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今日も生きている

時間も世界も目に見えるものではない。
時間も世界も僕の認識にすぎず実体を持たない。

それにも関わらず、常に時間と自分を取り巻く世界を気にしながら生きている。
それは変化の濁流に飲み込まれぬよう時間や世界を捉え、無理に安定させようとしているのかもしれない。

常に自分も時間も世界も変わり続けている。

喜びを分かち合ったことも、嬉しかったことも、傷つき悲しかったことも、許せず憤ったことも。色付く葉が舞い落ち吐息が白くなるように、全ては変化し流れていってしまう。

「だから全ての事象について淡々と流していけばいい」そのように思いつつも、「全ての事象を掴み手離さずいたい」と思ってしまう。
「諦めが肝心だ」しかし「諦めず腐らず続ける事が大事だ」とも言える。

物事には側面も表裏もあってどの理屈をとっても良い。そして理屈は時間の上に立ち、時間は理屈と紐付いている。と言うよりも相互に縛り合っているように思える。
書いているだけで窮屈だし賢しらで嫌になる。
賢しらに理屈を立てると理屈を立てた僕自身が時間に縛られてしまう。時間や理屈に縛られながら生きるのは窮屈で心苦しい。

自分を心苦しくする時間や理屈は、自分が生きるために大事にしたいものだろうかと疑っている。

賢しらがゆえに時間や理屈より大事にしたいものが見えなくなっていないだろうか。
賢しらで大事にしたいものが見えないのであれば、馬鹿になって時間や理屈を超えれば大事なものが見えてくるかもしれない。

馬鹿になると時間を気にしなくなる。
「夢中、没頭、没入、一心不乱」
そんな時には時間が気にならなくなる。

馬鹿になっている時ほど気持ちよく心地よいものはない。その最中僕はひとりぼっちになれる。
時間も世界も忘れ、ただ目の前ものに、自分との調和へ繋がっているだけ。この感覚を大事にしたいと思う。


しかし生きることはとても難しい。そして忙しい。馬鹿ではいられない。ついつい目の前にあるものに忙殺され、心無く過ごしてしまう。

そんな時うまくいかない事や、苦手な事、傷付く事があると自分を疑い始めてしまう。
でも深く息を整え時間や世界を忘れてみると、自分にかけた疑いが晴れていく。

「うまくいく時もあればうまくいかない時もある」
「できていないこともあるけれど、できていることもたくさんある」
「苦手なこともあるけれど得意なこともある」
「傷付いたこともあるけど癒しもある」

大体はこんな感じの穏当な結論に落ち着いてゆく。


結局のところ僕が世界や時間をどう見ているかというだけに過ぎない。変化の濁流に飲み込まれぬように、必死に身の回りにあるものにしがみつく。その結果、人との関わりだの、微小な事例に紐付け煩わしくなってしまう、これらの殆どは自傷的な揺らぎだ。

今がまれに揺らいでいるというだけに過ぎない。
生きているだけで様々なことに影響され浮き沈む。生きることは忙しすぎる。


だからと言って自身に極端な変化を促すばかりが生きる方法ではないと思う。
本来、生きるものの生態は多種多様なはずだ。

生きることは環境に合わせて変化を遂げること。大きく変わること、自分を鍛え抜くこと、学び続けることばかりが変化ではない。


深く深呼吸すること、日を浴びてお茶を飲むこと、言葉を交わすこと、何かを先送りにすることだって生きるための変化だと言える。

だから馬鹿でも大丈夫だと自分に言いたい。
自分はすでにここにあって今日も生きている。
嬉しさも喜びも不意に訪れる。
それを認めてあげるだけでよい。
今日も目を養い手を動かした自分はとてもえらいと思う。

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