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サーフィンと登山と地獄の黙示録

サーフィンやクライミングの魅力の大部分はその反社会性にあり、不良だからカッコいい人が、優等生の真似をし始めたところから、悲劇は始まります。

先日、ワーグナーを聞きながら高速走っていたら、府中あたりの空が「黙示録」的な光景になっているのに気づき、帰宅してから、久しぶりにフランシス・フォード・コッポラ監督の伝説の映画を見ました(深い関連はありません)

サーフィンと登山と地獄の黙示録

「地獄の黙示録」は民主主義の名の下に泥沼のベトナム戦争に突入するアメリカの姿を通じて、宗教を失った現代物質主義の行きつく先を痛烈に批判するフランシス・フォード・コッポラ監督の代表作です。

地獄の黙示録・英題「Apocalypse Now」アポカリプス・ナウという映画。スノーボーダーやサーファーならアポカリプス・サーフ、アポカリプスノーという言葉は馴染みがあると思います。アポカリプスとは聖書に出てくる「ヨハネの黙示録」のこと…終末の予言書です。

コッポラは悲惨なベトナム戦争を見て「終末は現在進行形である」と思ってこのタイトルをつけたのですが、邦題の「地獄の黙示録」はインパクトがある名前で映画としては成功したのですが、コッポラの言いたかったこと、「終末は今だ」というニュアンスが反映されていないのが残念ではあります。

この映画にはイカれた軍人が何人も登場しますが、ひときわ異彩を放つのが、サーフィン好きのビル・キルゴア中佐です。彼は主人公のウィラード大尉の護衛でついてきた新兵がプロ・サーファーだと知ると興奮し、彼とサーフィンがしたいがためだけに、敵の勢力圏内にあるサーフスポットの攻略にでかけます。

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中佐の第一騎兵師団のヘリコプター部隊は、あの西部劇に登場する騎兵隊の末裔でもあるのです。ジョン・フォード監督の映画に描かれた誇り高き部隊ですね。しかしその誇り高き騎兵も70年代にはヘリコプターを主力にした、近代的な軍隊に変貌をとげ、装備だけではなくて、メンタルな部分も70年代にイカれた意味でトリップしています。

その後、中佐の部隊はサーフィンするためだけに、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を大音量で流しながら、ヘリコプターで周辺のベトナム人居住区を制圧し、住民を巻き添えにし、ナパーム弾で森を焼き払っていきます。

多分、どんなサーフィン好きの人がみても、「ありえない!」「戦争は狂気だ!」と思わざるえないシーンが展開されます。映画ですので、誇張が入っているに違いないのですが、その描写には、あの当時のアメリカならやりかねないと思わせる説得力があります。

しかし、キルゴア中佐はまだ完全に敵を制圧する前に、波に心を奪われ、周囲に着弾しているにもかかわらず、サーフィンの準備をすすめます。波に乗っているとなりに着弾し、ワイプアウトする新兵のサーファーをみたウィラード大尉は思わず、

「ここでのサーフィンは危険です!」The surfing here is too risky

と当たり前のことを口にするのです。

しかし、キルゴア中佐は

「東部生まれにサーフィンがわかるか!」

といってとりあいません。

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さらに危険がせまり、周囲には着弾が続きますが、中佐はいっこうに波乗りをやめる気配がありません。

怯む兵隊たちを見て、中佐は

「サーフィンしたいか、銃をもって戦うか?どちらかだ!」

と独りカウボーイ的なノリで指揮(サーフィンの)を続けますが

「いくらなんでも危険では?」

と主人公のウィラード中尉に諭されます。

そして最後にあの伝説的なセリフを言い放つのです。


「おれが安全だと言ったら安全だ!」

このワンシーンは極端で、クレイジーで、当時のアメリカがいかに理不尽な戦いがしたかを強調するために挿入されています。キルゴア中佐の態度にはどことなくユーモアが漂いますが、北ベトナム人としてはたまったものではないです。森は焼かれ、女子供も含め村そのものが消失していってしまい、素直に笑えない、どういうリアクションをとればいいのか、理解に苦しむ場面であります。

