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学力(歴)コンプと図書館と。

 本が好きだ。
 でも読書が好きかと聞かれたら、素直に頷けるかどうかはわからない。
 とはいえ本が好きだということは確かだ。装丁が凝っている本を見ると大はしゃぎするし、使用した紙の名前が巻末に書いてあったり、遊び紙に珍しい特殊紙が使われていたりすると歓声を上げて小躍りをする。
 過去に数冊ほど同人誌というものを作ったことがあり、そのデザインや装丁を考えるのがとても楽しかった記憶もある。だからきっと、本という存在、物質。紙と、そこに印刷されている文字、というコンビにときめいてしまうのかもしれない。いわゆるコンビ萌えだ。

 で、読書。
 好きかどうかは明確にできないけれど、決して嫌いではないことはわかる。
 じゃなければわざわざ一時間近く歩いて図書館を訪れ、本を何冊も借りるなんて行為を繰り返すはずがないし、気に入ったものをちまちまと買い集めて本棚を埋めていくことに喜びを覚えることもないはず。
 なんなら積読もたくさんある。何年前に買ったかわからないような本がたくさんある。読まねば……でも今じゃない……今はまだその時ではないんだ……期が熟すのを待っているのだ……。

 とにかくそんな、たぶん好き、といえる読書。その「好き」はおそらくコンプレックスが根底にあるんじゃないかと思っている。
 私の最終学歴は表向きでは通信制大学を中退ということになっているが、その実は遡って高認取得、定時制高校を半年で中退、中学は三年間で二週間ほどしか登校せず、小学校は四年生の二学期から不登校。
 勉強は最初の不登校になったと同時に完全に放棄したため、学力は小学四年生に進学した程度。高認はすべて暗記で乗り切った。だから今受けたら絶対に合格できない。
 ピタゴラスの定理とか、なにひとつ憶えてない。確か三角の斜辺とか高さとかそういうのを分数みたいななにかあれを宛がってどうこうするんじゃないかな。知らないけど。

 以前書いた気もするけれど、四国がたまに二国しかわからなくなるし(今はわかる! 香川、高知、愛媛、徳島! うどん、カツオ、みかん、なると金時! でも明日は忘れてるかもしれない!)、小数点の掛け算も危うい。足し算はできる。分数は無理。ローマ字のbとdの区別に五秒くらいかかる。
 おまけに円周率はおよそ3のゆとり世代。とはいえ円周率は今日まで生きてきて一度も使ったことは……ある……あるわ……円周率が必要になったことが一度だけある……。
 それは編み物をしているとき、輪を編むための目数を決めるために使う……らしい。計算できなかったからよくわからない。結局適当に編んで首回りがきつきつのセーターができた。そして洗濯をしてさらに縮んだ。とても重いし毛玉がすぐできたけど、なかなか暖かくて今も愛用している。

 と、こうしてこまごまねちねちと己の学についてを書き連ねていることからもわかるように、かなりの学力&学歴コンプ。
 散々周囲から馬鹿馬鹿と言われて生きてきたし、小学校で毎朝やっていた漢字の小テストではいつも3点以下(10点満点)だったし、75点で学年(20人くらいしかいない)トップを取れるような定時制高校に通ってた。
 ちなみにトップは私だよ!!!!!!!! いえーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!!!!!!!!!!
 てな感じで、このトップネタを20年こすり続けているくらい学力に関して誇れるものがない。
 でも漢字ができないのはパソコン変換の弊害だと思う……私は悪くない……いや悪いか……あのときはまだパソコンなんて持ってなかったもんな……風評被害です……ごめんなさいパソコン……。

 そんなんだから、全人類は私よりも間違いなく頭がいいと思っていたし、私が知っていること=幼稚園児でも知っていることと本気で信じていた。
 テレビでクイズ番組を見ていると、こんな簡単な問題ばかりで視聴者を馬鹿にしてるとか、回答者はわざと間違えるのやめろよとか、そんなふうに勝手に憤っていた。
 思い込みとか逆恨みとか、こういうところから始まるのかもしれない。恐ろしい。
 最近はさすがに個々人で学力や知識に偏りがあるのは理解できているし、学習指導要領も学んだ(ただし十年以上前のものだから情報は古い)ため、この内容は小学校では習わない……つまり私は一般的な小学生が知らないことを知っている可能性がある……と認知の修正をできるようになった。
 それでも思考の癖が抜けきらずに、自分が知っているのに相手は知らないという状況に出くわすと、困惑してしまうことが時々ある。
 どうせ知ってるだろうに、なんでわざわざそんなこと質問するんだろう。とかね、思っちゃうことがある。馬鹿にされているような気持ちになってしまう。性格がひん曲がっている。やだやだ。直す。
 学力云々以前に人としてまともな人間になりたい。まともな人間になりたいから、図書館に通っているとも言える。

 そう、社会に適応している人間を知り、目指すための情報を得るために、私は本を読むことが多い。気がする。自分でも本当に、どうして本を読んでいるのかいまいちわからないけど、きっとそうなんだろうということにしている。
 なのでよく借りるのは専門書やエッセイ。あと図鑑系。誰かの生活と知識、世界の常識を適度に取り入れて、自分を人間に寄せていくという作戦。
 あとは単純に、専門書は似たジャンルのものを何冊か読むとだいたい同じ人名や名称がでてくるので、関係性や歴史などの背景をセットで憶えやすくて楽しいというのもある。進研ゼミ的な。
 この人の名前知ってるぞ……前に読んだ別の本に出てきてた人だ! みたいな。あとは単純に、好きな映画やゲームのネタ元にぶつかることが多いから……見つけると嬉しい……。
 人の名前を記憶するのはてんで駄目な私でも、さすがに五度くらいそれを目にしたら、「おっ、この人は確かアレをソレしてこうなった人だな?」となれる。学んでる実感があってとてもよい。
 とはいえ、そういったことをしていても増えるのは雑学がメインゆえ、脳みその容量をもっと有意義に使うべきだろうと反省することもある。

