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「私」が思う「日本語」の在り方

今回は「私」が大好きな「日本語」のお話をさせていただこうと思います。

「私」が「あぁ、日本人に生まれてよかったなぁ」と思うのは、ひとえに「日本語」という言語のおかげです。

その理由と「私」が思う「日本語」の在り方について、綴っていきます。

「日本語」は他にはない素晴らしい言語である

「私」が日本語ってなんて素敵なんだろう!と思うのは、その表現力の高さです。

こういった話になると、もはや定番ですが、かの文豪・夏目漱石は「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳しました。「I Love You」を直訳するならば「愛してる」ですよね。いやいや、他にも訳し方はあるよ!ということでしたら、すみません……。「私」は英語……というか横文字に強いわけではないので「I Love You」を訳しなさいと言われたら、やはり「愛してる」しか出てきません。

しかし、夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と表したように、日本語は使い方によって、最も幅広く、そして奥深く表現するに適している言語ではないか?と「私」は思います。

たとえば「白い花」と書く・伝える時、ただ「白い」という一つっきりの表し方だけではありません。

「白」という単語を、類語辞典で調べてみてください。

まるで雪のように白い花だ、と表現したいのなら、白色(はくしょく)という言葉があります。少しの濁りもない白さの花だ、と伝えたいのなら、純白……などなど「白い花」の白さを表す言葉には選択肢があるのです。

ただ「白い」と書かれている文章よりも、こうした言葉を使うと、頭の中にじんわりとイメージが広がっていく感覚がします。つまり「想像力」を掻(か)き立てられるのです。

この表現力の高さによって「伝えること」や「感じること」の幅を大きく広げてくれる。日本語には無限の可能性があり、これは世界に誇れるくらいの特別な言語ではないか?と「私」は思います。

「ら抜き」はアリかナシか

ここ最近というわけではありませんが「ら抜き」についての議論がありましたよね。

「ら抜き」の例を出すと、たとえば「この野菜は食べることができる」と言いたい時には「この野菜は食べられる」が正しいですが、これから「ら」を抜いて「この野菜は食べれる」と言う人がいます。これが「ら抜き」です。そして、この「ら抜き言葉」は会話の中でよく使われるものなので「話し言葉」であるとも考えられます。

「私」はライターとしてお仕事を頂く時、クライアントの意向に沿った執筆をするようにしています。「説得力がある書き方をしてほしい」とのご依頼であれば「私」は「ら抜き言葉」を良しとはしません。説得力を持たせるための文章であれば、少々お堅い文章になるとしても「ら抜き言葉」を使わない方が、読み手となる人に「これは参考になる」「勉強になった」と思ってもらえる可能性が高いからです。

しかし「親しみやすい書き方をしてほしい」とのご依頼であれば「ら抜き言葉」を使用することもあります。「ら抜き言葉」というよりも、この場合は「話し言葉」と言った方がいいですね。先述した「食べられる」と「食べれる」であれば、対話をしているような感覚で読み進めることができる「食べれる」の方が違和感がない、という人がターゲットになります。

「私」の答え

そもそも、何かを伝えること・表現をすることには「ここがゴール」というものはありませんから、私もライターとして、表現者として、まだまだ勉強・努力を重ねていかなくてはなりません。

「ら抜き」はアリかナシか?ということへの「私」の答えは、2つあります。

ライターとしての私は「読者のニーズに合わせるという意味ではアリ」だと思います。しかし「表現者」としての「私」は、日本語が素敵な言語であると思っているからこそ、ナシかな?というのが本音です。

ただし、あえて「ら抜き」する方が良い、という文章もあると思うので、それこそ日本語の表現力の高さを利用して「何を伝えたいのか?」ということを明確にする。そして、読み手となる人たちに対して親切であることが重要だと考えると、答えは変わります。

「表現者」としての「私」の答えは「その都度で臨機応変に対応する必要があるので、ら抜きはアリにもナシにもなる」というのがしっくりくるかな?と思います。


私という「個」を応援してくださると嬉しいです。このnoteで行っていきたいあなたの「進化」のお手伝いにて、恩返しできればと思います。