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Past Failure Foundation(2-Final)

私の過去の大きな挫折の話の続き。(その1)

学生の頃、臨床心理学のクラスを取っている時に学んだことだが、カウンセラーだとか、心理学専攻の学者、学生たち。実は結構な数の人が何らかの形で心を病んでいるそうだ。学問としていろんなことを学ぶうちに、自分のそうかも、あれ、これ私のことじゃん?そんな風に思い始めるところから、ずぶずぶ深みにハマっていくんだそうだ。そんな講義をした教授もまた、この講義の後、半年ほどして、精神的な病気を理由に休職していたからあながち統計だけの話でもないのであろう。そして、私もその数の一部だったという話。

「なんでよ。なんでこんなことしたの。If you Die, I will kill you, and kill me」

お前が死んだら、お前を殺して俺も死ぬ。病室で目覚めた時、アルゴが私に言ったことである。アルゴはいまだに私がひどく具合が悪くなったりするとこの言葉を言う。

アルゴの横にはママもいた。その時、ママの身体はもうずいぶんと弱っていて、まだ40代だというのに杖をついていた。そんな彼女をこんなとこに来させて、こんなザマを見せているのが心苦しかった。

でも言葉はでなかった。しばらく考えて、やっと言えたのが、Just too tired to live - I don't think I am worth it

もう生きるのに疲れた。生きてる価値なんてないと思った。私はそう言ったが、酷い話である。私は乾いた唇を噛み締めた。

義母は過去に2度、腎臓を移植していたがすでに機能を止め、毎日、透析をしなければ生きられない体だった。そして、アルゴは、虐待サバイバーであり、トラウマサバイバーである。どちらも死ぬかもしれない、でも生きたいと願う人たちだった。

アルゴは養父に長年に渡り、虐待を受けていた。義母の死去の折、保険金をかっさらっていったクソ養父の仕業である。シャツの下、痣だらけの幼いアルゴの体、人目につかないところにある痣に気づいたのは、叔母だった。そのあたりの頃、アルゴはお隣に住んでいた7歳の女のコが、キャング同士の抗争、銃撃戦の流れ弾にあたり、死亡したという事件の目の前に居た。幼いアルゴは、その少女が撃たれたそばにいて、血しぶきを浴びた。その数日後、ママが腎臓病により、アルゴの腕の中で仮死状態になった。

そんな過酷なことを経験した人たちの前で、ずっとずっと経済的にも大変な思いで暮らしてきた人の前で、日常的に死に直面してきた人の前で、いろんな苦難や困難を親子で乗り越えてきた人たちの前で、私はそんなセリフを吐いた。苦しい生活も知らず、命を脅かす危険もないぬるま湯の中で生まれ育ったくせに。

もちろん、人にはそれぞれいろんな苦難、困難、悩み、苦しみ、トラウマがあり、その回数や状況の在り方はそれぞれなのだとはわかっていた。比べるものではない、ということはわかっている。でも、自分は情けないとしか思えず、そんな状況ですら、私よりもさらに苦しい人はいる、そんな見方で人を見ていたのだ。

長い、長い沈黙の後、義母が言った。

 I love you baby, never ever say such a thing - your existence is a big gift. You are the smartest, kindest, precious thing in our life. Okay, baby?  愛しているのよ、ベイビー。だからもう二度とそんなことを言わないで。あなたの存在そのものが大きな贈り物なの。あなたは私たちの人生において、賢くて、優しくてかけがえのない存在なのよ。

そういうと、彼女は静かに涙を流しながら、私の顔を両手でぎゅっと包んだ。彼女はひどく痩せていて、うんと細い腕だった。骨ばった手だったけれど、手のひらがとても温かく、そして優しかった。

退院後、1週間して私は院を辞めた。

迷ったけれど、続けられないとわかっていることにしがみついても仕方がないのだと思えた。憑き物が落ちた、とでもいうのだろうか。今思えば、滑稽な形で自殺に失敗し、どうせ死ねないのなら、生きてみようと思えたからだ。そんな考えは、ある日、スコンと頭の中にわいてきた。

