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リスクの仏様 ~自己責任と自業自得~
自粛期間中に雪山初心者が「自己責任だから問題ないっす!」と言いレンタル店で装備を借りて槍ヶ岳に登ったところ、滑落し、大腿骨を骨折して下半身不随になったとします。皆さんはこう思わずにはいられないでしょう。
「自業自得だろ」
自粛期間中の実話
上の話は例え話ですので、実際にあった話ではありません。しかし、現実世界でもGW前の登山自粛期間中に、滑落事故が八ヶ岳で起こり、遭難者が肺炎を併発し、感染症の疑いがあったため、救助にあたった長野県警の航空隊が一時自宅待機させられるという事故があったのは、まだ記憶に新しいと思います(いや、忘れちゃってる方も多いかも)
上記の遭難された方が、出発の際や登山口などで「自粛中ですよ。登山は控えてください」と言われたかはわかりませんし、上の例え話のように「自己責任だからいいでしょ!」といって制止を振り切って入山したという話も聞いておりませんので、あくまでもたとえ話だと思ってください。しかし、同じような内容の会話は、登山自粛期間中だけに限らず、全国いたるところで聞かれるような会話なのだと思います。
そして、今回の事故でも、その後の社会の反応を見る限り、不運にして事故を起こしてしまった登山者に対し「自業自得だろ」という厳しい言葉を投げかけ、傷口に塩をぬり、折れた骨にワサビをまぶし、デスソースをトッピングするのが、最近のトレンドとなっているようです。
しかし、私たちが普段何気なく使うこの「自己責任」という言葉は、「自業自得」とセットで、デスソースのトッピングとして使われるべき言葉なのでしょうか?
この曖昧さは、自己責任という言葉が、自業自得という言葉と比して、まだ日本語として歴史的に浅い言葉であるからでしょうか。
今回はそこら辺(だいぶあいまい)を考えていきたいと思います。
(こういう遭難者叩きって海洋遭難にもあるんですかね?サーフィンとかヨットの世界とかでも「傷口に塩」文化はあるのでしょうか?それともそもそも海水だからその必要はないのでしょうか?)
「リスクの神様」は外国からやって来た
日本には八百万の神々が昔から住まうと言われており、日本神話の古典、古事記には様々な神様が登場しますが、残念ながら、古事記を何度読み返しても「リスクの神様」という神は見つけることが出来ませんでした(ひょっとすると竹内文書には登場するかもしれませんが、残念ながら、その文書は読む気がしないのです)
ですので、どうやらこの神は日本古来の神ではなく、外国からやって来た、というのが私なりの仮説です。
戸田恵梨香さん主演のこちらのドラマにも、危機管理のプロで通称「リスクの神様」と呼ばれる西行寺智(堤真一)という人物が登場しますが、彼はアメリカで実績を積んだ危機管理のスペシャリストであり、日本古来の神ではありません。
ドラマ内の役割も、あくまでも危機管理、リスク管理のプロということでして、リスクの神様というフレーズはキャッチーですが、その実像を適切に表現しておらず「危機管理の神様」というといほうがより適切かと思います。
もちろん「危機管理の神様」のような冴えないネーミングでは水曜22時ドラマ枠ではオンエアされないでしょうし、主演もイケメンの堤真一ではなく、おそらく温水洋一になっているかもしれません。
(冴えない役をやらせたらナンバーワン俳優に選ばれた温水洋一さん)
誤訳としての自己責任
アウトドアにおいて、自己責任という言葉をよく聞く代表的な場所に、スキー場があります。最近のパウダースキー、非圧雪ゾーンの人気にともない、スキー場として管理の及ばない、あるいはすべての人々を滑らせるには少々危険度が高いエリアには、
(自己責任ゾーン)
といった看板をみかけることがあります。この看板にかかれている「自己責任」といった言葉を、恣意的に解釈するとすれば、
「何かあってもうちは、知りませんから......ね」
ということになるでしょう。
実は、これらの自己責任ゾーンのコンセプトは、海外スキー場でもよくみかける看板、
(At your own risk)
の訳というか、真似なのでしょうが、意味するところは著しく異なっています。
こちらの意味を好意的に解釈すれば、
「リスクはあるが、出来るやつはいると思うよ」
というニュアンスになるかと思います(だいぶ好意的な訳です)しかし、私は、残念ながら日本のスキー場に良い印象をもっていないため、単純な比較はできないかもしれません。皆さんはどう感じるでしょうか。
それはさておき、ここで問題となるのは、
1.リスクが責任という言葉に置き換えられている
2 .利用者との関係性を断ち切る意味で使われている
点と思います。
スキー場という、遊びやアウトドアの素晴らしさを提供するサービスが、それを餌に利用者をよんでおきながら、いざアクセスしようとすると、自己責任という言葉を持ち出し、
「わたしは知りませんよ。一応警告しときましたからね」
と本来は言いたいことを、オブラートに包んで表示する。
なんかちょっと寂しくないですかね。。。そんなことを書くくらいなら、いっそこう書いたほうがいいんじゃないかと。
(ここから先は、自業自得エリアです。何が起こっても因果応報と思ってください)
YU Sasaki
こんな看板がクーロワールの手前とか、クリフバンドの上に設置されていたら、かなり痺れますね。スキー場でありながら、禅や茶道などの一種の宗教文化体験に近く、インバウンド向けのツアーとして、京都の伏見稲荷や築地の魚市場に次ぐデスティネーションになるのではないでしょうか。
話が大幅にそれました。
私が言いたかったのは、先程の例からも分かる通り、
・リスクと自己責任は異なる概念
・自己責任は、他人や社会との関係性を断ち切るための言葉ではない
という2点につきるのです。ここを踏まえておかないと、山で遭難者が出るたびに死人にデスソースという悲惨なループが今後も続き、デスソースの輸入元である株式会社鈴商さんはいつまでたっても風評被害を免れないと思うのです(もちろん、冗談です)
日本の自己責任
では、我が国に自己責任の伝統がないのか?
