アメリカ 多数派なき未来

(2004/07/22記)

 二〇〇二年に『アメリカ 多数派なき未来』(NTT出版)という本を編集した。

 著者は読売新聞の浅海保さん。ワシントン支局が長く、一九九六年にはカリフォルニア州立大学バークレイ校大学院ジャーナリズム専攻科で客員講師、二〇〇一年にはブルッキングズ研究所の客員研究員も務めたアメリカ通だ。

 この本のテーマは「ダイバーシティ」から透けて見えるアメリカ社会の現在である。「多種多様性」を意味するこの英単語こそ、アメリカ社会を象徴する言葉だと浅海さんはいう。

 アメリカでは近年、かつてのマイノリティ=黒人を凌ぐ勢いでヒスパニック、アジアンの勢力が伸張し、州政府どころか全国レベルの政治を動かすに至っている(二〇〇〇年、ゴア対ブッシュ・ジュニアの大統領選挙で最後にキャスティング・ヴォートを握ったのがフロリダのヒスパニック票だったことを思い出すと良い)。

 かねてアメリカではマイノリティの権利を守り、機会の平等を守る「アファーマティブ・アクション」が行われてきたが、これは一方で、圧倒的な社会的優位に立つ白人の寛容によって制度化されてきたという側面がある(ゆえに「真の平等をもたらすモノでない」との主張から反対を唱えるマイノリティも少なくなかった)。

 しかし今、地域住民のなかにかつての「マイノリティ」が占める割合が多くなっているカリフォルニアなどでは、反発の度合い、質が大きく変わりつつある。白人人口が州人口の過半を割って大騒ぎになった先年のニュースを覚えている人もいるだろう。

 この問題については白人の内部はもちろん、マイノリティのなかでも黒人、ヒスパニック、アジアンでは意識に差があり、解決は容易ではない。

 それでも、人種の混沌はアメリカを破滅に追いやるのではなく、新たな活力の源泉となっているというのが浅海さんの観察である。我々の想像を超える「人種の坩堝」の現在を描いた原稿は、マイノリティをめぐる最新の知見を盛り込んだアメリカ分析となった。

 なにより、今後、少子高齢化によって労働力となる移民を受け入れざるを得なくなる可能性が高い日本に対しても、アメリカの直面している現実を伝えると共に、その覚悟を問いかける内容となっているところが秀逸だと思われた。

 だが、このとき九・一一はまだ起こっていない。企画会議では徹底的に「いま、この本を出す意味」を問われた。アメリカ論なんて星の数ほど出ているのに「なぜ」と。

 それでも私には、この本をどうしても二〇〇二年に出したい理由があった。本書の原稿を初めて読んだとき、頭のなかに浮かんだ本があって、その本との対比が面白いと考えていたからだ。

 猿谷要さんの『アメリカ 多数派の理想』(文藝春秋)は一九七二年の発売で、いわゆる体験的アメリカ論の嚆矢となった作品である。

 それまでのアメリカ論は東部のエリート層の言動やマイノリティの反抗といった観点から為される場合が多く、「多数派」の分析に踏み込んだのは本書がほとんど始めてではなかっただろうか。事件の現場に居合わせることで書き付けられた一〇章はどれも臨場感にあふれていた。

 そのなかで猿谷さんが繰り返し追求するのはアメリカを支配しているのは誰か、アメリカはどこへ行こうとしているのかという問題だった。特筆すべきは、猿谷さんが本書を書いたときすでに「多数派」は「サイレント(物言わぬ)」だったということである。

 それからちょうど三〇年の時を経て、同じ集団を、立場は違えつつも同じような視点から観察する人物が現れた。ときあたかも「多数派」は社会的・政治的パワーとして消失への過程をたどっていた。

 三〇年目の定点観測として、ジャーナリスティックに捉えた体験的アメリカ論として、なにより「多数派の理想」から「多数派なき未来」への流れを描く大きな物語として、この本が読まれたらいいと私は考えた。

 故にタイトルにも多少こだわった。「このタイトルでなければ」と会議の席でも割と強めに主張した。

 枕があることに、本歌取りであることに、誰かが気づいてくれるのではないかと思ってのことだ。六〇年代、七〇年代に本間長世さん、越智道雄さんらとともにアメリカ研究をリードした猿谷要さんの代表作を一人くらいは読んでいるのではないか……。

 でも編集部の会議でも、企画決定取締役会でも、誰ひとり気づかなかった。

 正直に言えば、書籍の売れ行きもけっして芳しいモノではなかった。それでも書物として一定の役割を与えられたと自負している。

 世界化(帝国化ではない)し続けるやっかいな同盟国を我々は常に観察・分析しておく必要がある。猿谷さんの作品と共に、すこし時間をおいて読み返したい本である。

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