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ペイシェントボイスカフェ(筋萎縮性側索硬化症)

日時
2024.5.12

ゲスト
河原 あゆみさん

【イベント紹介】
患者と医療を繋ぐ活動の一環である。
薬剤師他、医療関係者が患者さんの実際のお話しを聴くことで、患者視点や想いを知り、臨床における薬剤師の発想を広げてコミュニケーション能力向上へ繋げていただくことを目的にしている。
また、参加者同士の交流の場としても機能している。


ALS患者の生活
ALS患者はたくさんいるが、全体を代表するのではなく、今回は個人のお話

自己紹介

元々健康に恵まれた子ども時代
身体も丈夫で大学はスポーツ推薦だった(社会福祉学、修士は教育学)
50年間ずっと病気とは無縁の生活だった
仕事:国際協力分野で障害児教育や障害者支援
国内では震災の復興支援、被災者支援(岩手)
海外での勤務も長かった
信仰:5代目のクリスチャン

ALS

難病の中ではまあまあ有名である
運動神経が特に働かなくなり、全身の筋肉が萎縮してしまう
>最終的には全身が動けなくなっていく
発症部位や進行速度は多種多様
>上肢から始まるタイプや下肢から始まるタイプ、呼吸からなど
>私の場合は足からだった
最終的には呼吸筋が動かなくなり、呼吸不全
→呼吸ができなくなったら、気管切開で人工呼吸器
喉や舌の萎縮>嚥下機能低下、餓死
→食べられなくなったら胃瘻造設など
*適切な時期に適切な医療と介護を得られれば長期療養が可能となる病気

【経過】

2018年岩手県で発症
2020年4月に実家へ戻った
6月から教育委員会で非常勤勤務開始
12月に診断確定
発症から診断確定まで2年間要した
9つの病院を渡り歩いた(なぜか足が動かなくなっていくところから~)

2021年1月
>診断確定直後から電動車いすを使うようになった
2021年3月末で退職
今は年金暮らし
2023年7月から一人暮らし(実家の近くで物件を見つけて)
>重度の障害者になっていたため、24時間重度訪問介護ヘルパーの支援体制を整えた

【今の病状】

両下肢の麻痺、構音障害(どもってしまうことも増えている)、呼吸機能、嚥下機能低下も始まっている
食べ物は1口大に切って食べる
夜間はマスク型の人工呼吸器を使用している
今後、食べられなくなってくると胃瘻、呼吸機能が低下すれば気管切開、分離手術(食道と気管を分離させる)予定:ALSの最終形(胃ろうで栄養摂取、人工呼吸器を24時間装着)に向かっていく。
気管切開すると発声できなくなり、コミュニケーションが難しくなっていく
 ▼
診断確定=人生の転機
障害者関係の仕事や勉強をしてきたので、いろんな意味で準備がされていたと感じている
障害者の友達も多く、重症心身障害児と関わることもあった
障害者との出会いを通して、生き方について考えてみたり、学んだりすることも多かった
必要な支援を得て地域で生きる障害のある友達も多い
>DPI(障害者当事者団体の世界的な組織)
社会福祉士(5年間の岩手での仕事が被災者支援だった。村役場の職員として被災者の生活支援や住宅再建など携わり、通信講座で2019年に取得)
海外生活を通して柔軟性が身につき、不条理な出来事が普通に起こることも知った。
>世界を振り返ると戦争や紛争など有り得ないことが起きていて、自然災害なども随所にあった。病気もその1つだろうという考えをもっている。
 ▼
ALSになるまでに、いろいろなことが備えられていた

【ALSの生活】

1日1日を感謝して大切に生きる(病気の前より、丁寧に生きられるようになった)
信仰が自分にとってとても大切だったことにあらためて気付かされた
支援者や患者仲間など、病気にならないと出会うことができなかった素敵な人々との出会いがあった
障害児教育や障害者支援分野で働き、ある程度知っていたつもりだったが、重度障害者や難病患者のことについては知らないことも多く、貴重な体験、そして勉強になった。(自分の幅が広がった)
何でも自分でやろう、ではなく、全てを委ねて暮らすことも意味があると思っている。

【気付き】

個人ではなく、社会の中にこそ障害がたくさんある:心のバリア
>障害=恥ずかしいと感じている人も多い
歩けなくなり、転倒しやすくなっても、車いすに乗るのを躊躇する人もいる(便利なのに)
障害者は社会の役に立てないという感覚を持っている人も多い
“不幸な人”と考える人がいる一方で、ある一定数の障害者たちは、病気になっても充実した生活を送っている>本当にその人を理解することが大切
人の手を借りる人は半人前という考え方もある、存在自体が社会の迷惑(税金の無駄遣いのような風潮)
>障害者や難病患者、高齢者は安楽死した方が良いのか?(危惧している感覚)

