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#2 【もし少子化で日本が無くなったら】 文章で自伝を残すということ

 日本が抱える直近の課題として、よく少子化問題が取り上げられる。この話題はつい「このまま日本はなくなるのか?」のようなキャッチーな話にも飛躍しがちである。あの世界的な起業家、イーロン・マスクも2022年と2024年に、「日本の出生率が死亡率を上回らない限り、日本はいずれ立ち行かなくなるだろう。そして、これは世界にとって大きな損失になるだろう。」という趣旨の投稿をソーシャルメディアで上げて話題を呼んだ。
  そこでこの記事では、「少子化によって日本はどうなるのか?」というテーマでわたし(自伝の執筆と保管を文化に|匿名性自伝サービス「アークカイブ」運営代表)なりの考えを紹介したい。あわせて、なぜ自伝文章の「執筆」という形で、「アークカイブ」のサービスの運営を行なっているのか。この理由についても触れる。 

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少子化によって日本はどうなるのか?

 日本が抱える「少子化によって日本はどうなるのか?」という問題。少子化の未来については、それを想像するだけで不安が押し寄せる。このまま日本の国力も落ちていき、私たちはどんどん貧しくなり、生活の質が下がっていくのではないか。孤独、苦しみ、精神的・身体的な疲労が蔓延した社会が待っているのではないか。その中、最後は日本がなくなるという、消失の恐怖まで待っているのではないか。不安が募るなか、現実を見る。すると、少子化対策、移民政策、経済政策、技術革新での克服、適正人口の研究など、様々な議論が進められている。
 そこで、この難しすぎる問題に対して私から一つ提案がある。それが、「少子化によってこれから日本がどうなっていくか?」を考えることは敢えて避け、別の角度から課題を見てみるというアプローチ。たとえば、少し唐突で不本意でもあるが、最悪のシナリオを想像してみるのはどうだろうか。具体的には、「最終的に日本という国が消失する未来」についてだ。そんな未来では、世界はどうなっているだろうか。ぜひ読者のみなさんも一緒になって考えて欲しい。何かしら、新しい視点や取るべき行動が見えてくるかもしれない。

日本という国が消失した未来を想像してみる

 そうと決まれば、早速、先の未来について想像していく。将来、何をしても止まらない少子化があったと仮定し、最終的に日本の領土内に国民がいなくなった状態を考えてみてはどうだろうか。国を構成する三つの要素は領土、国民、主権。これを踏まえると、国民がいなくなることは、国際的にみても日本という国の消失を意味することになるだろう。これこそが私たちの迎えうる最悪のシナリオ。果たして、そんな未来で世界はどうなっているだろうか・・・少し考えてみる・・・

歴史から考えてみる

 ただし、考えてみたところで全くイメージが湧かなかった。未来の話ということで現実とあまりにも乖離があり、SF映画でみたようなシーンしか思い浮かばない。そこで、早々に未来についての想像は諦める。代わりに、過去の歴史から「完全に滅びた人々」を探っていくことにする。歴史上、完全に滅びた人々として、読者のみなさんは何か思いつくだろうか。
  私が最初に思いついたのはイースター島。モアイ像で有名で、滅びた文明としてスポットが当たることも多い。ただし、改めてネットで調べたところ、イースター島の人たちは完全に滅びたわけではなさそうだ(先住民の末裔が今も島に住んでいるとのこと)。これでは、埒が明かない。ひらめきに頼ることを辞め、じっくりと書籍から探していくことにしよう。
  そして、右往左往を繰り返し、流れ着いた先が「人類の起源」という書籍(著者は国立科学博物館の館長を務めている分子人類学者の篠田謙一氏)。ようやく話が前進していく兆しが出てきた。 
 まずこの本について紹介すると、人類がアフリカで誕生してから世界中に散らばった様子を、遺伝情報の解析結果を交えながら網羅的に解説した内容となっている。個人的には、「人類」についての理解が深まることに面白さを感じた。たとえば、ほとんどの方は「人類」と聞くと、今地球上にいるわたしたちホモ・サピエンスを想像するだろう。しかし、この本では古代人類のネアンデルタール人もまたホモ・サピエンスと密接に関わっていた「人類」であることをわかりやすく紹介している。
(今地球上にいる人類が新人のホモ・サピエンス。20万年ほど前に誕生し、徐々に現代人のようになった。これに対し、旧人のネアンデルタール人は20~30万年前に誕生して、何万年か前に滅んだ人類。)
  そんな本を読み進める中、過去に完全に滅びた人々の例として、ネアンデルタール人こそふわさしい題材という考えに至る。もちろん、読者の中には「ネアンデルタール人の例はおかしくないか?私たち新人とは別の種ではないか?」と指摘される方もいるのは百も承知。これはその通り。たしかにネアンデルタール人は私たちホモ・サピエンスとは別の種であり、私たちのような人間というよりは、やや猿っぽい動物的なイメージである。このイメージは、学校の教科書で学んだ時に出来上がったものだろう。

