キミがいるから時間が動いた。桐島は部活をやめるし、兎はこれからも跳ねている。

 美術部にいた時のことを、僕はあまり覚えていない。

 顧問の先生は部活には顔を出さないし、入部しているはずの部員は誰も来ない。そんななかで、部活には毎日でなければいけない、と、あいまいな強迫観念に縛られた僕は、誰にも教わらずに家族旅行でたびたび買っていたポストカードを鉛筆でひたすら描くことを繰り返していた。

 ただそれだけだったんだけど。放課後の教室特有のあの誰しもが経験している雰囲気だけは印象的だったので覚えている。

 上の階の合唱部の練習、吹奏楽部の演奏、体育館からはバスケットボールの音が響いて、グラウンドからは野球部の掛け声が響いた。3階と2階をつなぐ階段では名前の知らない年下の1年生が少人数でラップの練習をしている。

 それを聞きながら、そういえば合唱部は全国大会いくんだよなとか、吹奏楽部は今度、文化館で演奏するんだよなとか、クラスのTが野球部だったなとか、この学校の誰かがハモネプとかに出たんだっけな、とか。ぼんやりと考える。

 あの時はいろんなことがあって。学校に行くのはつらくて。だけど、つらいということさえわからないほど、「閉ざされた虚ろのなかにいて」……
 ようは学校に行くと身体がヒンヤリとするくらい緊張していて、ある程度、胃の中の内容物を定期的に吐かないといけないくらいつらかったのに、「つらい」という言葉さえ出ないくらい頭が悪かった。

 だからこそ、その日なにがあったかすら正確に記憶できず主観の混じった映像やホントに聴いたのかも定かではない罵声のフラッシュバックをもとにこんなことがあったんだろうと推測するしかない状態だった。

 しかし、あの時、あの瞬間だからこそ味わえる放課後の教室の声というのは、学生時代のたくさんある時間の中で悪くない瞬間だった。

 僕が僕自身の意志で、後から考えれば間違っていた方法でありながらも、僕は絵を描くという独りの時間が許されていて。そのうえで、別のだれかと、場合によっては名前も知らないような子と時間が共有できるというのがとてもよかったんだよ。

 あの放課後だけは僕の時間が動いているようなそんな気がした。

 時間が動いている、そんなもの当たり前じゃないかと思うかもしれない。
 だけど、僕個人の気持ちとしては時間が動いているけど止まっている時ってのは人生には往々にしてあることだと思うんだよね。

 文豪、太宰治が死の直前で書き残した著作、『人間失格』には次の言葉がある。


ただ、いっさいは過ぎていきます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた、いわゆる人間の世界において、
たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした

 この作品の大庭葉蔵は自分の素を周囲にさらせず道化として生きてきた男でした。そんな男がある日、書生に睡眠薬を買いに行かせたところ、書生は間違えて下剤を買ってきてしまう。それに気づかず飲んでしまったことで腹を下した彼が自分の飲んだ薬はカルモチンでなくヘクモチンであることに独り笑ってしまう。その後で書かれるのがこの文だ。

 なぜ、カルモチンでなくヘクモチンであることが葉蔵の笑いを誘うのか。それについては当時の時代背景を知らないのでわかりませんが、そのへんのユーモアは些細なことでしょう。大事なのは下剤によりトイレで腹を下したことが彼にとってある種の悟りにつながったということだ。

 下剤によって便所に駆け込むということは彼の中身をすべて出すということだ。この作品が出版されたのは1948年。昭和の中期でまだ和式トイレの原型が出たばかりですが、田舎で療養しているということはまだ糞便を肥料にリサイクルするようなタイプの便所だったんじゃないだろうか。

 そうだとすれば、この時の経験から主人公の葉蔵は手記として自分の人生を書き残すことを決意した、と考えられる。

 ちょうど主人公を内圧していた父が死んだばかり。すべては流れていくんだ、という悟りは。父が死ぬのだから自分も死んでいくのだろうという、無常に対する認知。そして、それらを世に出せば何らかの形になるのかもしれないと、自分の便が畑の肥料になるということから連想したんだろう。

 この時、彼は小さな決断と大いなる障害からの解放があった。だからこそ、主人公の境遇は悲壮なのに、彼の心理的なフィルターを通して描かれる世界はハッピーエンドのような明るさを感じさせてくれる。

 太宰治は客観的に見たら絶望に近い状況だけど、主人公の心理は明るい。そして、他の人は僕のことをかわいそうと思うかもしれないけど、僕は僕のことをかわいそうと思ってないんだ、その気持ちキミにならわかるだろう? みたいな問いを明確に言葉にしないでやるのが上手いんですよ。だから、太宰治の残した伏線を読みとって共感できる人にはすごいハマるんですよ。ただ、これの厄介なとこが、絶望をポジティブに描いたことにより、「死にたい……」って考えることを「死ぬぞ!」にしたり、「俺はクズかもしれない」を「俺はクズだ!」にしちゃうとこなんだよね。

