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ヘラルボニーアートコレクションをきっかけに考えたこと

期末テスト直前☆note第二弾
先週の日曜日、次の週の金曜から期末テストが始まる、という切羽詰まった状況の中に私はいた。高校の周りの人の理解スピードが私に比べ速すぎて、勉強に諦めがついてきてしまっている私は、午前中で勉強を切り上げて午後は大阪まで行くことにした。
この記事も帰りの電車で書こうかと思っていたけど、最近考えていることとかと色々つながってきて、良い記事が書けるような予感がしてきたので更に時間を投入したいと思う(勉強しろ?これも勉強でしょ…ブルブル)
大阪に行った目当ては、「ヘラルボニーアートコレクション」と同会場で行われるトークイベントだ。
この記事を読んでいる人は、ヘラルボニーという言葉を聞いたことがあるだろうか。

時間がないし、私がこの会社を説明する必要はない(そしてできない)と思うので割愛する。
私がヘラルボニーを知ったきっかけは、親が去年のこのイベントに行って、その話をしてくれたことだ。その時は、「ふーん、障がい者の人の絵ね。そんなのあるんやな〜」という感じであまり気に留めていなかった。
しかし、中2で絵に目覚めて描き始めた私は、家で「異彩を放て」というヘラルボニーを創業した松田兄弟(双子)の本を見つけて読み、一気に関心を持った。この双子は私の大好きなラジオ「コテンラジオ」の番外編にも登場していたことでも印象的だ。


脱線してしまうが、コテンラジオ、マジで面白い。という話をちょっとしたいと思う。
コテンラジオも、ヘラルボニーと同様親経由で知ったのだが、最近は通学中・寝る前・皿洗い中など隙間を見つけては聞いている。

コテンラジオは、コテンという会社の活動の一環として収録されている歴史を中心とした(それだけじゃない!)内容のラジオだ。名前の通り、基本的には人物や構造(社会主義、資本主義、構造主義、「老いと死」、「障害者の歴史」など)を歴史的視点から楽しく学べる。更に、(ここがただ単に楽しく歴史が学べる歴史マンガetcとの違いだと個人的に思っている)歴史上の人物の行動や生き方から洞察を得て、自らと照らし合わせることもできる。
私は、小学生の頃おばあちゃんに買ってもらった角川の歴史マンガと横山光輝のマンガを読みまくっていた(約10周したはず)。その後もずっと社会が好きで、その結果得意(前回投稿の、明石高専に進学した友達と学校の社会のテストで1位を何度か争い、高校入試の歴史・公民分野で満点を達成)だった。なので日本史(この言い方だと出口先生の本を読んでいないような感じになってしまうが…)には絶対的自信(!)があり、コテンラジオも最初は世界史を中心に聞いていた。
しかし、最近コテンラジオの「織田信長」を聞いてみると、私の知っている知識がどんなふうに現在まで記録されているのか。とか、どういうマインドが存在したのか。とか新しい発見もたくさんあって楽しい。
また、コテンという会社自体も人文知の普及活動を推進している、というすごく面白い会社で、語りたいことが色々あるが、ここでは長くなってしまうので省略する…今度別の記事で書きます。
何はともあれ、とりあえず一回聞いてみな。飛ぶぞ!


戻ってきました。
この日は、展示と共に、ヘラルボニーの代表の松田崇弥さんと、岸田奈美さんのトークイベントが行われていた。
せっかく貴重な経験ができたと思うので、感想を少し書いおきたい。


まずは、展示の方から。
展示で最初に見つけたのは、ヘラルボニー柄のネクタイ。「異彩を放て」では、ヘラルボニー最初のプロダクトとして紹介されており、写真を見て綺麗だな〜と思っていた。今日はその実物を見ることができて嬉しかった。

ヘラルボニーのネクタイ

実物は本に書いてあった通り、光の角度によって見え方が変わる。そして、元作品の画材やタッチが細かく再現されている(例えば、上のネクタイは元作品が、プロッキーの太いやつを使って描かれていて、その不規則な形やちょっとした色の交わりまで表現されている)。
どこぞの高専生ではないので、ネクタイを着ける機会がない上に、金欠なので今は買わない(買えない)けど、将来着けたいな〜。

次に目が移ったのは、この作品。

鳥山シュウさんの「マダガスカル」

どういう風に描いてあるのかわからないが、おそらく色のついた紙を用意するか、あるいは作って、上から修正ペンのような白いペンで描いているのではないだろうか。私は細かい絵が好きで、自分でもそういう絵をよく描いているのだが、この絵はなんというか、見れば見るほど味のある、細かさを最大限活かした絵になっていると思う。
あまり写真は撮ってない(Google photoは一挙選択ができないからパソコン移行がしにくい!!だからあんまり撮れない!!)ので伝わらないかもしれないが、よく見たらカエル𓆏とか、様々な種類の植物とか、同じポーズとっている猿のような生き物とか、色々と見つかる。見ていて楽しかった。

この調子で書いていると本当に時間が足りなくなるので(勉強の呪い)、アト2つぐらいに収めてたいと思う。

作品ラスト!