 あれか、自己啓発本とかを読めばいいのか……? でもやっぱりああいうのも面白くないし、内容も似たり寄ったりだったり極端だったり二枚舌だなこの著者ってことがあるから楽しくない……そもそも本の対象に私は入っていないのが目次を見るだけでもわかる……作者は私をお呼びでない。
 だいいち、書いてあることを信じて実行できるなら、こうして引きこもりになんてなっていないわけだ。

 そういえば最近は、頑張らないで生きようぜ! 自分のままで生きようぜ! みたいな本をよく見かけるので、試しにちょいと読んでみれば、著者の言う「頑張らない」は私にとって「死ぬほど頑張る」状態なことばかり。
 数ページ読むだけで疲れるし落ち込む。頑張って努力して生きてきたという基盤があってこそ、生きられる基準に「頑張らない」が乗る人生を選ぶことができるのだ。
 もうね、私は心臓が動いているだけで認められて褒められたいよ。
 十年くらい前から見るようになった気がする(実際は思い違いかもしれない。そうだったらごめん)、「○○な私でも一年で簡単に百万円の貯金ができた!」みたいな本。あれもタイトルがまず苦手。
 個人か世帯の年収が、最低でも百万以上あること前提で、そうなると「○○な私でも」という冠をつけるのは非常に性格が悪いというか、デリカシーがないというか、悪意のようなものを感じずにはいられない。
「○○な私でも」は「パートタイマーでも」とか「浪費家」でも「金銭管理が苦手」でも「専業主婦」でも、なんでもいいと思う。とにかくデリカシーのないタイトルだなと思う本をちょいちょい見かける。
 このデリカシーのなさ、性格の悪さはちょっと身に覚えがあるんで、それはまた今度掘り下げて書いてみよう、そうしよう。
 なんだ、結局同族(ではないが、カテゴリは似ている)嫌悪じゃないか。

 とにかくそんなわけで、そういったテーマが多い印象がある(偏見! 反省! ごめん!)類のものは私の人生に合わないと認識している。
 もっとこう、今日は昼に起きてうんこが出なくて腹が張ってるけどめっちゃ肉食った。やったね。明日の自分に全部任せる。くらいの激軽エッセイがいいな。二十年くらい前の個人サイトの日記みたいなのがいいな。
 これも身に覚えがあるね。どうしようもない日記ばかり書いてたね。なんならこれもそうだよ。

 あ、余談なのだけれど、高額な本は内容に興味がなくてもとりあえず借りてみることがよくある。
 だってあなた、一冊五千円を超える魔術の本とか、どんなことが書いてあるか気になるじゃない。
 奇麗な写真がいっぱい載っている大判の本とか、借りたらなんか格好いい感じがするじゃない。
 たまにお値段と内容が悪い意味で見合っていない本なんかもあるけれど、それはそれで楽しい。本は自由だ。いや自由すぎるのもよくない。多少は責任を持ったほうがいい本もいっぱいある。
 図書館でもトンデモ本は大量に置いてあって、医療系とかは特に顕著。なかなかどうして非常に怪しげなものがそろっているので気を付けたい。オカルトコーナーよりよっぽどオカルトな本がいっぱいある。

 読書といえば、一時はオーディオブック的なものも試してみたものの、そもそも私、本を読みながら音楽やラジオを聞きつつゲームの片手間に編み物を進めてお菓子を食べる合間にコーヒーをがぶ飲みする、みたいな複数同時進行タイプで、本が音声になるということは音楽かラジオのどちらかを削る必要が出てくることに気づいたわけですよ。それは大きな損失。音は音として確立しているカテゴリーで割り振りたい。
 ということで、オーディオブックは諦めた。お金もかかるしね……。
 あと、耳で聞くと別の作業に集中したとき内容を聞き流してしまうことが多々あるんで、やはり紙の本が確実。
 でも寝るときとかならいいのかな。倍速だったら細々した隙間に捻じ込んでいけるかな。どうかな。わからないな。最大のネックは月額料金が発生することだ。

 とまあ、そんな感じで月に二、三度ほど図書館に赴いては、普通の人間になるための材料や調味料をこつこつと探し求めている生活です。
 目標は年間百冊! ……と言いたいところだけれど、一年の半分を過ぎて未だに三十冊ちょいなので、多分無理……がんばれ……がんばれ……。
 しかし人間力を得るための経験値を積むということを考えると、部屋で一人本を読むよりも、本を借りるときに司書さんと二言三言のやり取りをした瞬間のほうが格段に効果あり、というのが現実。
 吃音があることに加えて声量調節がどうにも下手なせいで静かな空間で喋るのが尋常ではないほど苦手なため、声を出したつもりが口パクになってしまったり、カッスカスの酒焼けみたいな声しか出なかったりで、申し訳なさから穴があったら入るか本棚の隙間に挟まってしまいたくなる。
 あとあれだ、ハードカバーの本を数冊小脇に抱えて館内を二時間とかうろつくんで、毎回腕が筋肉痛になる。
 知識だけじゃなく筋肉まで蓄えられる。ありがとう図書館。
 頑張って心身共にムキムキになろう。

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