だらしなく、いっしょに生きる──大崎清夏『炊飯器』が描く政治
世の中には「政治的な」作品というものがある。
リアルな政治的な問題を取り扱った作品は、演劇においても数多く作られてきて、私自身もそれに加担してきたという自覚がある。日本国憲法を使った作品や、原子力発電所の事故を背景にした作品を上演しているのだから否定しようにも否定できない。
でも、私自身は、永田町の動きに詳しい人間では決してないし、社会正義に溢れる人間でもない。恥ずかしながら、選挙に行くようになったのだって、選挙権を獲得してからだいぶ後のことである。
今回は、私が「政治的」だと考える、詩作品『炊飯器』(大崎清夏)を軸としながら、改めて「政治的」とは何か? について考えてみたい。
萩原雄太
「炊飯器」における朗読の確かさ
大崎清夏の詩『炊飯器』は、こんな書き出しから始まる。
いちばんすきな画家がいたはずなのに 忘れてしまった
いちばんすきな歌があったはずなのに 忘れてしまった
『新しい住みか』(青土社)という詩集に収録されているこの詩には、「わたし」と「あなた」という人物が登場する。おそらくカップルなのだろうと思うのだけど、「わたし」という視点から書かれるその生活は、とても小さく、愛らしいという言葉を使いたくなるくらい、ささやかな日常の感覚が記述されている。
YouTubeに投稿されている詩人自らの朗読を聞くと、その声は、なんだか頼りないように響く。はっきりと明瞭に発せられるのではなく、どこか輪郭のぼやけたその発話は、この詩が描く世界のように、詩人の身体の小ささを浮かび上がらせる。けれどもその声を注意深く聞いていると、会場の広さと相まって、何か大きなものへと問いかけのように響いてくるし、揺らぐ声の中に確かに「芯」と呼べるようなものが見えてくる(私はそれを、後半部に複数回使われる出現する「だろう」という推量の確かさから読み取る)。この朗読を聞くと、私は、この作品がとても感動的であるばかりでなく、とても政治的であるということに気付かされる。
だが、この詩の中には、直接的な政治の問題を取り扱うような記述はない。「抵抗」「生き延びる」といった、政治的な文脈でよく使われる言葉遣いはあるものの(抵抗するための手段を探しているうちに 夜になっていた 生き延びるのに夢中になっているうちに 朝になっていた)、その程度に過ぎない。だから、一般的な意味で、この作品が「政治的な作品」と見なされることはないだろう。
けれども、どんなに直接的に政治を語るよりも、この詩ははるかに政治的なのではないか。彼女の朗読は、まるで「演説」という言葉を使ってもいいほど、世界に対して何かを訴えかけているように聞こえる。
いったい、彼女は、なぜこの詩をそのように読まねばならなかったのだろうか? それを考えるためには、そもそも私がどのような意味で「政治」という言葉を使っているかを記述する必要がある。
「しあわせな日々」に見る政治性
私は、これまでに『福島でゴドーを待ちながら』という原発事故直後の福島で行った作品や、『俺が代』という日本国憲法を使った作品を発表している。決して、反原発/原発推進や護憲/改憲といった二項対立のどちらかを支持するようなことはしないけれども、そのテーマのとり方から「政治的な演劇」と言われるし、自分でもそう思う。けれども、自分で最も政治的だと思うのは、2018年から上演しているサミュエル・ベケットの『しあわせな日々』という作品である。この作品に対して、演出した自分自身は極めて政治的であると考えているにも関わらず、そう言われることはほとんどない。
まあ当然といえば当然だ。例えば2017年に東京デスロックという劇団が上演した同作は、背景幕に富士山を、主人公であるウィニーが閉じ込められる円丘にフレコンバッグを思わせる黒い袋が積まれており、明らかに、そこにはアクチュアルな日本の状況が重ねられている。また、ARICAという劇団が2013年に上演した同作は、金氏徹平による美術がガラクタの山をつくっており、まるで被災地の瓦礫のようにも見えてくる。どちらも、非常に優れた批評性を持つ上演であり、1960年代に書かれた同作を、今、上演する意味を感じさせる作品であった。
その点、私たちのしあわせな日々は、シアターコモンズ'18で初演した際には鉄でできた丘を使っており、2021年に那覇でリクリエーションを行ったときには、大きなテーブルを囲む形となっていた。その両方のバージョンにおいて、セリフ上も演出上も現在の状況を指し示すようなことはしていないから、それが「政治的である」と見做すのは難しい。でもやっぱり、これは、原発事故を扱うよりも日本国憲法を扱うよりも、政治的なのだと思う。
この作品には、ウィリーとウィニーという夫婦と思われる男女が登場する(以下、わかりやすいようにウィニー(女)、ウィリー(男)と表記)。第一幕で、ウィニー(女)は土に埋まって身動きが取れないし、ウィリー(男)は脚が不自由でかろうじてという範囲でしか動けない。第二幕になると、ウィニー(女)は首まで埋まり、ウィリー(男)は生きているのか死んでいるのかすらわからない。
契約段階においてセリフの改変が禁じられたベケット作品に対して狭義の「政治」を重ねるのであれば、前述の例のように、美術や衣装などをある見立てとして機能させるという演出法が考えられる。でも、私がそれを選ばなかったのは、そのような目に見える政治よりも、さらに深い政治をこの作品の可能性として見たからだ。
「さらに深い政治」を別の言葉で置き換えるならば、「人と人が共に暮らすこと」といえる。
