「旅」を撮ることができなかった
9月、地元を巡る旅に出た。大学生のほとんどの夏を海外で過ごしていた私にとって、こんなに窮屈で退屈な夏休みがやってくることは想像もしたくなかった。
今回の旅の舞台は、和歌山県。大阪から1時間で着くにも関わらず、東京の人には、関西だとすら認識されていない土地。そんな未開の地とでも呼べるような地域の、さらに奥地を旅した一夏の話を記録する。
遍歴
高校1年生でカメラを始めてから、どこへ行くにも必ずカメラを持っていた。X線でフィルムが感光しないように手持ちで検査をしてもらう空港の検査の列も今となっては懐かしいほど、何度も何度も、カメラと一緒に旅をした。
飽きるほど旅をして、飽きるほど写真を撮って土地を巡る。そんなシンプルなことが、私の生きがいだったのに、ウィルスの仕業によって、そんなたった小さな喜びさえも日常から失われてしまった。
そんな矢先、私の地元にあるとある地域と自分の名前が一緒だという理由だけで、和歌山に行ってみたいなんていう曲者が現れて、半ば強制的に地元を旅する3日間が慣行された。
放棄
旅先で写真を撮り続けてきた私に、奇妙な出来事が起こった。写真を「撮られる」という他者の視点が介在したのだ。
基本的に、友人と旅をしても、8年も写真を撮り続けているから、意図せず撮影担当に徹してしまう。旅の終わり、写真を共有して、喜ばれるところまでが私の役目だった(はずだった)。
しかしながら、自分はカメラを放棄してもいいと思えるほど、甘美な写真を撮る友人と旅をしてしまったことにより、フィルムカメラは愚か、軽自動車1台分はするであろう機関銃のようなカメラも放棄している瞬間が幾度となく訪れた。
こんなことは、初めてだった。
「写真を撮らなくてもいい」そう思える旅は新鮮だった。
他者
写真を撮ることを放棄する、つまり旅の記憶に、「私」の視点ではなく、「他者」の記憶が介在することとなる。
自分ではない誰か、つまり他者はコントロール不可能で、人間にとって、最も怖いものなのだと思う。だからこそ、撮ることを放棄をして、他者の記憶を介在させるということは、このうえなく恐ろしくて、勇気のいるものなのかもしれない。
幼い頃、好きだった山村も、自分以外の誰かが撮ってしまったら、記憶が書き換わってしまうかもしれない。だから、好きな場所、好きな景色を自分で納めなければ心が落ち着かない。
これは、少し大袈裟かもしれないけれど、私にとって、旅の主体的記録者であるということは、ずっと一種の自己防衛だった。だから、誰かに記憶を代替されている旅を選択することは、防衛をやめてもいい、武器を降ろして信じてみる、というある種の赦しのようなものだったのかもしれない。
写真
赦しを得たような、この旅を通して、分かったことがある。シャッターを切る時の目だけは、唯一、まっすぐで、きれいで優しいということだ。
生活をしていると、いろんな考えが頭を巡って、すぐに他者を諦めたり、自分のことさえも落第判定したりする。
この景色が好きだなと思っていても、数秒後には、「いやでも、毎日見てたら飽きるかも」とか、この木漏れ日を残したいと思っても「残して何になる」とか、この人好きだなと思っても「以下、100個の理由によりこの相手と親密になるべきではない」などど考えてしまう。(冷静に考えると可哀想すぎて泣けてくる)
でも、写真が語るのは、そんな言語になる前の、純粋で優しい眼差しだった。好きなものを好きと言う、たったそれだけのことが難しくなった世界で、たったひとつ自分の眼差しの先を教えてくれた。
とうとう、私は旅を撮ることができなかった。
--代わりに、旅の記録からは溢れ落ちるほど些末で、大好きなものをたくさん撮ることができた。
Photo: ryota yuasa(https://twitter.com/you3are9sir)
友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。