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連載③ ハンセン病差別の歴史から ― ヨーロッパと日本(1)

 今年5月、江連 恭弘・佐久間 建/監修『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』を刊行しました。(以下の本文では『13歳…』と略します。)
 編集を担当した八木 絹(フリー編集者、戸倉書院代表)さんに、本に寄せる思いを書いていただきました。不定期で連載します。

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「異端の隠喩」とされた中世ヨーロッパのハンセン病

 中世ヨーロッパでは、最大の罪は異端(正統な教義に背くこと)でした。ハンセン病は異端の罪のメタファー(隠喩:いんゆ)として使われたのです。それを福音宣教したのが、カトリック教会と聖公会の聖人であるイタリアの神学者トマス・アクィナス(1225頃〜1274年)です。初学者向けの教科書『神学大全(しんがくたいぜん)』では、「およそ死体の汚れなるものは、霊魂の死にほかならぬところの、罪の汚れを表示する〔…〕これにたいして、らい病(*1)の汚れは異端的な教えの汚れを表示するものである。なぜかといえば、異端的な教えは、らい病と同じく伝染的」だからである(第13冊、稲垣良典訳、創文社、1977年)と、ハンセン病と異端を同様に「汚れ」たものとして扱い、徹底的に排除しています(トマス・アクィナスについては『13歳…』には掲載していません)。

*1 癩(らい) ハンセン病は「らい菌」による慢性の感染症。長く遺伝病と考えられていた。1873年にノルウェーのアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見し、感染症であることが判かった。長く使われてきた病名「癩」には差別的なイメージが染みついてきたことから、ハンセン病療養所の入所者団体は、政府に対して病名を改めるように要請してきた。1996年の「らい予防法」廃止で、「ハンセン病」が正式名称となった。本稿では、引用や歴史的名称に限り、「癩」「らい」の語を使用する。かつてハンセン病だった方については一般に「回復者」「病歴者」の語が用いられている。

トマス・アクィナス像(Wikipediaから)

 教会も民衆もその考えに従いました。ハンセン病患者を「癩(らい)病院」(*1)に収容する前に、信者たちの共同体から排除するために行われたのが「模擬埋葬」という儀式です。フランスでの話ですが、「司祭が不幸な患者を教会の前庭で迎え、決定された措置を告げる。そして、中央に霊柩台を設置して黒布をはりめぐらした聖堂に導き、〔…〕癩病人は黒いヴェールでおおわれ、床石の上にねかされて、その上にシャベルで何回か土がかけられ」ました。教区によっては、実際に「教会に隣接した墓地まで行列して行き、数分間実際に墓穴におろす」ことまでしたといいます(引用は、ジャック・リュフィエ、ジャン=シャルル・スールニア『ペストからエイズまで』仲澤紀雄訳、国文社、1988年)。

 このようにしてハンセン病患者は信者の共同体から切り離され、癩病院に入れられました。外出は許されましたが、下の絵のように、患者とわかる特別な衣服か目印をつけ、木片を鳴らして歩くことを強いられました。行動制限を記した「禁令集」は数ページにも及びました。教会への出入りは許されず、司祭からの聖体拝領のパンは、板に載せて差し出されたのです。

中世、街中を歩くハンセン病患者

 中世ヨーロッパの農村では、原因不明の死や動物の疫病、天候不順などが起こると、ハンセン病患者の呪いとみなされ、癩病院が襲撃され、患者が大量虐殺されました。「残酷な運命をユダヤ人と分かち合った」とされます。「人類の歴史を通じて、これほど大人数の集団に対して、これほど長期間にわたり、これほど理由なく、このような残酷さが冒された例はほかにない」(引用前掲書)といわれるほどです。

 こうした中世的差別が近年まで残っていた例があります。1968年、アメリカのカーヴィル療養所(ルイジアナ州)に収容されたホセ・ラミレス・ジュニアさんは、テキサス州の病院から霊柩車で移送されたと回想しています。18時間にわたる1200キロの長旅を、狭く暗い霊柩車に寝せられ、「生きている死者」として運ばれたのです。ほかの患者は、足枷(あしかせ)をされ、ナチスによるユダヤ人移送を思わせる列車に乗せられてきたそうです。家族と離れ、既婚者は離婚を強制されて。療養所でもう一つナチスのホロコーストを連想させたのは、患者が個人番号で管理されることでした。刺青(いれずみ)でこそなかったものの、2855という番号がホセさんに与えられました(ハンセン病フォーラム編『ハンセン病 日本と世界』工作舎、2016年)。