運が良かったとしか言えないが、その時、インターン先のオフィスが求人を出していた。私はそのオフィスで4年ほど働いていたし、これまで大学、院で学んだこと、研究者としての経験をフルに生かせる仕事でもある。特殊な仕事なので、ボスにこれ、私がやっていい?と聞いたら、あなたほどの適役はいない、もう仕事もすでに知っているわけだしね、と言ってくれ、3日後には正式な職員として採用された。ワークビザもオフィスが保証してくれた。ボスはずっと私と教授の確執や、体と心の状態も知っていて、サポートしてくれてもいた。結果、アメリカという国で暮らし続けることになった。捨てる神あれば、拾う神ありと言うやつなのだなぁとしみじみと思う。

そして、学部にこれまでに師事していた教授に強要されていた様々なことを陳情した。そもそも私以外のたくさんの生徒からAbuse(虐待)であるとの苦情が寄せられていたらしい。後々、大掛かりな学内調査が始められた。その調査時のインタビューで、『研究者として尊敬はしているし、私のキャリアを作ってくれた恩人ではあるが、人間として要求することが常軌を逸している』とそんな風に私は答えた。そしてそれまでの勤務表や実験時に使っていたパソコンなどを提出し、私が4年強にわたり、日々12時間以上、研究室に拘束されているような状態だったことを伝えた。もちろん、体と心、両方の診断書と共に。その後、教授は別の大学へと移った。

で、タイトルとその1にあげた言葉なんである。

“I’ve come to believe that all my past failure and frustrations were actually laying the foundation for the understandings that have created the new level of living I now enjoy.”  

過去の失敗や挫折のすべては、今の私が楽しんでいる新しいレベルの生活を生み出したすための理解の礎

心の回復にも、体の回復にもずいぶんと長い時間がかかった。アレルギーも、アトピー、喘息も今だに治療は続けているが、何とか普通に生活できるレベルになった。

アレルギー、アトピー、喘息が数年にわたり劇症と言われる状態だったので、大量のステロイド剤を内服しなければならず、それが原因で大腿骨の骨が壊死した。私は両方の股関節の骨を人工関節に置換せねばならなかった。

(注:ステロイド剤が悪と認識しておられる方もいるかもしれないのであえて書きますが、私の場合は末期癌、臓器移植などをした人のレベルでの内服処方でした。なのでステロイド=恐ろしい薬とは思わないでください。処方された量が尋常ではなく、治療法がそれしかなかったのです。劇症という症状は、発作や発症により死に至る可能性が高く、とにもかくにも体内、皮膚、粘膜、ありとあらゆるところで起こっていた炎症を鎮めるためにはそうするしかなく。例えば、アトピーで入院する→退院して今度は喘息で入院→退院してアレルギーで入院、というようなサイクルで1年の半分以上を病院で暮らした時期もありました。なのでくれぐれも誤解しないでいただきたいのでここで改めて記しておきます)

長年、夢見続け、憧れ続け、追い続けていた夢をあきらめるのは簡単なことではなく。そして、今でも時折、あの時こうしておけば、ああしておけば、と思うこともある。でも、同時に。死ななくてよかった、というか、死ぬほどのことではなかったじゃん、と思える。

追い詰められるまで、心も体もパンクさせてしまうほどに追い詰められるまで、こんなことに気づかなかったのは残念な話ではあるが、『時、すでに遅し』という結末にならなくてよかったと思う。

例えば、あのまま、心と体のおかしいまま、博士号をとれたとして、その後のキャリアはどうなっていたのだろうと思う。教授として働くことができたであろうか?教授として雇ってもらえるために、国からグラント(国が出す研究資金)をとれただろうか?そもそも教職が好きではないのに、講義を続けることがでたであろうか?もしかしたら、冒頭であげた休職した教授のようになっていたかもしれない。研究をつづけたところで、体は悪くなる一方で、ネズミの実験をしている部屋で一人倒れて死んでいたかもしれない。私の死体は実験ネズミによりかじられていたかもしれない。

