「誰かのため」ではなく「自分のため」に動く

こんにちは!

皆様どんな月曜日をお過ごしでしょうか?


今日の私はどうやら久しぶりに絶好調で、

お仕事が驚くほどはかどっています。

うれしい、、久しぶり、、


今回はここ数年で学んだ

「自分のため」に動く大切さ

について、書こうと思います。

さあいくぞ!


物心ついた頃から私は、「自分のため」に何かをできない子でした。

5人兄弟の長子だったのも、影響しているのかもしれません。


いつも私の行動基準/判断基準は、「誰かのため」だったのです。


「妹のため」にほしいものは我慢しないと

「お母さんのため」に良い点数取っておこう

「先生のため」に他の子をまとめよう

「友達のため」、「お父さんのため」...


そんな日々を送っていった結果、

「自分のため」には動けない

「自分のため」に動くのは格好悪い/醜いと捉える

・そもそも「自分が求めていること」がわからない/感じ取れない

なんてことに...


(この記事にも書いたのですが、中学生ごろには自分が食べたいものすら、わからなくなっていました)

タチが悪いことに「誰かのため」に動くって、

美しいと思われがちなんですよね。

美徳として扱われがち


でもこれって「他責」と同じことだと、気づいたのです。

...え!なんで?!

と思う方もいるかもしれませんが...


物事の真ん中に「自分では無い何か」を置くことは、

全部他責だなと気づいたのです。

他責だし、アンヘルシー。不自然だなと、気づいたのです。


「誰かのため」に動くと、どうしても見返りを求めてしまう自分がいます

もちろん見返りのために、行動してた訳では無いんですよ。

相手が好きだから、相手の役に立ちたいから、が原動力です。


でも、それでも、心のどこかでは、求めているのです。

そのあとの賞賛を。感謝を。喜んでもらえること/承認してもらえることを。


そしてですね、なんと、

相手のためを想って「自分が勝手に」実行していることなのに

喜んでもらえないと、とっても悲しくなるのです。


「あーあ、xxのために私あんなに頑張ったのに」となる。

これってとってもアンヘルシーだなと、数年前に気付きました。


本当は「誰かのために」動くことを「自分が」選択したんですよね。

「誰かのために」想って動くことを「私のために、私が」選択したのです。

だから、もし喜んでもらえなかったら残念だけど、ま、しゃーなし。


結局どんなに綺麗ぶったって、全部「私のため」に選んでいたんだ...


私自身の望みを押し殺して、誰かのために行動する」という

「私」を選択していたのです。


あー、なるほどなぁ と思いました。


その気付きから自分を文脈の中心に置くようになり

かなり生きるのが楽になりました。


「私は、xxのためを想って yyするんです!」

ではなくて

「私は、xxのためを想ってyyする自分を選択するんです!」

というイメージ。


これからはそう生きていこう。と思いました。

きちんと、自分の選択で生きていることを自覚しよう。


自分の選択だからいくらでも変えられる。変えていい。

うむ。


なんだか、伝わる文になっているか自信はありませんが...


done is better than perfect ということで、

このまま放ちます...

必要としている方に届きますように。


今日はこれから、通訳のテストにいってきます!

わくわく。


皆様も良い月曜日を!


おわり

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