キャプションを撮れていなかった…申し訳ない。

確かタイトルは「阪急バス」だったはず…間違っていたら申し訳ない。
生まれも育ちも完全神戸な私も、実は阪急バスに乗る機会は少ない。神戸は鉄道の町だからね。しょうがないね。絵を描いていると、どこまで細かく描写するか、迷うことってありませんか?(私はあります)この作品は、バスを細かく描ききった上に、オレンジや紫で模様がついているように見えた。それですごく絵に厚みがあるような気がする。この作品はなぜか目にとまって、なぜか好きという感じなのであまり感想を言語化できない…悔しいです。

最後におそらく新商品と思われるもの。

自分で柄を選べる服!!

どうやら、右に並んでいるようなたくさんの作品の記事から、最大4つ選んでポケットに入れられるらしい。作品を組み合わせられる、という新しい楽しみが付与されてもうすごい…建物系とか、自分の好みで合わせたらまた別の個性が出てくると思う。ちなみに今回トークイベントに登場した松田崇弥さんも着てたよ!
これもあまりファッションセンスがない私には記述できないと思うのでここらへんで失礼…

続いて、トークイベントについて。

めっちゃ近くで見れた!

トークは、主にツイッター(貫きます。私はX派ではありません。)で事前に募集された質問について2人が話したりする、という内容だった。
印象に残っているのは、
「岸田奈美さんってめちゃくちゃ元気ですがどうやってるんですか?」という質問だった(多分…こんな感じだったはず…おい、印象に残ってるんじゃないのか?最近脳が疲れてるんですよね〜)。
実は、私は岸田奈美さんのnote記事や本は読んだことがなくて(このテストが終わったら読みます)、岸田奈美さんのことはあまり知らなかった。
一応、自分のためにもnoteを載せときます…

なぜこの質問に対するトークなどが印象に残っているのかというと、岸田奈美さんの、
「休みの日に好きなことをするのは、本当に休めてはいない」という言葉(これも多分…いや、人間ってそんな確実な記憶できませんよ。)がこ最近私の生き方に刺さったからだ。
私は以前から
・絵を描く
・生き物飼う(イモリなど)、そして見る
・読書
など色々と好きな事があって、高校生になってからは美術館や山、図書館、友達の高校とか近所の色々な場所に出かけるようになった。これらのことをいつやっているかというと、放課後あるいは土日になる。好きなことだから、あまりしんどくはないけど、身体とか精神は深いところでは休めていないのではないか。そういえば、公立の学校に通い始めてから、あまり朝から元気一杯!ということがないような気がする。昨日はやることが山積みなのにもかかわらず、10時間超えの睡眠をとり、朝遅刻してしまった。時には何もせずゆっくりする日を設けようと思う。
あと1個、質問は覚えてないけど記憶にあるように感じる言葉は、岸田奈美さんの「継続できることが、才能のある分野」という言葉だ(略)。
私は中学に入った頃から今まで、ずっと自分が向いてること、本当にやりたいことは何なのかという問いが頭から離れない。
絵は好きだし、わりと実績も残せているが、これで将来やっていくの?って聞かれたら、ん〜、と考えてしまうだろう。(これについてのnoteも書きたいなあ〜)継続は力なりとか、竜頭蛇尾になるなとか、継続は標語として使われがちな印象があるが、自分の深いところでの興味の指針を探すツールとしても使えるのではないかと考えた。

どうやらこの日の2日後に岸田奈美さんの誕生日があるようで、最後には松田崇弥さんから誕生日のプレゼントが渡されていて、会場もとても楽しい雰囲気があった。
つまり、今日が誕生日?おめでとうございます。
(note書くのが遅いことに気づいて絶望←今ここ)

私も稼げるようになったら、ヘラルボニーの商品を身につけたり、支援したい。今はお金があまりないので、パイロットとヘラルボニーがコラボしたボールペンを使っている。

かっこいい!!