聖書のハンセン病差別に向き合う―― 荒井英子『ハンセン病とキリスト教』

 ここで紹介したような中世ヨーロッパの強烈なハンセン病差別は、聖書に書かれたハンセン病者の姿と深く関係しています。1996年の「らい予防法」廃止を受けて、日本においても聖書の記述の見直しが行われました。『13歳…』では、コラム「聖書の中のハンセン病」で紹介しています。

 旧約聖書では「ツァラアト」、新約聖書では「レプラ」という皮膚病を表す言葉が出てきます。これらは長い間ハンセン病のことだと解釈されてきました。「ツァラアト」は犯した罪への罰とされているので、ハンセン病は神からの罰であるとの偏見が植えつけられました。こんにちでは「ツァラアト」は「重い皮膚病」に(『聖書 新共同訳』版)、さらに、『聖書 聖書協会共同訳』では、「レプラ」は「規定の病」に書き変わっています。

 ここから先の話は『13歳…』には載せなかったのですが、聖書の記述の見直しが始まる前から、聖書がハンセン病への差別を広げた事実について、自省的に向き合ったキリスト者がいます。恵泉女学園大学(東京都多摩市)の教員だった荒井英子(あらい えいこ)さんです。国立ハンセン病療養所多磨全生園(たまぜんしょうえん)(東京都東村山市)の中にある秋津教会で、一時期、牧師も務めました。

 荒井さんは著書『ハンセン病とキリスト教』(岩波書店、1996年)の「あとがき」で、この問題との出合いを回想しています。全生園の文化祭で、初対面の入所者の高齢男性から投げかけられた言葉です。「あんた、キリスト教の牧師やてな。なんで聖書にはあんなに『らい病、らい病』て書いてあるんや。あんなに『らい、らい』言うから、わしらは差別されるんや。なんとか言うてみい」と。驚いたでしょうが、そこから荒井さんの思索が始まりました。

 新約聖書にはイエスがエルサレムへ行く途中で「重い皮膚病を患っている十人の人」に出会い、イエスに促されてその者たちが「清くされ」、「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」という話が出てきます(ルカによる福音書第17章、引用は『聖書 日本聖書協会新共同訳』、1987年)。

 荒井さんは「こうして『らい病』の隠喩は、宗教的な根拠を得ていよいよ深く社会に浸透し沈殿していくことになる」といいます。そして、日本のキリスト教界での聖書の表記変更を求める動きについて、「たとえ聖書の『らい病』が、今日のハンセン病ではないと宣言しても、それで二千年以上にも及ぶ差別と抑圧の歴史が消えるわけではない。キリスト教には、長年『らい病』を罪のメタファーとして福音宣教してきた歴史があり、〔…〕祭儀的に汚れた存在として隔離され、やがて倫理的に汚れた存在として『社会化』されていった事実を忘れ去るわけにはいかない」、「言葉の変更は、差別の根源を隠蔽するという矛盾を内在させやすい」と述べています。(引用は荒井前掲書)

 私は聖書の見直しを評価できる立場にはないのですが、荒井さんの著書を読んで、差別してきた側の当事者性を自覚して自らに問う態度に多くを学ばされました。

*本稿は、多摩住民自治研究所『緑の風』2023年9月号(vol.278)にも掲載されています。

江連 恭弘・佐久間 建/監修
『13歳から考えるハンセン病問題 ―― 差別のない社会をつくる』
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◉『13歳から考えるハンセン病問題―差別のない社会をつくる』目次から

第1章 なぜハンセン病差別の歴史から学ぶのか
ハンセン病患者・家族が受けた激しい差別/ハンセン病とはどんな病気?/新型コロナ差別にハンセン病回復者からの懸念/過去に学び、今に生かす

第2章 ハンセン病の歴史と日本の隔離政策
日本史の中のハンセン病/世界史の中のハンセン病/日本のハンセン病政策/日本国憲法ができた後も

第3章 ハンセン病療養所はどんな場所か
ハンセン病療養所とは?/療養所内での生活/生きるよろこびを求めて/社会復帰と再入所

第4章 子どもたちとハンセン病
患者としての子どもたち/家族が療養所に入り、差別された子どもたち/生まれてくることができなかった子どもたち

第5章 2つの裁判と国の約束
あまりに遅かったらい予防法の廃止/人間回復を求める裁判/家族の被害を問う裁判

第6章 差別をなくすために何ができるか
裁判の後にも残る差別/菊池事件 裁判のやり直しを求めて/これからの療養所/ともに生きる主体者として学ぶ

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