本当の「配慮」は「何もしないこと」になるのでは
noteで開催されていたらしい、あるコンテストが話題だ(私戻ってきたの最近すぎて、そういうのがあったのすら知らなかった)。
「あなた」を落とした理由ってのが、主催側から出されたこと――というか、その内容が、話題になってる発端だよね?
私はそもそも、コンテストの開催すら知らなかったので、もちろん応募もしていない。
▼「私」について
でも、その記事がオススメだったか……とにかく、すぐ目につくところに出てきてたのね。
で、応募したわけじゃないけど、審査側から発信される「落とした理由」って気になるな、と思ったから、読んでみようとタップした。
ちなみに、その時、その瞬間は、特に何か思いを抱いてタップしたわけじゃなかった。
ZOZOTOWNのセールとかで一覧バーッとスクロールしてて、「あっこれかわいくない?」ってタップして詳細見る、みたいなさ。
そういう感じのタップをして、件の記事を読んだ。
で、その時も「ははぁ〜、なるほど〜。確かに〜」みたいなことしか思わなかった。
思わなかったんだけど、そもそも「配慮」ってむずかしいんだよね。
なので、考えてみた。
「私」なりに。
ちなみに、「私」の性格とか肩書きとかじゃなくて、「持ってる一要素」みたいなものの全部が「センシティブ」だと思う。
だから、何をどう説明していいか分かんない。
――ので、もうこの記事の内容すべて「センシティブ」と思ってください。
ちなみにここから「センシティブ」
「私」は精神疾患の当事者だけど、別に「私は精神疾患があるので、配慮してくださいね」とは思わない。
――というか、「言ったところで……」というのが、実は本音だ。
だって「精神疾患です」って人より、「精神疾患じゃないです」って人の方が、おそらくは多いから。
で、その記事の中で、センシティブな話題について触れられてたんだけど……最近、そういう「配慮」を求められることって多いよね、って思った。
でも、配慮ってそもそも「絶対しなくちゃならないもの」とは「私」は思ってなくて。
いや、あったら嬉しいよ。やさしい気持ちで、自分を気遣ってくれたんだな、と思うから。してもらえたら、それはすごく嬉しい。
でも、みんなが納得する(?)配慮ってのは、どこ探してもないと思うんだよね。
たとえば、「私」には母親がいない。
しかも、「いない理由」は「自死したから」だ。
そんでもって「私」は精神障がい者だ。
血縁者(一緒に暮らしてた祖母)に、差別用語をぶつけられたこともある。
▼これ。
多分、っていうか、何もかもが「センシティブ」だよね。
そんでもって、そういうものに「触れたくない」と思う人も、多分「その理由」は人それぞれ違うはずだ。
当事者だからとか、想像するだけで悲しくなっちゃうからとか、色々。
――なんだけど、「私」は誰かに「配慮してくれ」と思ったことはない。
なんでかって、キリがないからだ。
「私にはママがいないから、ママの話をされたら傷つく。だから配慮して」
「私はおばあちゃんと不仲(非常にマイルドな表現)だったから、おばあちゃんとの仲良しエピソードには配慮して」
「私には精神疾患があるから配慮して」
たとえば、「私」の持ってるこういう「一要素」全部に「配慮」を求めたら、「私」に声をかけてくれる人はいなくなっちゃうと思う。
あと、これはまた別の話になるかもしれないけど、「私」は精神疾患そのものを悪いこととは思っていない。
これについては、ちょっと前に別の記事で書いてるので、ここでは触れない。
▼有料記事だしセンシティブな内容です
そんで、「自分が今こうして生きていられるのは、色んな人たちの支えあってこそだ」とも思ってる。
だから、感謝や尊敬の気持ちを持つことはしても、「配慮してくれ」と思ったことはないのだ。
そういう考え方が「私」の前提にあるから、件の記事を読んでも「なるほど、そういう考え方、こういうこともあるんだなぁ〜。勉強になるな」としか思わなかった。
でも、その記事を読んだからなのか、それにまつわる記事もいくつかオススメに出てきたので、「他の人たちはどう思ったんだろう?」と思って、気になるタイトルは読ませてもらった。
その結果「私」が思ったのが、この記事のタイトルそのままだ。
本当の「配慮」って、突き詰めたら「何もしないこと」じゃない?
発信したら、もう「自由」はなくなる
「何か」に対して、どう思うのか。
それは「個人の自由」だ、と「私」は思ってる。
でも、それを口に出したり、ネットに載せたり……とにかく、自分の外に「発信」したら。
その時点で、多分「個人の自由」は通用しなくなっちゃう。
だって、こっちがどういう気持ちでそれを言ったとしても、書いてネットで公開したとしても。
「受け取る側が」どう思ったかで、意味がまったく逆転したりするから。
でも、「そういうつもりじゃなかった」って言っても、相手が傷ついたのは事実だし。
「こういう意図です」って説明しても、「そういうふうには思えない(感じない)」って言われたら、それはそうなんだよね。
良かれと思ってやっても、相手にはそうじゃなかった。
そういうのって、結構あるじゃん。
よく言う「余計なお世話」的な。
冷房ガンガンの部屋でうたた寝してたから、寒くなっちゃうかな?と思ってタオルケットかけたら、「いや暑いわ……」って嫌そうにバサッ!てされたりさ。
相手の受け取り方、感じ方によるんだよね、どんな「配慮」をしたとしても。
そんで、その「受け取り方」と「感じ方」も、実は「一定」じゃなくないですか?
その日の体調とか気分によって、「いつもなら許せたけど、あの時は無理だったのよ……ごめん」みたいなこと、ありません?
だから、「みんなが納得するような配慮」って、多分ない。
ていうか、みんなが「そういう配慮」をしようと思ったら、怖くて何もできなくなっちゃうんじゃないかなって思う。
でも、「人間」だから。
しかも、原始時代とか、言語がないとかってことなら別かもしれないけど、この現代に生きてたら、誰かと関わらないで生きるってほぼほぼ無理じゃないですか?
さらに、言葉っていうコミュニケーションツールがあって、その中でも「日本語」って本当に表現の方法が多種多様でしょ?
だから、このツールをどう使うかによって、人間関係がどうなるか?とかってのも、大体分かってるはずと思うのね。それこそ、自分自身の過去の経験とかでさ。そうじゃなくても、SNSで炎上、みたいなのだってあるし。
だから、本当の「配慮」って「何もしないこと」じゃない?って。
何も言わない。
何もしない。
みんながそうしたら、多分何も起こらないから、どうもならないよね。
でも、それって無理じゃん。
仕事行かなきゃいけないとか、子どもの世話しなきゃいけないとか、人それぞれ「無理」な理由あると思うけど。
っていうか、そもそもさ。
「人」と関わらないと、「人」って生きてくのむずかしい。
これに尽きるくない?と思って。
だから、色んなことに配慮を求められる時代になってるなぁ〜って思うけど、そもそも「配慮」って、そんな簡単にできるものじゃなくない?
それならまず、
これを、もっとみんなで、考えなくちゃいけなくない?
――って思ったよ、という話。
▼「私」ってこんな人
「自分」で「これは考えるべきこと」と思って考えて、それで書いたものだけど……やっぱりすごく、体力?気力?分からんけど、パワー使うなぁ〜。
とりあえず、妙なテンションになってきてる自覚はあるので、頓服は飲んどいた!えらい!!
私という「個」を応援してくださると嬉しいです。このnoteで行っていきたいあなたの「進化」のお手伝いにて、恩返しできればと思います。