もうちょっとヘラルボニーについてのことも書きたかったが、今回のイベントについてはここらへんにしたいと思う。


ここまで楽しい話をしてきたのに最後にこんなことを話して申し訳ないですが、最近私が経験したことと、それに対して考えたことをこのあとに少し。ショックだし、かなり嫌な内容に感じる人も多いと思うので、ここまでで良いよ〜。という方はここで読み終わっていただいても構いません。ここまで読んで頂き、ありがとうございました。

ところで、松田崇弥さんの名前の「弥」という字がなかなか出てこなくて何回も「ひみこ」って打って出していました。でも「やよい」って打ったら楽だったことに書き終わってから気づいて今すごくショックです。








私が現在入っている部活の同級生は、障がい者に対して差別的な発言をよくしている(もしかしたら私が気にしているから多く感じるのかもしれない)。これに対して私が、「そんなこと言うけどもし自分あるいは家族がそういう立場だったらどう感じるんだよ」みたいなありきたりな反論をすると(これは正しかったのか、そもそもこれに関して正しいとか間違いとかあるのかわからない。)、「俺が障がい者なら産んでなかったって親が言ってた。だからそんなことは考えない。」というような言葉が返ってきて、絶句してしまった。その日以来、この出来事に関して考え続けている。
私は、小学校時代をフリースクール的な場所で過ごしていたので、同じクラスのようなまとまりの中に身体障がいをもった友達がいた。その友達は耳が聞こえなくて、人工内耳を着けていた。けれど、それがあることを忘れて、一緒に温泉やプールに入っているときに話しかけてしまうこともあるぐらい、良い意味で違和感も隔たりも存在しなかった。今でも、一緒に別の友達の家に行ってスマブラでほぼ徹するぐらい仲が良い。学校の授業で近くの障がい者施設に行ったりすることもあり、障がい者に会う機会がとても多く、それに対する抵抗は今も基本ない。
でも、普通はおそらく小中学校では障がいのある子供は別の部屋に分けられているなどのこともあり、直接会ったりする機会がないと思う。そんな環境で育ち、親からも差別的な発言を聞いていたら多分、私も差別的になっていただろうと思う。そして親も、教育に影響を受けた考えを持っていると思う。

考えに正しいとか、間違いとかあるのか。自分と違う意見を持った人とぶつかった時、どうすれば良いのか。コテンラジオで「障がいの歴史」を聞いたり、障がいに関係する本を読んだりしている。そして、今まで何度も考えるきっかけはあったはずだけど、あまりちゃんと考えたことがなかったんだと、気づいた。

これから書くは私の最近の思想なので「ふーん」ぐらいで聞いてほしいのだが、障がいのある人に差別も、変に特別扱いもせずに接することは本当に重要で、それは障がいについて考えるときでも適用できるのではないか。
周りに嫌いな人っているじゃないですか。同時に、好きな人もいる。
それを障がい者、健常者と言われている人の別け隔てなく、用いたら良いんじゃないかと思う。障がい者の人をみんな好きになって、好きにまでならずとも肯定的に考える。それは難しいと私も思う。そして、必要もない気がする。障がい者の人の中にも、自分が嫌いに思う人、好きに思う人がいても良いと思う。ただ、周りの人を真っ向から否定しないように、それと同じように関わっていけば良いんじゃないか。
ヘラルボニーのトークで松田さんが言っていたことも私の頭の中で繋がってくる。
AIとかも出現して芸術や絵で生計を立てるのが難しい時代に、ヘラルボニーに取り上げられている作品やその作者を羨む気持ちが湧く人もいると思う。でも、松田さんは、ヘラルボニーも障がい者の絵であれば何でも使う。というわけではなく、既に狭き門となっている。というようなことを言っていた。私は、ヘラルボニーのこの姿勢を、障がい者を特別扱いすることなく、一人の表現者として評価していると解釈した。
とりあえず、私の中で考えが固まるまでは、差別的な発言に加担しないことを意識していこうと思う。

これは、2024年6月時点での自分の考えとして記しておくが、今後も考えることをやめずにアップデートしていき、いつかその同級生にも押し付けるのではなく、1つの意見として話してみたいと思う。

こんな個人的感情にまみれた駄文を読んでくださり、ありがとうございます。今回のnoteは手が勝手に動いていくような感覚がありました。文章を書くのに苦手意識があったし、今もありますが、今後もnote、継続していきたいと思います。

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