忘れられた「日常」を拾う
新しく、カメラを買った。もうかれこれ、フィルムカメラは7台くらい所持しているけれど、なかなかこれというものに出会うことができなかった。高いカメラも流行りのカメラも試してみたけれど、しっくりくるものがないばかりか、古いものなので、すぐに壊れてしまったりする。
昔、CDをジャケ買いして、実際あんまりよくなかったけど、買ってしまったし聞くかみたいな経験と似ている気がする。フィルムは、本当に撮ってみないとわからないし、難しくて、カメラ本体とフィルム、撮影条件と自分の気持ちなど、さまざまな要因と息が合うことが必要になる。
だから、初めて1本目のフィルムを現像するときは、とてもドキドキするし、いてもたってもいられない。そんな経験を、元彼の数くらい経験してきて、やっと運命の1台に出会えた時の感動は、言葉ではうまく現しきれない。(それでも調子を崩すときは、ままある。)
新しく買ったサムライは、日常が楽しくなるカメラだと思った。私は、仕事用に、デジタルのフルサイズも持っているし、大きい一眼レフのフィルムカメラも持っている。写りは抜群で、最高の相棒なのは間違いないけれど、何しろ、彼らはとても大きくて重くて、撮られている人も緊張してしまう。
だから、サムライの、小さくて、ちょっと個性的な形に惹かれたし、こぼれてしまう日常、インスタには映えない、本人も忘れてしまっているような当たり前をたくさん残してみたいと思った
これは、スーパーのイズミヤ。多分、渋谷のスクランブル交差点よりも、新宿のガード下よりも、六本木よりも、日本中の多くの人が触れているであろう、イズミヤ。
こういう「大衆」の日常の価値が低く見積もられていること。少し、もったいないなと思う。
岸政彦さんの「断片的なものの社会学」のような世界観がとても好きだし、きっと、これこそが日本の端っこにありそうで、実は、真ん中ストレートな日常なんだろうなと思う。
でも、ニトリやユニクロ、ケーズデンキしかない、この街がずっと好きになれなかった。
私は、和歌山で育って、東京に出て、またこの街に戻ってきた。新宿ルミネが好きだし、神泉の喫茶ライオンに通い詰めていたし、世田谷とか高円寺に住んでいた。だから、この街がダサくて嫌いだった。観光地になるような自然の魅力もないし、寺社仏閣だって、文化的なミニシアターとかセレクト本屋さんもない。
あるのは、接骨院とかTSUTAYAとか、ユニクロ、イオン、イズミヤ。
でも、旅した友人が口にした「どこにでもあるからいいんよ」というふとした一言に、もっとこの日常を残してみたいと思ったんだった。でも、日常をピカピカのフルサイズカメラできれいに残してしまったら、やっぱりちょっとダサいから、きっと、この街を、フィルムのノイズを混ぜて、曖昧に残していくと思う。
友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。