 もちろん、絶望を絶望のままポジティブにすることでつらい現実が過ぎていくということもあるから一概に悪いとも言えない。

 『人間失格』の葉蔵はラストのあの場面でようやく自分の時間を動かしたんです。それは自分の内面を書き残そうという決意の瞬間だった。

 そして2009年に、朝井リョウのデビュー作、『桐島、部活辞めるってよ』が出版されます。この作品は仮面をかぶっていた男の小さな決断から物語がはじまる群像劇でした。


 僕自身が小説で読んでいた時、どういう作品なのかあまりわからず読み切ってしまったんですが。それから3年後に映画化されたとき、ようやくこの作品の凄さに気づきました。

 桐島というバスケ部でレギュラーをとるカースト上位の男。彼がある日、部活を辞めて学校に来なくなる。そうすると、カースト上位のいなくなった学校では人間関係での小さな歪みが淡々と日常で描かれ、それがクライマックスで大きくなっていく。

 映画ではそこに映画ならでは時系列を複雑にしたライトノベルの『デュラララ』や恩田陸の『ドミノ』のような群像劇、個々の人間の内実を映像的表現で描いていました。

 観ていて思うのが、どんな人であれ、その人それぞれの時間があって、抱えているものがあり、そして”なにか”に縛られている。その”なにか”に縛られていると魂のないゾンビと変わらない地獄を生きることになるぞ、というもの。それは当事者である学生には警告になるし、学校を出た大人には、年齢を重ねてから聞く尾崎豊の『卒業』のような、自分が心のうちにあったけど誰にも打ち明けられない痛みに対しての共感のような安心感に近い感動があるんです。

 僕の僕以外の誰かが生きている。そういうことはテレビや学校やいろいろな場で耳が痛くなるほど聞くわけだけども。こういうことに対する実感は体験による価値観や世界観をアップグレードさせるのが一番効くんですよ。

 だからこそ、群像劇はライトノベルであれ、文学であれ、アニメであれ、映画であれ、どんな種類でも触れていただきたいジャンルです。

 ただ、僕にとって外部と内部が上手く溶け合ってそれが実感できた瞬間はどんなときであったかと考えるとやはり放課後の教室だったんじゃないかなと思うんですよ。

 そして、ここ最近だと、一人の女の子の名前が頭に浮かぶ。

 有閑喫茶、あにまーれの因幡はねるだ。

 彼女はいわゆるVtuberと呼ばれる存在です。

 Vtuberとは、フェイストラッキングというアニメの絵を人間の表情と連動して動く技術を使って、YouTuberとして配信する人のことを刺します。
 これをジャンルとして一般化させたのがキズナアイ。当初は3Dのモデルを人の身体と連動させて動かすのが主流でしたが、個人で活動する方が自分で描いた絵をもとにした形をつくり、それを企業の方もやるようになって一般化しました。

 Vtuberがジャンルとして確立し、その定義が3Dのモデルから2Dの絵にまで広がり、数が一気に増えた最初のVtuber戦国時代である2018年。その年に彼女は活動を開始しました。

 にじさんじの月ノ美兎さんなどの活躍により、Vtuberの主流が動画投稿から配信に変わっていったことに違和感を感じなくなった時でもありました。また、キャラクターの世界観を楽しむという考えから、作りものとしてわかったうえで茶番として楽しむという空気が生まれた。だからこそ、「ガワ」って言葉が使われるようになった。

 つまり、ミッキーマウスをミッキーマウスとして楽しむのでなく、ミッキーマウスはパフォーマンスのうまい演者のはいった着ぐるみとして楽しむというのが表立つようになりました。

 そのへんが僕がにじさんじで月ノ美兎さんが活躍したときに、少し困惑してしまって、いろいろと否定的な意見をtwitterで言ってたりもしました。ただ、あの時は配信を見る魅力、Vtuberと時間を共有することの楽しさを理解してなかったからなんですよね。

 だからこそ、2DのVtuberに本格的にハマったのが2018年の6月で。それはちょうどあにまーれとにじさんじSEEDsがデビューした時期でした。

 デビュー当初、因幡はねることねるちゃんがVtuberとして際立っていた点が、毎日の配信量の多さ。今でこそ、Vtuberは毎日配信が当たり前なんですが。ねるちゃんはデビュー当初から朝配信とゲーム配信、コラボがはいるときは3回までいくことも多いVtuberだったんですよ。

 だからこそ、夜型や朝型、昼に時間がある人が気軽に会いに行ける子だったんです。今は体調を考慮して朝配信をやめてますが、昼配信と夜配信のどちらかかその両方、もしくは切り抜き動画を投稿する日もありますが一カ月のほぼすべてに配信があります。

 これにより、ちょうど時間が空いていたころに彼女に惹かれ、見るようになりました。そうすると、彼女を見ることが、彼女を気にかけることが僕の日常でありライフスタイルになっていきました。

 そうすると、彼女日常のささいな変化が僕にとって大事なものになっていったんですよ。

 ねるちゃんが内気な子なんだとか、弟やお母さんとの思い出とか、明日病院に行くとか、今日はおいしい煮物をつくったとか、はじめてVtuberの友達と出かけたとか。

 そういう些細なことで笑ったり、心配したりするのが、すごいいいんですよね。

 あの子が時間を重ねている時、僕の時間も動いている気がしました。

 そこから、Vtuberの配信と聴いている僕との距離感ってすごいいいものなんだなって思うようになりましたね。

 僕が何かをしているときに、一人の女の子がこんなに頑張っているというのがさ。すごいいいんですよね。

 一切は過ぎていて、一人の男の子は部活を辞めることもあるし、それに動揺する若者がいて、兎の女の子は今日も配信している。
 だから僕もこの世界で、同じように時計の針を進めたいんだよ。


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