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#1 【生きる意味とは?】 自伝を残す意味

 「わたしたちは何のために生きているのか?」この問いは、誰しもが一度は自分に問いかけたことがある問題ではないだろうか。この記事では、この問いに対するわたし(自伝の執筆と保管を文化に|匿名性自伝サービス「アークカイブ」運営代表)なりの考えを紹介しつつ、あわせて自伝を残す意味について触れたい。

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わたしたちは何のために生きているのか?

 「わたしたちは何のために生きているのか?」という問題がある。突然の問いに、読者を驚かせてしまったかもしれない。もちろん「リッチでハッピーな人生にしよう」のような、自己啓発の内容を発信したいわけではない。むしろ、私がこれから共有する内容について読者のみなさんも一緒になって考えて欲しい。
  しかしながら、とっかかりが難しい問題のため、まず手始めに「あなたの生き甲斐は何ですか?」と、街中でインタビューしたと想定してみよう。ぜひ読者のみなさんも一緒になって想像して欲しい。そこで得られる回答には、どのような内容が考えられるだろうか。
  たとえば「子孫を残すため!」という回答が出るだろう。生物の機能に焦点を当てた、文字通り生物学的な答えである。また別の人は、「仕事のため!」と、ライフワークを重視した回答をするかもしれない。ほかにも「1日の最後に晩酌を楽しむため」や、「生きるために生きる」など、日常の中に潜む幸せや哲学的な視点からの回答も考えられる。もちろん中には、「答えなんてない!」や「答えを考える意味なんてない」
と回答する方もいるだろう。
  読者のみなさんの場合、どのような回答が頭に浮かんだだろうか。ちなみに、私の回答は「生きた意味を、未来の人たちに決めてもらうのはどうか?」というもの。今回は、私がこの回答に辿り着いた経緯を説明しながら、私たちが生きる意味について考えてみたい。

書籍「利己的な遺伝子」

 まず、「わたしたちは何のために生きているのか?」
という問いに対し、この答えの一部に多くの人がたどり着いていると私は長らく考えていた。これは、「利己的な遺伝子」という本に「人はなぜいるのか?」という問いに対する一つの解釈が書かれていたためだ。
  この本をご存じの方も多いだろう。1976年に発売された、イギリスのリチャード・ドーキンスという生物学者の書籍。世界で100万部を超えるベストセラーになった。わたしなりの解釈で内容を非常に簡単かつキャッチーに説明すると、「遺伝子の視点に立つことで、生物のあらゆる行動は説明できる」というもの。ここでもう少し深掘りして説明する。

リチャード・ドーキンス image from wikipedia

 まず前提として、この地球上にはたくさんの生物が生息している。適当に例を挙げていくと、カモメ、ライオン、イルカ、ハチ。私たち人間の目からすると、これらの生物は種ごとに多種多様な振る舞いをしているように見える。たとえば、生物によっては一見すると利己的な行動をとるものもいる。ユリカモメなどは隙を見て
他のカモメの卵を食べることがあるそうだ。一方で利他的な行動をとる生物もいる。この例にピッタリな生物が働きバチ。外敵が現れたとき、自分の命と引き換えに針を刺して攻撃し、仲間を守る。
  そして「なぜ生物が多種多様な行動をとるのか?」という問いは専門家の間でも議論になる。「個体が生き残るための行動ではないか?」との説明から、「種の存続のための行動ではないか?」との説明まで、さまざまな論争が展開。そこで、著者リチャード・ドーキンスの出番だ。一見バラバラに見える生物の行動に対し、生物の姿形を設計し、間接的に行動をコントロールしている遺伝子情報に注目する。
 つまり、問題の着眼点を個体や種から、全ての生物が共通して持つ遺伝子という単位に落とし込んだことになる。非常に斬新な視点からの切り口。その上で、「どの生物も遺伝子の特性を体現した姿であり、バラバラに見える行動も、遺伝子が存続する視点から見れば理にかなった解釈ができる」と、この本で詳しく説明した。 
 これは言い換えれば、私たち人類も含めて、あらゆる生物は遺伝子が地球環境で存続していくための機械(箱)であるという捉え方にもなる。さらに言えば、機械(箱)は時代や環境とあわせながら、全く異なる姿へ移り変わっている。その機械(箱)は時として、恐竜の姿で繁栄することもあれば、現代の人類のような形で繁栄することもあるといった具合だ。ただし、30億年前に生物が誕生して以来、滅びたことのない遺伝子という視点から見ると、どうだろうか。結局、どんな機械(箱)の姿であれ、自然選択によってある特定の遺伝子の割合が変動しているだけだ。
 要約すると、ドーキンスは地球上で存続してきた多種多様な生物を、遺伝子の視点から驚くほど簡潔にまとめあげたことになる。

