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親愛の精神:キューピットがいる社会へ

はじめまして。
私は現在ドイツのチュービンゲンという町で人文学(行動科学)を勉強しています。今日暑くて授業に集中できないなか、ふと「自分を変えたい」とかいう気持ちは、本当は「元の自分に戻りたい」のことなんじゃないかなとか考えていたので、そのことについて書いてみたいと思います。

人間の本能には、他者に対する親愛の精神や共感の感情が含まれています。つまり親愛の精神って私たち人間が持って生まれたものです。けれど生きている間に様々な要素が加わって、それが母性愛か父性愛または自己愛とかの別の愛になるんですね。ここでいう母性愛と父性愛というのは、性別に関わらず、母性愛の強い人格と父性愛の強い人格に分かれるという意味です。

自分の経験や環境そして文化などが影響してそうなるのですが、基本は「何としても生き残らないといけない」という本能の力がそうさせていて、成長していくうちに徐々にその本能にしがみつきながら生きていくようになるんだと思います。だから気軽に「自分を信じて」とか「頑張れ」とか「やればできる」とかいう言葉を他人にかけることってできないんですね。

宗教は日常に溢れている「頑張れ」とか「自分を信じろ」とかいうのに疲れてしまった人に向けて、そうじゃなくて「本当の自分に帰れ」って教えなんじゃないかなという気がするのです。

キリスト教では、人間の本能に打ち勝つことがとても重要な要素とされています。先程の親愛の話で例えると、人間は親愛の精神を持って生まれてきたのに、環境とか社会の固定観念とかが人間の生存本能を刺激してだんだんと利己的な自我が芽生えてしまうから、学びによって親愛を取り戻しなさいという教えなのです。

キリストの「自己を捨てて、わたしに従いなさい」とか「人間は罪に堕ちた存在」とか言う言葉はそういった人間の本能に対して発せられた言葉だと理解しています。私たちはキューピットみたいにピュアで可愛かったのにキューピットじゃなくなっているじゃないかと怒られているようなイメージです。

人間は生まれながらにして博愛の精神を持っているというのは、人が親になった時に感じる感情ですよね。親は子供に対して厳しく接することもありますが、それは子供が健康で幸せに成長するための自然の法則の一部です。同時に、親の愛によって子供たちは生き続けることができるのです。だから、親愛の念を持つことは、生存において不可欠な信念だと思っています。

しかしながら、私たちの歴史は親愛の精神を得ることができなかった人間の歴史であるから、考えても仕方がないことだとか、力がある者だけが生き残るのがごく自然だという意見もあります。心理学を学んでいくうちに、気質や環境の影響で教えを受け入れることができない人たちがいることを知りました。それが理由で社会貢献ができない人がいるのも事実です。だからこそ、このような状況にある人々に対しても、博愛の精神を持ちながら社会貢献することは、自己と他者の幸福を追求する道であり、より調和の取れた社会を築くための重要な要素です。

別に大きなことをする必要はないと思います。私自身は、各々が親として子として家族愛を育むことが最も大きな社会貢献なんじゃないかなと思っています。そして現代において、それさえもできない社会の状況に不安を感じています。社会の根っこの部分がうまく育っておらず、個人が親愛の精神を得ることができない状態であっては、社会を変えることはできないですよね。なぜか私たちは自分の人生をものすごく複雑に考えすぎて、最も大切なメッセージに気づかずにいるんじゃないかという気がするのです。