しかし、このワンシーンに描かれている極端で無意味な行為がサーフィンとか、クライミングとか、登山の本質だと、私は思ってしまったのです。

(また、映画の主題はまた別にあります)

反社会スポーツと正統派スポーツ

社会が安定している時には目立たないですが、これらのアウトドアスポーツの内部にこういった反社会的かつ非安全な要素を含んでいる、というのが私の意見です。

身も蓋もない言い方をしてしまうと、私たち山岳ガイドも、安全登山だなんだといって100%の安全が存在するかのようにあの手この手で偽装し、スポーツが内包する反社会性、冒険性をなるべく見せないようにして、一般化して商売にしているともいえます。

こういったアウトドア/カウンターカルチャーとは対照的なスポーツの代表格は、ラグビーといえるかもしれません。正統派スポーツの代表であるラグビーは、実は、イギリスのエリート養成機関であるパブリック・スクール(イートン、ハーロー、ラグビー、そしてケンブリッジ、オックスフォードなど)で、19世紀的な帝国主義を推進するため、国家に忠誠を誓う、国家の非常時に有用となる人材をいかに育てるか、という使命のもと、トーマス・アーノルドという人が考えた教育方法といわれています。

これはこれで、素晴らしい思想であり、集団のために個を犠牲にするという、人間の普遍的な美徳にもとづいているともいえます。自分がやるとツライですが、他人が行っているのを見ると、人間ってすごいなあ、といいものだなあ、と思わせてくれるような、あれですね。

昨年のラグビーワールドカップを見た人なら、個人プレイ的な要素の強いサッカーとは別の美しいスポーツマンシップを、日本代表の背中から感じたかと思います。あれがトーマス・アーノルドがきずいたスポーツマンシップの分かりやすい形かもしれません。

それに対し、20世紀の中ごろから、19世紀的なそういった価値観の反動で、もしくは社会的なものではなく、冒険的なもの(大航海時代を作った海賊の末裔)をもとめた結果、生まれたのが個人スポーツとしての登山であり、カウンター・カルチャーとしてのサーフィンだと思うのです。

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(リスクの語源になったベネチアの冒険的な船乗りリズカーレ)

レジャーとしての登山は、大航海時代から続いていた地理的な冒険(北極、南極探検など)があらかた行きつくされた後、その最後の名残と平行してアルプスやヒマラヤなどに人類の足跡が残されました。

いずれも、「俺たちゃ、街には住めない~からに~♪」と雪山讃歌で歌われるような、反社会性というと大げさですが、まあ、社会生活を営めない人々が主体となって行われた行為です。

ブラッド・ピット主演の「セブン・イヤーズインチベット」はアイガー初登頂で知られるオーストリアの登山家ハインリヒ・ハラーの自伝が元になっていますが、ハラーも国家事業だった遠征隊に加わっているものの、妊娠してる妻を見捨てて遠征に参加し、チベットで離婚の手紙を受け取るような、一般社会からみたら「ありえないけど、自業自得だよね」と思われるような結末を迎えています。

一方、日本にはレジャーとしての登山以前に、ながらく信仰としての登山の歴史がありますが、修験道、山伏というのは、国家権力にまつろわぬ山人の集団というとらえ方もでき、民俗学者の柳田国男は山人の位置づけをそのようにしていました。国家の主権の及ばない範囲に生息し、税金も払わない、よくわからない人たち。だから日本の伝統的な登山にもそういった反社会的な要素は多分に入っているとは思うのです。

(ただし、日本の山伏たちは、天皇および皇室が危機に瀕すると山から降りてきて、軍隊をもたない天皇のために戦った勢力もあったといわれています。壬申の乱や建武中興ですね。ここが日本の歴史の素晴らしい部分であり、山がお好きな今上天皇とのつながりが見えて好きなのですが、本題ではないので触れません)

クライミングとサーフィンの悲劇

そういったいわば不良の集団、化外の地で行われていたスポーツが、クライミングにしても、サーフィンにしても、オリンピックという20世紀の権力の遺物に、自ら志願して取れ込まれていったのが、悲劇の始まりだと私は考えています。