わたしたちの日常の意味

 このシンプルな解釈は面白い。しかし、ここまで聞くと不満も生じる。「わたしたち人間もその遺伝子と地球環境による副産物で、遺伝子の存続こそが生きる目的だ」と、言われているように感じるからだろう。実際、遺伝子は体の中に大量にあるが、認識できないもの。そして、自分の行動のハンドルを握っているのはそんな遺伝子ではなく、認識できている自分の意思のはずだ。少なくともそう思える。こう考えると、遺伝子が中心の視点に不満が出るのは自然なことだろう。
  何より、遺伝子が中心の視点となると、わたしたちの生きる目的も子孫を残すことが中心となりそうだ。もちろん、誤解の無いように言えば、子孫を残すことは大切だ。ただ、それ以外の人生の行為の連続に説得力のある意味が欲しい。読者のみなさんはどうだろうか。わたしと同様に「子孫を残すこと以外の、わたしたちの日常の行為に意味はないのか?」と不満を感じた方も多いと想像している。

文化情報(ミーム)

 ここまで「利己的な遺伝子」の内容を見ながら、ドーキンスの遺伝子中心の視点は、生物を簡潔に説明できる点で魅力的な切り口に思われた。一方で、「人間の生きる目的は子孫を残す」という、ありふれた生物学的な視点からの回答に要約されてしまった気もして不満も発生。回り回ってなんともあっけない結末になろうとしている。
 ただし、大丈夫。ここまでの内容は「利己的な遺伝子」の部分的な考えである。わたしたちの日常に「意味がある」と解釈できる内容が、同じくこの本の11章に取り上げられていた。
 そして、この本にあったその回答が次の通り。「人間は遺伝子以外のものも存続させている可能性があり、実は日常生活の中で文化情報というものを存続させているのではないか?」と、ドーキンスは考えているようだ(この類似の考え方を経済学者のケネス・E・ボールディングも示唆)。
  ただここで、「文化(人々の思考パターンと、それと連動した生活の形や社会集団の組織の様式)」という言葉はあまりにも広い概念で、イマイチわかりにくい。そのため、身近な例をとってより具体的に説明する。
 まず、たとえの一つとして仕事上の場面を挙げてみよう。業務である企画書を提出したとする。すると、その企画書のアイデア情報は、それを読んだほかの誰かの脳に定着する。また別の例として、ピラミッドのような世界文化遺産を見ると、当時の人々の生活の一部が脳の中にイメージされ、情報として残る。さらに青森ねぶり祭のような伝統的なお祭りは、千年以上続く営みが時代を超えて人々の脳に情報として存続している。

文化情報(ミーム)が複製されるイメージ

 このように、私たちの身の回りの文化情報は、ある人の脳から他の人の脳へと受け継がれ、遺伝子のように存続し、我々の行動に影響を与えている。(ちなみに、この文化情報がコピーされる単位を「ミーム」と、著者のドーキンスは命名している。)そうなると、人間はただ生きているだけで文化情報の存続に貢献しているということになるのではないか。

