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SNSで知らない人に「誕生日祝ってアピール」をはじめたら“こじらせ”脱却しました

こんにちは、かもです。
先日、4月2日に32歳の誕生日を迎えました。
たくさんお祝いメッセージやコメント、いいねをありがとうございました。

SNSで知らない誰かに誕生日を祝っていただくようになって、私は「知人からのお祝い」に対してずいぶんこじらせていたんだなと気がつきました。
子供の頃に抱えた寂しさがようやく溶けていった心の変化を書き留めたいと思います。


気づいてもらえることが価値だった

こんな写真よくあったよね(撮影:かも)

4月2日は、学校でいうと新学期が始まって2日目。まだ春休み中です。小中高と、そんなタイミングにわざわざ私の誕生日を覚えていて祝ってくれる人はほとんどいませんでした(中高はデコメール世代)。

学期中だと誰かが「〇〇ちゃんの誕生日だよね!」と言い出せば、みんなが祝うので羨ましかったです。そんな光景を刻むうちに、誕生日を覚えていてくれることの価値がどんどん高まり、その行動だけが“本当の友達”のように感じるようになりました。

少しずつ“こじらせ人間”になった私は、大人になってもその感覚を引きずります。言葉では「私たち友達だよね!」と言いながら、誕生日にLINEのひとつも送ってこないと密かに悲しむ20代でした。

X(旧Twitter)本格始動

2021年頃から「会社以外のコミュニティや友達がほしい」と思い立ち、Xでの投稿や交流を少し真面目にやり始めました。フォロワーの多いすごそうな人、リプがマメな優しい人、変なことを投稿する人など、徐々にTwitterの空気感がわかっていきます。

すると、誰かの誕生日ツイートにたくさんのいいねやコメントがついているのを目にします。祝われにくい私にとってはある意味での憧れ。それがきっかけです。

マインドパラダイムシフト

レーザービーム(撮影:かも)

誕生日を祝ってくれる相手が「自分を知っている」という前提だった頃は、こんな気持ちが自分の中を渦巻いていたように思います。

  • 誰か気がついてくれるかな

  • 誰も祝ってくれなかったらどうしよう

  • 祝ってなんておこがましいかな

  • どうせ誰も私のことなんて興味ない

しかし、そもそも他人であるTwitter上の相互さんたちにそんな期待値はありません。風船のエフェクトもプロフィールに行かなければ気が付かないので、言われなければ知らなくて当然です。いくら私がこじらせていても「他人ばかりのTwitterで誕生日を察してちゃんするなんて無理がある」ことくらいはわかります。

そこで勇気を出して宣言してみたのがこの投稿。

48件のいいね、12件のコメント。当時は直接お会いしたことがある方はほぼいなかったので、こんなにも多くの反応いただけたのは本当にうれしかったです。

誕生日は気兼ねなく祝ってアピールできるネタ

SNSの発達で何かとセンシティブな昨今。私も世界の全てがゼロサムゲームに見えていた時代があるのでよくわかります。恋愛、結婚、出産、昇進、転職、起業…… 相手の状況が見えない中で「私は幸せなんだから祝ってよ!」と押し付けてしまうと角が立ちますよね。

ただ、自分がこの世に生まれた日くらいは気にしなくていいと思うんです!だって「自分が生きている」という点ではみなさん同じですし、誰かの何かの枠を奪うわけではありません。相手に祝えない事情があったとしても、それ以外の「おめでとう」と言ってくれた人に感謝するだけで十分幸せでありがたいと思うのです。

祝ってアピールはむしろ健全

生誕祭ウィークのケーキ(撮影:かも)

誕生日だと自分から宣言して「祝ってくれたらうれしいな」と素直に表に出すことで、自分も周囲もハッピーになれると思えるようになりました。

パートナーに対しても、サプライズを求めるのはやめました!一緒に利用しているカレンダーアプリTimeTreeには、誕生日前後の土日を含めて2週間に渡って「かも生誕祭ウィーク」を設定する図々しさ!笑

でもこれが話のきっかけになるわけです。勝手に期待してイメージどおりにならないことを不満に思うよりずっとよくないですか?笑(正当化)

もし「祝ってもらえてないな」と感じている人がいたら、私のように自分から宣言してみるのはいかがでしょうか。
みなさんのお誕生日投稿にもなるべくお祝いコメントしにいくので教えてくださいね!

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