【物理的・制度的にもバリアフリー】

1990年代当時に比べると、車椅子のアクセスは格段に良くなった(当時は車椅子用の券売機もなく、車椅子ユーザーは自分で切符も買えないような状態だった。)
>あれから30年以上が経ったが、まだまだ障害は多い
賃貸契約:両親の介護が難しい現状がある上、自分の療養のことも考えないといけない
>診断確定後、部屋探しをすぐに始めた。しかし無職の障害者は成人していても契約者にはなれない。
>車いすでの生活が可能な物件が少ない(34件/36件お断り)
>バリアフリーとは?(階段に手すりがついているだけでバリアフリーと謳っているところも)
公営住宅:一定数の物件は障害者利用可能なはずだが、身の回りのことが自分でできない人は施設入所を誘導される(ヘルパーがいると言っても・・・。)
《障害だらけの社会》
福祉車両の積載量:200kg(身体の機能が低下するに伴い、リクライニングや昇降などの機能が必要となり大型化して重くなる)、演者の電動車いすは196kg
移動に倍以上の時間がかかる(スロープを持ってきてもらう時間、車椅子が通れない改札、エレベーターが遠い、もしくはエレベーターがない駅もある)
多くのお店は車いすで入れない(薬局でも、2階があるから行けない、車いす用トイレもない)
大人用のおむつ交換台とおむつ用ゴミ箱もない(持って帰るの!?)
プール用リフトがない(飛び込めてもプールサイドに上がれない)
ビーチ用の車いすが日本では普及していない

【重度障害者の生活(お金が掛かる)】

介助者との生活:外出の場合、食費、交通費、宿泊費等は介助者の分も負担する必要がある。
>それなりの費用がかかる
家賃、備品なども

《病気が生活に及ぼしている影響》
仕事ができなくなったため年金暮らし
家族と離れた暮らし(車いすのため、家が狭すぎる)、遠くから通勤するヘルパーのためにも駅近が必要
ヘルパーとの生活

【医療と介護(要介護5、身体障害者手帳1級、障害支援区分6、重度障害者等包括支援対象者)】
〇入院
診断確定後の2年間に7回入院、ロボットスーツで歩行リハビリ(9回で1クール)
呼吸リハビリ(月~金で看護師)
入院中に声の録音、そして視線入力などコミュニケーション支援の学び
>コミュニケーションは最も大事なことであり、文字盤や口文字などの方法も学んでいる
カフアシスト導入(排痰補助装置、肺の柔軟性を保つためのリハビリについて)
○通院:1カ月に1回は都立病院の専門医通院(ALS外来)、3ヶ月に1回地域の総合病院へ
○在宅:
>ヘルパー20人前後、訪問診療2回/月、訪問看護とリハ週5回、訪問薬剤師月2回、訪問マッサージ週4回
指定難病:指定難病医療受給者証申請
介護保険申請
身体障害者手帳申請
障害福祉サービス:障害支援区分申請(区分は1-6まで、4以上だと重度訪問介護が受けられる)
障害年金手続き
特別障害者手当、福祉有償運送サービス
介護保険:福祉用具レンタル、訪問入浴、デイケアなど
住宅改修工事:自宅階段手すり、段差解消、スロープ設置など
福祉用具購入:シャワー椅子、ポータブルトイレ、介護リフト用スリングシートなど

【驚いたこと】

異性介助が当たり前
病院では男性看護師も多い
>排泄も入浴も男性に介助してもらうことが多い
>断ると待たないと行けないから非常に不利益
清潔を保つ困難さ(月に1回の訪問入浴)
入院時は週に1回の機械浴など

【訪問薬剤師】
在宅療養で強い味方(訪問診療の処方箋により)
今年の1月2月で、謎の咳、2月の始めに発熱
>薬が緊急で必要になった
>薬剤師に持ってきてもらい、お薬事情やいろんな相談など
>楽しい話しで情報交換

既存のALS治療薬
点滴から経口薬に
錠剤(朝夕食前に服薬)

○質疑応答

ヘルパーさんなど支援者に望むことは?
 ▽
命を守る仕事である、痰の吸引や胃瘻で経管栄養など日々の生活を支える意味。大切な仕事である誇りを持っていただきたい。医師や看護師がずっとそばに居てくれる訳ではない。その他の膨大な時間を、気遣って支えてくれるのは介助者のおかげだと思っている。
コミュニケーションが難しくなっていく疾患、人によって最後まで動く場所はまちまちだが、特殊なコミュニケーション方法を習得していただくと通訳的な役割にもなる。社会への発信や窓口すら担っていただける。眼球も動かせなくなることもある。TLSの状態にもなりかねない。全く動かなくなり、言葉が話せなくなった時でも、いつもそばに居て、気持ちを汲み取って他者に伝えてもらいたいと思っている。自分の分身や家族のような位置づけだと感じている。

スケジュールは自分で作ったのですか?他に自分で工夫されていることはありますか?
 ▽
はい。このスケジュール表は自分で作った。ヘルパーのシフトなど医療以外の生活スケジュールが分かるように作った。毎月の通院でも主治医に自分の生活状況が分かるようにと作っている。他にも物品の管理表(消耗品の在庫管理)なども作った。

ALSの症状が足から来たというのは具体的にどういうことだった?
 ▽
2018年岩手にいて、帰省するとき、バスの階段で転倒して重度の捻挫に。そこでの診断は当然捻挫だった。2019年同じ足が原因で道路にて転んだ。足が麻痺している、腓骨神経麻痺と言われた。治りづらかったので補装具を付けていた。杖で歩いたりもした。どんどん歩けなくなった。学校ソーシャルワーカーとして巡回していて、坂が上れず、歩けなくなり脱力した。足の力が急に抜けて転ぶことが多かった。ワゴン車から降りるとき、杖をついているのに前に転んだりした。整形に通っていたがALSの診断が出ず、なかなか神経内科に回されなかった。診断前の時期には、Webで調べて、ALSじゃないかな?と疑ってはいたし、医師にもはっきりとALSのことを伝えた。しかし先生からははっきりとは言われず時が流れた。再度Webで病院を調べ、最終的には別の病院(ALS専門外来)へ行き、あっさりとALSと診断された。

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