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イスラム教徒と西洋社会の課題―法律と宗教のギャップ

今回のフランスの暴動をみて、なんとなく宗教戦争のような事態だなと思ったので、そのことについて書いてみたいと思います。

イスラム教の教えによると、仕事は神への奉仕や社会貢献であるという考えを持つ人が多く、職業や社会的地位による差別は避けられるべきであるとされています。一方、特にプロテスタントのキリスト教徒は努力や成功への追求を通じて神への奉仕を追求するという考えです。西洋人から見るとイスラム教徒はゆとり系で学力重視ではありませんが勤勉な人のように映っていると思います。またイスラム教徒からみると、西洋社会は聖書の教えから外れた憐れむべき社会と捉えられるかもしれません。

この状況は、かつてキリスト教がローマ帝国に迫害された時代をを思い起こさせます。貧しくても真理の十字架を背負ったキリスト教徒が失うものは何もなかったのです。やがて彼らは小さな社会を結成し大きな社会を変革していきました。

イスラム教徒でなくても、自分の中の正義や常識が社会に反映されないことで苦しんでいる人は多くいます。中世には、そのような人々は聖職者になる道を選ぶことがありました。しかし、マルティン・ルターは、理想の中に閉じこもってしまってはいけないと彼らを非難し、人々が労働を通じて社会に貢献することが神への奉仕であると説きました。

しかし人々は成功や富の追求を重要視するようになり、競争社会を加速させた結果、弱者、強者、貧富の差などの社会的な格差が生まれました。多くの西洋人にとって職業はステイタスを象徴するものとなり、特定の職種に就くことを嫌う傾向があります。一方、西洋に住む多くのイスラム教徒は西洋人の嫌がる仕事にも熱心に取り組んでいます。宗教間の労働における価値観の違いは経済格差に結びつく要素の一つになっていると思います。

イスラム教徒は教えを守りつつ働くことで正義を果たすと同時に、格差を生み出している西洋社会への不満を募らせ、そのことが自信の信仰や文化に対するアイデンティティを強化し、仲間意識を高めているように思います。

西洋社会においては、イスラム教徒は法的な枠組み内で宗教の信仰と実践を行うことが求められ、公共の利益や他の人々の権利とのバランスを取る必要があります。しかしイスラム教徒にとって西洋の法律とは何か考える必要があります。

西洋社会はキリスト教の教えが、法律や社会制度の中に溶け込むことによって、人々の正義を守っていると考えることができます。つまり西洋社会がキリスト教を見捨てたというより、キリスト教が進化し社会に根付いたのではないかと捉えています。法を守るということはキリスト教の精神や神に対しての忠誠心を表しますが、一部のイスラム教徒は、イスラム教法を守ることで彼らの神への忠誠心を表しています。このような思考の違いは、一部のイスラム教徒において西洋の法律は正義ではないというような誤った思想を生み出す恐れもあります。今回の事件は、まさに水面下で燻っていたそのような思想を半ば強制的に正当化しようとする試みのように思います。

今回の暴動は、イスラム教徒と西洋社会の法律との関係性や、宗教と法律の問題が再びクローズアップされた出来事だと捉えています。西洋社会では、イスラム教法を含めた異なる宗教や文化の視点を考慮した法の改正や働き方改革、社会全体の多様性や公正を促進する取り組みなどが必要となってきます。

人々の多様なニーズや背景を尊重し、共に成長できる社会環境を構築するため団結し話し合いを進めてゆくべきなのですが、今回の暴力と破壊行為は、フランス人だけでなくヨーロッパ社会全体の反移民・反イスラムの感情をますます強くさせてしまったように思います。これは、カトリックとプロテスタントが引き起こしたような長い内戦の始まりのような気がするのです。