ウィニー(女)は、1時間半の上演中、ほとんどずっと喋り続けていて、その多くはさして意味もないことばかり。一方、ウィリー(男)は意味のわかることをほとんど喋らず、ほとんど認知症といっていいくらいだ。円丘に埋まっている女(=人間の置かれるべき状況ではない)という不条理な設定と、足萎えで口もはっきりきけない(=人間の要件を満たしていない)男という、その非人間的な極限状態ばかりが取り上げられ、この作品においては、彼らがカップルであるということに目を向けられることは少なかったように思う。彼らは、共に暮らしている(きっと夫婦なのだろうと思う)。そのように、人と人とが同一の空間で生きるということは、極めて政治的な事象なのではないか、と思う。
同一の空間にいる人を、人の身体は無視することはできない。他者の存在によって振る舞いは規定され、行動は制約される。一緒に存在しているという時点で、意識的であれ無意識的であれ、私の身体の中に、すでに他者が介入している。
そして、閉じられた空間におけるそのような関係性は、必然的に相互依存といえる状態になる。ウィニー(女)なしではウィリー(男)は生きられないし、早口でまくし立てていてもウィリー(男)なしではウィニー(女)は一言も喋ることはできない。それは、「支え合う」という言葉で表されるような生易しいものではない。別の人と関係を結ぶことができず、互いによりかかりながら生きるウィニー(女)とウィリー(男)は、そのようにしてしか生きることができないという意味において、依存という言葉の方が適切に思う。
彼らのような生の仕組みを、私は「政治的である」と呼ぶ。なぜならば政治という言葉が、次のように定義されるからだ。
1 主権者が、領土・人民を治めること。まつりごと。
2 ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%94%BF%E6%B2%BB/)
ここでは1の意味について考える。
「しあわせな日々」の世界がどのように治められているのかは定かではないし、そもそも彼らの暮らしは統治機構の埒外にあるような気がする(舞台設定は「広大な焼け野」である)。しかし、「治める」というレベルを、行政的なレベルから個々の身体のレベルに読み替えたときに、そこには政治が浮かび上がってくる。
身体が個人の所有物であるという発想に従えば、ウィニー(妻)はウィニー(妻)の身体の統治者であり、ウィリー(夫)はウィリー(夫)の身体の統治者である。ただし、それはそれぞれ埋められた状態であること、あるいは足萎えの状態であることによって、その統治に支障が出ている状態として提示される。機能不全に陥った彼らの身体は、一方は脈絡のない言葉を延々と喋り、一方は全く意味のない言葉を喋ることとなる。そうして、彼らは他者の身体に依存し、介入されてゆく。そこには、他者(の身体)と依存関係にありながら生きなければならないという、自分の身体の統治を超え、他者とともにこの空間を/この身体を生きなければならないという状況が生まれる。
彼らはアクチュアルな政治的イシューについて何も語らない。だから、「しあわせな日々」は一般的な意味での政治的な作品ではない。けれども、その置かれた状況、あるいはそこでの態度、そのシステムの中で生きる姿こそが政治なのである。
同様のことは、『俺が代』という作品にも、『福島でゴドーを待ちながら』にも共通する。それらがモチーフにしている日本国憲法や、原発事故は、あくまでも個別のイシューである。もちろん、それらのイシューそのものが既に極めて重大な問題であることは論をまたないが、私は、それを「使って」何を語ることができるかに興味がある。日本国憲法の全文を「俺」というときに、どうしても身体に入ってくる「国家」であったり、路上に立ち尽くすときに生まれる放射線量の高い外界との関係であったり。これらの作品が政治的であるというとき、それは個別のイシューのことではない。これらの作品が、介入のあり方を描き、介入に対する態度を示しているからだ。
付言すれば、私は自作を「社会的」と表現することを好まない。それは政治の問題であり、別の言葉で言うならば「公共」の話である。
揺れる声によってしか語り得ない政治
話を『炊飯器』に戻す。
しかたがないから 炊飯器でごはんを炊いた
炊飯器なんか好きじゃないのに
大崎の描く「わたし」は、だらしなくぼんやりと暮らしている。自分の好きなものも忘れてしまうし、自分に関わりのあることも全然知らない。何を言いかけていたのかも思い出せないかわりに、「あなた」の手を握る。でも、「あなた」とは全く通じ合っていない。手を握り、通じ合っているかのように見えて、全く別々の景色を見ている。「わたし」は、「あなた」に対して、「誇張したり間違えたりしながら語る」。そうして、「自分の野蛮な魂に自信を持つ」という「わたし」に対して、「あなた」は「広げたブルーシートのうえに 持ち寄ったおにぎりや日用品を並べて お花見みたいだねと言いながら あなたは生きている」。
このふたりの暮らしは、美しさのために描かれたのではない。そうではなく、上記のような意味での「政治」についての話なのではないかと思う。
「わたし」と「あなた」が暮らす世界。そこは、まるで過去に流行したような、半径数メートルのささやかな生活を肯定する世界のようにも感じるかもしれない。でも詩人は、そのささやかさを美しさとして肯定しようとはしない。むしろ、すれ違いながら、ある一点を生きている彼らのささやかさを描き、それを世界へと問いかけている。
だからこそ、その朗読は決して朗々と読まれてはいけない。そうしたら最後、狭義の「政治」の世界へと絡め取られてしまうから。あるいはぼそぼそと読まれてもいけない。そうしたら、美しい日常の話になってしまうから。この詩は、揺れながら、しかし確かな芯を持った声によって行われなければならない。その声でしか語れない「政治」が、確かにあるのだ。
忘れながら、誤りながら、何も共有せず、しかし、確かに共有する/してしまっている彼らの暮らし。それは、政府も永田町もあらゆるメディアも介入し得ない、芸術にのみ描くことが可能な、極めて重要な政治ではないかと思う。
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