というと、そんなことはありません。日本には世界に冠たる自己責任を身に着けていたハードコアな人々がいたのです。
それが、いわゆる武士とよばれる階層の人々でした。武士といっても、源平の頃の華麗な武者から、室町時代の悪党、そして江戸時代の幕藩体制のサラリーマンとしてのお侍まで、様々な立場の人々がいるのですが、ここでは江戸時代の藩の中で殿様につかえていた武士についてお話しましょう。
江戸時代の武士の家の至上の命題は、主君を守り、自分の家を存続させることでした。なおかつ物理的に、経済的に存続させるさせるだけではなく、武士としての名誉を守りつつ、家を保つことが要求されたのです。この辺りの江戸時代の武士の涙ぐましい事情に関しては、有名な『武士の家計簿』という本に記載されています。映画化もされていますね。
そのほか、例えば寝込みを敵や盗賊に襲われ、その武士が刀を抜かずに斬られて死亡した場合、その親類にも罪がおよび、家は取り潰しになったといいます。いわゆる「士道不覚悟」ということで一方的に断罪されたのです。そして、この裁きを受けた側も、誰を恨むことなく、「不覚をとった」と思い、すすんでその罰を受けたという話がいくらでも伝わっています。
江戸時代末期、大老の井伊直弼が、江戸城の桜田門外で襲われた際、雪が降っていたため、刀に防水カバーをつけていた護衛の彦根藩士たちは不運にも刀を抜けず、そのまま斬られるか、鞘のままでの防戦一方でした。この時でも、刀を抜けずに(抜かずに)藩邸に通報にいったもの、あるいは傷を負わなかったものは、家名を辱めたという罪で例外なく斬首になり、家名断絶。軽傷者は切腹、重傷者は流罪の上幽閉となりました。わずか150年前にはこのように厳しい世界に生き、自らに降りかかるすべての不運に対し「不覚をとった」とし従容としてその命令に服していた日本人もいたのです。
私なら「雪が降っていたので...」とか「昨晩は残業があって寝たのが午前2時過ぎなのです」とか「得意先との付き合いで飲んでいたので、身体が重くて、、」など様々な言い訳をし、不意打ちをしてきた敵の藩や、理不尽な斬首命令を言い渡す藩を相手どり訴訟を起こすかもしれません。
しかし、それは私が臆病なのではなく、近代国家においては整備された訴訟制度があるがゆえに、悪いのは私ではなく相手だと自動的に思い、自己責任という概念が身につきづらい社会構造があるからだ、と思うのです(はい、人のせい)
(江戸時代にも限定的ながら、庶民にも訴訟制度があり、最近の研究では、町人が借金を踏み倒す武士を訴え、多くの場合、武士が不利になっていて、裁判費用が敗者負担でなかったため訴訟そのものの数も多かったということがわかっています)
そういう中で武士は外からの敵、内の中では政敵からの襲撃、町人から訴訟など日頃からありとあらゆる驚異に晒されていて、法的にも守られるものが少ないがゆえに、自己責任という概念が徹底していたのです。文字通り、最期に頼れるものは、おのれの刀一振りという究極の自己責任の人生だったのです。
日本には「リスクの仏様」がいる!?
冒頭にあげた例の中に登場する言葉、自業自得。実はこれは因果応報と並ぶ仏教用語です。自らの行い(原因)には、それにふさわしい結果がある。という仏教の教えを現した言葉です。そして、これは善い意味にも使われる。
(なんか宗教的真理を布教してる感じになっちゃいましたけど、そういう訳じゃないので、ご安心くださいw)
文化的背景がない言葉(アラートとかロックダウン)って基本的に人を騙すためにあるってことが、このブログを通じて言いたいことの一つでもあります。
近代国家の法制度といういうのは、文明社会の中では私たちの生活を守ってくれる有り難いものですが、それはあくまでも文明社会の中だけのものだと理解しなければなりません。大自然の中でアウトドア・スポーツを楽しむ私たちを守ってくれるのは、法制度ではなく「自らを律する自己責任」の感覚です。
なぜなら、当たり前ですが大自然を訴えることなど出来ないからです。雪山で僕たちを最期に守ってくれるのは、よく訓練された武士の刀のように、自らの身体の一部となったピッケルであり、アイゼンであり、自らの経験に基づく適切な意思決定だと思うのです。
Tadashi Sekine@Mt.Waddington
自己責任も、自業自得も、大自然の中で、自らを律する意味で使いたいな、と思うのが、今回の記事の結論ですね。
廣田勇介
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時間とお金、どちらも有限な存在。ゆきずりの文章に対し、袖触れ合うも何とやらを感じてくださり、限りある存在を費やして頂けること、とても有り難く思います。