ネアンデルタール人

猿人・原人・旧人・新人

 記憶をたどると、歴史の教科書には人類の起源を簡単に説明したページがあったように思う。ちょうど進化論のようなイメージ図。まず最初に、猿から分岐した二足歩行の猿っぽい猿人が現れる。次に、そこから少し猿を脱した原人が登場。さらに、だいぶ人間の姿に近づいたとはいえ、やはり猿っぽさが残るネアンデルタール人などの旧人が登場する。ようやく最後に、我々新人の姿をしたホモ・サピエンスが載っており、人類がまるでイメージ図のように進化してきたかのように説明されていた。このイメージ図もあってか、旧人に分類されるネアンデルタール人も、進化の過程で登場した、やや猿っぽさが残る動物に見えてしまう。
 ところが、最近の進化人類学の研究によると、この既存のイメージを改める必要があるのだという。具体的に言うと、どうやら数十万年ものあいだ、新人のホモ・サピエンスと旧人のネアンデルタール人は、地球上で共存していたことがわかったそうだ。さらに教科書のイメージで記憶していた読者には衝撃的かもしれないが、その頃に交雑も行われていたとのこと。
  動かぬ証拠もある。現代のアジアやヨーロッパに住む人々の中にも、ネアンデルタール人のDNAが数%ほどの割合で混入しているらしい。これは私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人の間で恋愛を含めた交流があった可能性を示唆している。ここで、すこし想像してみて欲しい。これは現代で言うところの国際結婚よりも遺伝子的に遥かに遠い交流の話になるのではないか。例えとして正しいのか分からないが、まるでロバと馬が交雑してラバやミュールが生まれてくるような感覚かもしれない。
  なににしても、数万年前に完全に亡びたネアンデルタール人だが、その遺伝子情報は現代人のなかに存続し、影響を及ぼしている。これこそが揺るぎない事実である。体の色、髪の毛の色、さらに一部の病原体への免疫までネアンデルタール人由来の可能性があるとのこと。加えて、ほかにもネアンデルタール人由来の情報が残っている。それが、ネアンデルタール人の化石と一緒に遺跡から発見された石器(ムステリアン文化)などの道具。これらの道具を通じ、当時のネアンデルタール人の文化の様子が私たちの脳の中にイメージされることで、文化情報として存続を果たしている。

遺伝子情報と文化情報が未来に影響を与え続ける

 ここまで話が複雑になったので、一度まとめる。まず、数万年前に完全に亡びた人類がネアンデルタール人だが、遺伝子情報と文化情報は未だにわたしたちの日常に影響を与えていた。これを踏まえ、最初に想像を試みた「日本という国が消失した未来」について話を戻す。すると、日本が消失した場合においても、同じように遺伝子情報や文化情報は受け継がれていくことになるのだろう。未来には、私たちの遺伝子を受け継いだ人が世界中にいて、日本人の身体的特性を有しているかもしれない。ほかにも、寿司料理といった食文化が継承されているかもしれない。
  もちろん、これらは可能性の話だ。だが、こんな未来を想像していくと、「人は刹那に生きると共に永遠にも生きる」という与謝野晶子の言葉を思い出す。これは、仮に人々がいなくなったとしても、それ自体は見た目上の話で、影響力という意味での消滅は、なかなか来ないという考え方ではないか。いつの間にか、未来に対する不安も和らいできた気がする。

遺伝子情報と文化情報にも懸念

 ここまでの話を通し、納得いただいた方も多いと思う。一方で、未だに疑わしいと感じている読者も多いかもしれない。その理由の一つが、ネアンデルタール人と比べたとき、日本人の遺伝子が他国の人々と遺伝的な差が小さいこと。「国際的な交流が進むと、日本人の遺伝子情報は随分と曖昧になるのでは?」と懸念している方もいるだろう。また、別の理由として「文化情報も交流が進むほど曖昧になるのではないか?そうなると、それはもはや消滅したと同義ではないか?」という指摘。
 これらは最もな主張だ。「人類の起源」でも言及されていたが、世界中にいる人々(ホモ・サピエンス)の遺伝子情報の99.9%は共通しているらしい。そして今後さらなるグローバル化によって、残りの0.1%も混合が進んでいく。DNA解析の詳しいことは不明だが、時間が経てば経つほど「日本人の遺伝的特徴」は曖昧になるのだろう。加えて、文化情報についてもかなり曖昧なものになると想像できる。現に海外では、アボカドが入ったカリフォルニアロールという、巻き寿司がすでに人気な状態。日本という国がなくなり、伝統文化を受け継ぐ人が減った暁には、「すし」という料理の呼び方だけが残り、料理そのものは全く別物になっているかもしれない。この有様では、文化情報が存続していると言えるかは怪しい。