そして、なにより。アルゴと入籍することもなければ、愛犬たちと出会うこともなかった。アルゴは私の退院後、言った。

「病院がさ、怖いんだ。俺にとって病院っていうとこはママが死ぬかもしれない場所、自分の精神状態を無理やりゆがめられて、閉じ込められて押し込められた場所。意味もない投薬をされて廃人みたいにされた場所。だから、あんたの最初の発作の時、病院に行けなかった。行こうとしたんだよ。でも入り口のとこで、足がすくんでいけなかった。いろんなことがフラッシュバックして、動けなくなった。でも、今回はさ、そんな怖さはどうでもよかった。あんたを失うことだけがただただ怖くて、必死に走ったんだ。俺はずいぶんとひどいことをしてきた。ごめんなんて言葉で済ませられるとは思わないけど、少しづつ、何かを返していきたい」

アルゴが自分の中にあったトラウマや恐怖を初めて言葉にしたのだ。それまで、なんとなく察するような状態ではあったが、直接的なトラウマの原因を彼が口にしたのはその時が初めてだった。

もちろん、そんな言葉でやったね!Happy End♡という事にはならない。

今だに、過去の事が原因で激しい喧嘩になることもあれば、お互いに傷つけあうようなことを言ったり、したりしてしまうこともある。今ですら、大学院で勉強するアルゴを見ていると、あんたがあの時、もっとサポートしてくれてたら私だって、なんてことを思うこともある。

仕事だって、楽しいことばかりではないし、愚痴ったりだとか、落ち込んだりもする。けれど、あんな奴隷みたいな生活できてたんだから、まぁ大丈夫だろ、と思えるし。できない、自分のキャパオーバーであることに対して、助けを求めることや、いや、これちょっと無理、そんな風にできないことにはできない、と言えるようになった。

自殺が未遂に終わった時に、私は自分の中にあるこだわりだとか、見栄だとか、虚栄心だとか、過剰な自意識だとか、プライドだとか、おっそろしく低かった自己肯定感だとか、そんなものをいくらか殺したのだと思う。

そして、その後、心と体を治療しつつ、アルゴと暮らすことで、私は少しばかり、優しい人、楽しい人、そして幸せな人になれているような気がする。

そして私は今の生活、生き方を気に入っている。今の私は、こんな過去のいろんな感情と経験の上にいるのである。

ジブリ映画のように、人に対して力強く『生きろ!!!』とは言えない私だけれど、何かに迷ったり、もう生きたくないなんて思ったり、大きな挫折に直面している人がいたら、言いたいと思う。そして、先月、自殺してしまった友人にも言いたかった

きっとたぶん、死ぬほどのことではない。生きているってことに意味があるんだと思うよ。生きている、生かされている。無理して前に進むことはない。ただ、自分で自分を終わらせるにはきっとまだ早いんだよ、なんてことを。

最後に。ヘッダーにあげた写真は蓮。仏教では極楽浄土に咲く花。泥水を吸い上げながらも、美しい花を神々しくも咲かせるその姿。その姿から蓮を仏の智慧や慈悲の象徴としたのだという。慈悲とは、「すべての生き物が苦しみから解き放たれ、幸せを得られますように」と願うことで、慈悲心が進むと他者を救うために悟りを得たいと欲する菩提心へとつながるのだという。

Tattooの話で書いた蓮のタトゥーに込めた思いには、こんな経験があったから。蓮のタトゥーを入れたのは、私がカウンセリングを終了し、主治医との最後のセッション。向精神薬、睡眠薬は無くてももう大丈夫だよ、と言われた日に入れたものなのである。

(終)

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