っているはずなのに眠いし、職場で体調を崩す人が居て心配したりして、自宅で横になってだらだらしているうちにネットサーフィンになった。
ファッションサイト(ELLEかVOGUEかFIGAROの辺り)を読んでいて、昨年映画の『ジョーカー』がヒットした、主演のホアキン・フェニックスがヴィーガンだという記事に行き当たり、彼のコメントを読んだとき、確かにそうだ、と思わされるものがあった。動物が殺される為に太らされるのは狂気、といったような文言だった。

さらに少しだけ調べてみると、例えば食用の鳥にも放し飼いで育ったものと、狭いところに入れられて飼育されているものとで違うんだなぁ、ということが分かった。TVでワシが兎を襲うのをみた母が、思わず「かわいそう」と口にしていたが、少なくとも生涯を檻のようなところに容れられて過ごした兎が獲られるよりは残酷ではない、という感じがする。

わたしがお肉を口にしなくなった10年位前は、そういうことに対する嫌悪感だけが先に立っていたのかもしれない。確か、外国の市場で鳥が殺される時の悲鳴のようなものを聞いて、お肉が食べられなくなった人のブログを読んだのがきっかけでウェーっとなり、そういう恐怖を感じた時に動物が出す物質が肉には残っていて良くない、というのを読んでから始まった。お肉を食べていない1年位の間、周りの人たちから栄養面で身体に良くない、というのを言われ、今ほど知識が無かったこともあって自分の健康のほうが心配になり、またお肉を食べ始めることとなった。魚や卵を食べていればそこまで心配することはなさそうだけれども、動物性のたんぱく質をとることを完全にやめて他のもので補わなければ、たんぱく質そのものだけでなく、アミノ酸なども不足して健康を損ねるようだ。ただし、豆やナッツなどをバランスよく摂取したり、企業が開発している様々な商品をうまく活用すれば、それも防げそうだなぁというのが今の実感だ。

人の決断には様々な種類のものがあって、仕事を変わろうとか、引っ越しをしようとか、結婚をしようとか、そういうものもあればもっと何となく、静かに訪れるものもある。
わたしは一昨日、お家にあるお肉を全部食べ終わったら、お肉はやめてもいいかもしれない、と思った。以前のように嫌悪感からというより、そのほうが自分にとって心地よく、自然なことのような気がしたからだ。けれども今のところ、お魚はやめられない、というのがわたしの正直なところだ。
金魚を何年か、ベタを譲り受けて少し飼っていたので、お魚にも人間と同じような ‘痛み’ があるかははっきりとは判らないけれども、 ‘恐怖’ の感情があるのは、観察していて何となくわかる気がするのだ。でも今は、あの赤身がかったサーモンの、栄養のつややかさを口にすることがわたしにとっては大切だ。わたしはそれを赦(ゆる)すことにする。
テロリストが自分の正義を振りかざして人々を殺すのではなく、赦して幸福を選ぶことと同じくらい、必要とされているのなら。

幸いにも十年という月日が立ち、人にもらった昨年発売の『日経トレンディ12月号』(日経BP)をだらだらしながら読んで、人間が科学技術によって様々なアプローチをし、獲得しているものがあることがわかる。動物から採った細胞で培養肉をつくったり、大豆でおいしいハンバーグを作ろうと試みたり、豆から採ったエキスで卵焼きのような料理が作れたりするのだ!わぁお。

その選択が自然になるまで、そういう夢は消えないはずだ。
わたしは少し元気になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?