遺伝子と文化情報

 ここまで話が複雑になったので、一度まとめる。まず、人間は生きていく上で遺伝子情報、そして文化情報(ミーム)という二つの情報を存続させている。生物の体の設計図を子孫へとコピーしながら存続していくものが遺伝子情報。音楽や科学技術といった、人の脳から脳へとコピーしながら存続していくものが文化情報(ミーム)。すると、
「わたしたちは何のために生きているのか?」
を考える上で、ずっと昔から存続してきて、これから存続していく「続きがあるもの」という点に生きる意味を見い出すのであれば、この遺伝子と文化情報(ミーム)の二つはとても有意義なポイントになりそうだ。
  とはいえ、聞き慣れた遺伝子情報という言葉が、一人の人間を形作っている生物の設計情報に対し、文化情報(ミーム)の存続については考え方やイメージがしっくり来ていないと感じる読者もいるだろう。文化情報(ミーム)は遺伝子情報以外の全ての情報のため、雑誌で見たファッション、街中で聞いた音楽など、ありとあらゆるところで確認できる。
  さらに、より分かりやすいように、わずかな文化情報(ミーム)がのちに大きなインパクトを残した具体例を準備した。それを、わたしが5年から6年前に見た「ヒトラーの忘れもの」という映画を使って説明する。

映画「ヒトラーの忘れもの」

 映画はタイトルからも想像できるように、第二次世界大戦の悲劇を描いた映画。ことの発端は第二次世界大戦中、ドイツ軍がデンマークの海岸に多くの地雷を埋めたこと。そして戦争が終了すると、デンマーク軍は敗れたドイツ兵に埋められた地雷の撤去作業を強制させる運びとなる。結果、この地雷の撤去により、多くのドイツ兵が命を落とす。
 この「ヒトラーの忘れもの」という映画は、ドイツの少年兵たちが、デンマーク軍の軍曹のもと、地雷撤去を進めていくストーリー。そのため非常に緊迫したシーンや展開が続く。ここまでの説明だけでも内容がかなり濃いが、衝撃的なポイントはもう一つある。それが、この映画が作られたきっかけにもなる話である。
 監督が戦争映画を作るために当時のことをリサーチを進めていたときのこと。少年兵たちが地雷撤去を強いられていたという話は聞いていたものの、それについて調べても正式な文献が一つも残っていなかったそうだ。結局、監督は当時の写真や物品を持っている一般人に聞き込みしながら、当時の情報を集めて映画を撮っている。

文化情報の意義

 つまり、この映画ができなければ、ほとんどの人が地雷撤去によって命を落としたドイツの少年兵の存在を知らなかったということになる。もちろん、成人する前に命を落としていたので、少年兵には自分の子供もいなかったと推測される。
  遺伝子情報と文化情報(ミーム)のどちらの情報の存続も一見難しそうに見えたが、一般の人が当時の資料を保管していたため、映画となって当時の文化情報が広く受け継がれることになった。
 なお、こういった映画を見て考えを巡らせていくと、戦争に限らず、多くの人々の人生の上で、私たちの日々や行動が成り立っていることを実感し、それがまた新たな価値観や人生の方向性を決める要因にもなる。

まとめ|自伝を残す意味

 以上、ここまで話が長くなったが、生きる意味というのは、当然ながら答えを見出すことが非常に難しい問題である。ただし、過去の多くの人々の人生の上で、私たちの日々が成り立っていることを考えると、未来の人たちから見たら、私たち一人一人の日々もまた、いつか大きな意味が見出される日が来るのかもしれない。
 ただし、そのためには、一人一人の文化情報(ミーム)が残っていなければならない。学会を震撼させるような論文、何百年と続く建築物、日常に革命を起こすような発明、流行するような楽曲。もしくは、才能や環境の有無を問わず、誰もが執筆できる自伝という方法もある。
  そこでわたしは、誰もが自伝を執筆し、それが長期的に保管されるサービスや体制を整えるため、匿名性自伝サービス「アークカイブ」の運営をはじめた。ぜひ、自伝の執筆をよろしくお願いします。

【参考文献】

  • リチャード・ドーキンス(2006) 「利己的な遺伝子 増補新装版」 紀伊國屋書店

  • 池上惇・植木浩・福原義春[編](1998) 「文化経済学」 有斐閣

  • マーチン・サントフリート(2017) 「ヒトラーの忘れ物」 ノルディスク・フィルム,キノフィルムズ

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