ホモ・サピエンスの言語能力

 ただし、これらの可能性を考慮してもなお、日本の影響力というのは、ある程度の長い期間、明確に強い影響を持ち続けるとわたしは予想している。というのも、私たちホモ・サピエンスは、言語能力が優れている点でネアンデルタール人と決定的に異なる(ホモ・サピエンスには、言語能力に関係するといわれる遺伝子領域がある)。そして、この優れた言語能力を取得できたことで、わたしたちは道筋を立てて深く考えられるようになったという説まである。
 石器時代に見られた進歩について考えると分かりやすい。当時の石器を分析すると、ネアンデルタール人は長い年月、似たような石器を延々と作り続けていたとされる。一方、ホモ・サピエンスの石器は時間と共により多彩に、よりスピーディーにデザインが進歩していった。言語能力の獲得によって発明、他者と協力、知識を後世へと効率的に累積させることなどが可能になったのだろう(累積的文化進化)。この文化の急速な発展によって、ホモ・サピエンスは地球上でここまで繁栄するに至ったと言われている。
  そんな言語能力の特筆すべき性質として、文章が書かれた状態で残ってさえいれば、書き手が意図した文化情報が長期間、明確に存続していくこと。これについては、疑わしいと判断した読者の方もいるかもしれない。そこで最後に、400年前から今にかけて続く日本語の文化情報を、海外で目撃した実体験について紹介する。

アンコール・ワット

アンコール・ワット

 それは、わたしがずいぶん前に、カンボジアのアンコールワットに行ったときのことだ。ガイドに連れられ、アンコール・ワット遺跡の中を突き進む。すると途中で、ガイドが建造物の柱に書かれた文字について解説しはじめる。かなり古く、肉眼では何が書いてあるか殆ど分からない状態だったが、解説に耳を傾けると、それは江戸時代にやってきた日本人の落書きとのこと。表現力のない私のチープな感想で申し訳ないのだが、誰もが想像していなかった形で個人の思いが時代を超えた気がした。
 
 後になって、その落書きについて調べてみると、なんと1632年に書かれたものだった。このときの時代背景をみると、150年近く続いた戦乱の世が終わったころ。徳川幕府による天下統一が達成され、しばらく経った時期だ。肝心の落書きを残したのは、森本右近太夫(もりもと うこんだゆう)という3~40歳ほどの年と思われる九州の武士だ。朱印船に乗ってるばるアンコール・ワットを訪れ、お参りを兼ねて落書きしたということだった。そして200字にも満たない落書きの内容をシンプルに説明すると、「嘆かわしい世の中と家族のために遠路遥々お参りするためにやってきた」という趣旨。 
 つまり、江戸幕府の体制が整っていく中、幸か不幸か、森本右近太夫は鎖国前に朱印船に乗って海外を旅する機会を得られたのだろう。武士に求められる役割も変わりつつある時代の中、家族のために落書きを残したのかもしれない。これが、勝手ながらわたしが想像した内容で、400年経った現代の私たちと重なる感覚があるような気がした。
 このアンコール・ワットの例は、数ある例のほんの一部に過ぎない。日本語は書籍、建築物、美術品、工芸品、インターネット上など、あらゆる場所で使用されてきた。膨大な文化情報が残ることは必然。つまるところ、仮に日本が消滅する未来が訪れたとしても、その影響力が完全に無くなることは考えにくい。やはり、過度に未来に対して不安に思う必要はないといえる。

まとめ|文章で自伝を残すということ

 以上、ここまで「少子化によって日本はどうなるのか?」というテーマで見てきた。今のうちに「私たちで考えられることはないか?」と思い、不本意ではあるものの、日本が消失した未来について想像を展開。ネアンデルタール人の話を交えながら、遺伝子情報と文化情報が受け継がれていく未来を想像することができた。また、アンコール・ワット遺跡に残された江戸時代の落書きを通し、わたしたちホモ・サピエンスが持つ言語能力が文化情報を伝達する上で脅威の能力を誇ることを確認した。 
 最後に余談だが、1998年に出版された「文化経済学」という書籍のなかで、著者(池上惇)はIT技術によって文化のさらなる発展を期待している。IT技術によって、より多くの人が文化に参加できる未来を想像していたようだ。たしかに、それまで文字は石・建造物(エジプトのヒエログリフ、アンコール・ワットの落書きなど)あるいは紙(古事記といった歴史書)といった物的な材料に書き記す方法しか存在しなかった。不便かつ保管コストも膨大で、利用者も制限される。一方のITメディアは、多くの利用者による執筆そして閲覧が可能で、保管コストも圧倒的に低い。
 そして1998年から四半世紀が過ぎ、本当にインターネットの発展は目覚ましかったように思う。期待されていたように、たくさんの文化が発展した。
 またこうなると、個人的には未来に向けて自伝を保管することについての想像も膨らんでくる。もし仮に、サービスを長期的に維持することさえできれば、たくさんの人によって執筆された自伝文章を、そのままの状態で、はるか未来の人々へ共有することも可能になるということだ。一人一人の文化情報が確実に受け継がれる世界。 
 そこで、そんな未来に向けて私は匿名性自伝サービス「アークカイブ」を運営するに至った。

【参考文献】

  • 篠田謙一(2022) 「人類の起源」中央公論新社

  • 印東道子(2012) 「人類大移動」朝日新聞出版

  • マイケル・コーバリス(2008) 「言葉は身振りから進化した」 勁草書房

  • 池上惇・植木浩・福原義春[編](1998) 「文化経済学」 有斐閣

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