不良だからカッコよかったのに、お金をつまれて、良い子ちゃん演じなくちゃいけなくなって、魅力もなくなってファンも失うアーティストの話って映画にもたくさんありますよね。

話が少しそれますが、そういった不良の一番の悲劇は、まだ若かったころのスノーボ―ダーの 国母和宏さんかもしれません。

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国費=税金で派遣されるオリンピック選手に指定されたからには、良くも悪くもその様式に従うべきだったという意見があり、そういった中に、ごく表面的であっても、不良性を持ち込んでしまった。

一方、国母さんより少し前の時代のスターであったノルウェーのテリエ・ハーコンセンは、長野オリンピックでスノーボードが正式採用された時、誰もが金メダルをとるテリエの姿を予想していたのですが、おおかたの期待に反し、

FIS SUCKS!

(なんでスキー連盟にスノーボーダーが管理されなくちゃいけねえんだ!)

といって出場そのものを、つっぱねてしまいました。ふざけるな!と。ここに正しい不良のあるべき姿を見ます。今でもテリエは、オリンピックによる国対国の構図はスノーボードの「自由な精神」に反するとして、特に利権のかたまりとなった国際スキー連盟主導のスノーボード競技に反対の姿勢を取り続けています。

一方、国母さんの場合は、オリンピックに出場したのであるからには、そのルールや様式下で期待される行動をとるべきだったというのが、私の考えでもあります。(ただそのあとの国母さんはアンダーグラウンドのスターそのものの人生を歩まれてますので、昨年、現行の法律を犯してしまったとはいえ、昔の任侠道のように筋の通った人生感が感じられます)

話が大幅にそれてしまいました。

言いたいことは、このアウトドア・スポーツの魅力を作っている重大な要素の一つに、反社会性、冒険性があり、そしてそれは時に社会から圧力を受け、人々から蔑まされることもあるが、それを失ったり、安易に社会や権力に迎合してははならない。ということです。

世界は二項対立

なぜその核心を権力に売り渡してはいけないかというと、理由は二つ。

一つ目は、こういったアウトドアスポーツは常に変化する自然環境の中で、リスクを評価し、柔軟な意思決定をする必要があり、それは権力のような固定されている機関からの通達(概して大雑把で、臭いものにフタをする思想で成り立っている)に従っていては、危険を危険だと認識し、安全なものを、安全だと主張できないからなのです。

命にかかわるからです。

先ほどのキルゴア中佐の例はクレイジーで極端ですが、
「俺が安全だと言ったら、安全だ!」というセリフの中に私はアウトドアスポーツのプレイヤーに求められる自己責任の究極の姿を感じるのも事実です。

この構造を認識できないのであれば、自然の中で遊ぶことは、その行為自体がリスクそのものでしかないと思うのです。

二つ目は、発展する世界は必ず二項対立で、成り立っているから。という理由です。トヨタと日産、アップルとマイクロソフト、日本であれば、仏教と神道、人間であれば、男と女、優しさと厳しさとかです。

時に対立し、時に混ざり合い、片方が片方に嫉妬し、片想いし、離れ別れて、また対立し、双方が結果的に発展する。中国の太極図ではありませんが、陰と陽が主張しあい、そこから無限の回転エネルギーが生まれる、あの感じです。

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不良が不良でなくなったら、優等生の価値もなくなる。

全部がダメになっちゃうと思うんです。

仮にこの世から不良がいなくなれば、はじめは優等生であったものが、いずれ理想を失い、理想の独裁主義にすらなってしまう。

だから、不良は不良である限り、理想的な社会の実現を、実は側面から担保している、ともいえるのです。

冒頭の「地獄の黙示録」は、まともな人が一人も出てこない物質主義社会のエクストリームな終末を描いた映画です。でも、20世紀の戦争という人間の狂気が繰り広げられる世界において、あのイカれたキルゴア中佐にも、不思議な爽やかさがあるんですよ。

なぜなんでしょうかねえ。

カッコイイんですよねえ。


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時間とお金、どちらも有限な存在。ゆきずりの文章に対し、袖触れ合うも何とやらを感じてくださり、限りある存在を費やして頂けること、とても有り難く思います。