小説 失神国民健康保険 その1関本ぶりき
失業保険が先月で切れた。
しかし失業は継続中だ。来月で35。35歳、病気なし、フォークリフトの免許あり。転職情報誌、職安での情報など見るに確かに仕事はある。が、俺に勤まるような仕事はなかなかないような気がする。でもきっとそれはそういう気がするだけだ。働かない生活をしていくうちに臆病なおっさんになっただけなのだろう。一日家にいる生活をつづけると、家以外の場所で時間を費やすことがどえらく面倒くさくなるのだ。
で、俺は誰に投票すれば、どの党に投票すれば楽でもうかる仕事を手に入れることができるのだろうか。
おそらく当選しそうにない人間の名前を書き、おそらく当選しそうにない政党に投票し、おわる。白票いれて得意気になれるようなおっさんではない。
集会所の前に桜が咲いている。桜が咲いているとみてしまうのはどういうわけだ。セイタカアワダチソウが咲いていてもそんなに見ないのにな。見るか。いや、セイタカアワダチソウを見るとしても桜ほどは見ない。セイタカアワダチソウでは立ち止まってそこまでぼんやりしない。
多数決。
それがおかしいかといわれればおかしくないような気もする。多数決というのが物事を動かすのに適しているところもあるような気がする。が、しかし、それは物事を動かすなんてところからの視点であり、決して一個人の感情をくみ取ったものではない。
一個人。投票した人間が当選しました。となれば答えは簡単だ。公約通りに物事がすすんだならば、それをよしとして投票したのだと、一種のわりきりのようなものが発生するだろう。しかし、問題はさにあらず。自分はその人に、そんな党に投票した覚えがなかったらどうしたいいのだ。
自分はその人に投票しなかったしても、してもだ。
私は違う党にいれたので、消費税8%なんか払いません、という意見は通らないらしいのだ。らしいというか、通らないんでしょう。ね、通らない。なんでなんだ。なんでだ。
じゃ、ま、なんかさ、結局なんか一緒なのか、なんてことになる。現にいまそんな気分で広場の桜を見ている。そんな気分てのは、そのきれいだなああに心が躍るなんてことではなく、大丈夫なのか俺は失業して選挙に来てる場合でもないのではなかろうかなんて気分になるのだ。そんな気分で桜をみると桜は確かに美しいのだが、動物でいえば花ってのは性器でしょう、なんてことも思ってしまうのだ。
人というのは勝手なもので植物が往来で性器を披露していてもきれいだきれだ、といい、おっさんが往来で性器を披露したら危険人物扱いされてしまうのだ。人は勝手だな、勝手だよ。
集会所をでて横断歩道を渡ればツタヤがある。100円で旧作がレンタルされているとても優良なお店で、ここのツタヤのアルバイトの人間たちは、若者たちのアルバイト仲間の感じ、毎日を謳歌している、ファミレスでたまって延々しゃべるのが好き、なんて空気がないのがいい。ないのかどうかは実際しらないが、そういう風には見えない。なかなか好感がもてる。おのおのそれなりに労働している感じ。
そういうような居心地のいいツタヤで一本だけDVDをかりる。失業中は戦争映画がいいというのが最近みつけた映画鑑賞法だ。コメディーやら恋愛物はいけない。人の好いた惚れた、それに伴うごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろご部屋を転がりまわり部屋の物を散乱させてさらにごろごろごろごろごろするアメリカ人のセックス映画を見てる場合ではない、という気がするのだ。戦争映画をみたら見終わった後こう思うの。
「まっとうに生きよう」
自転車にのり住処に向かう。住処までは10分。あちらに桜、こちらに桜。日本と言う国はどうやら桜を植えるのが好きなようである。桜の花というのはいわば性器なんだ、なんてことを思ったわけだが、よくよく考えるとやはり桜を人、動物にあてはめるのはおかしい。木を人とするならば、一つの木に一つの花というわけではない。そういう花もあるだろうが、少なくとも桜は一つの木にたくさんの花が咲く。これを人にあてはめると、高倉健に陰茎だらけ、ということになる。なぜ高倉健なのかというところも変なのだが、そういうことに気をとられすぎては時間を浪費になるし、時間を浪費してはできるはずの再就職もできなくなる。
水道代込で家賃が4万円の1ルーム。
以前近くに大学があり、それを見込んだワンルームがこのあたりにはたくさんあった。時がたち大学が移転され、ワンルームだけが残り、そしてこのハイツには妙な人間だけが残る形となった。月一で火災報知機をならすじいさん、スーツをきて夜中にでかける男、階段の上からスーパーボールをはねさせて遊んでるおばさんエトセトラ。どこかの寺のお坊さんらしき若者が隣に住んでいてそいつはたまに大きな声で不平不満をまき散らす。夜中の2時に「いつかあいつを殴ってやる」なんて怒鳴り声が隣の部屋から聞こえてきたらどうだ。そのあいつてのが俺なのじゃないだろうかと恐ろしくもなる。
ワンルームという奴はどうやって演出したところでしみったれた感じをぬぐうことは難しく、しみったれた感じ、感じ、というか郵便貯金が残り100万の失業者はどちらかというとしみったれたほうではあるので、そこにあるそのしみったれた感をぬぐうことは容易ではなく、とどのつまりしみったれた部屋でおねおねしている。おねおねとは靴下をぬいでコーヒーメイカーでコーヒーを作りコーヒーを飲むということである。しみったれた部屋で唯一しみったれてないところはコーヒーメーカーがあるというところではなかろうか。
どんぶりをだし、白飯をよそいたまごを割る。時代が違えばこれで十分ごちそうだったのだろうが、この時代のこの国では玉子かけごはんをごちそうと言う人は少ない。この世界には玉子かけごはんの店があるという。どうちがうのだろうか。玉子かけごはんはどこまでいっても玉子かけごはんであり、そこに山椒をいれたり、いわんやバジルをいれたり、味をかえることはできるだろが、それはたまごの力にあらずである。たまごかけごはんがただ悠然とたまごとして勝負しているところを見に行きたい、味わいにいきたいものだが、調べたところによるとその店は岡山にあるらしい。ここは大阪だ。なぜ、玉子かけごはんのために近畿をでなければならない。そもそも旅行というやつをさしてしたことがない人間なのだが、玉子かけごはんのために岡山までいったしたら、どうだろう少し味に補正がかかるのではなかろうか。
「わざわざ岡山まできたのだ、家でたべる玉子かけごはんと変りないとは思いたくない」
という状態になるのではなかろうか。
いつもの流れだと、あとは昼寝ということになる。
日曜だろうが、月曜だろうが、失業者にいつもの流れはかわらない。
昼は昼寝をするためにある。午前中したことは集会所まで10分自転車にのっただけだ。うららかな午後、俺は昼寝をする。うららかってなんだ。
いつもの流れは簡単に形成される。
会社を辞めて3日目に形成された、といってもいいだろう。午前自転車でかるく買い物して、昼からは寝る。晩飯をくったら、DVDをみるなり、本を読むなりして、寝る。合間に合間にスマートホンを触る。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。そんなことをしていていいのかどうか。残りの郵便貯金と照らしあわせるにそんなことをしていていいことはないのだが、なかなか就職活動をしよう、ということにはならず、内心びくびくしているのだ。びくびくしているのだが、昼寝をした上に夜は10時に寝てしまう。それだけ寝むれてびくびくてのはおかしな話である。
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