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私は自分の島と城を持っていた

3歳の時に母親・ママを亡くした私は、父親であるパパと一緒に、祖父母の家へと身を寄せることになりました。

▼「私」について

朝は5時に家を出て、帰宅は0時を過ぎるほど忙しく働いていたパパ。仲は良好であれども、休日以外に一緒に過ごせる時間は、そう多くはありませんでした。

さらに、私は実の祖母とは確執があり、記憶にある子ども時代というと、その思い出のほとんどに存在しているのは祖父・おじいちゃんです。

▼祖母について

そんな家庭環境の中、大好きなおじいちゃんは、いつでも愛情を注いでくれました。今の私があるのは、おじいちゃんのおかげと言ってもいいでしょう。

私が「私」という「個」であるに外せない要素の一つは、おじいちゃんが私に与えてくれたからです。

おじいちゃんが「私」に与えてくれたもの

おじいちゃんは、想像力も創造力も、とても豊かな人です。

空想好きな私に、オリジナルのおとぎ話をつくって聞かせてくれたり、小さな私を育てるために筆を置いたものの、それまでは油絵を趣味としていたので、絵を描くことも得意。その作品のいくつかが家に飾られていましたが、ひいき目があるにしろ、どれもストーリーが思い浮かべられるような魅力のある絵でした。

そんなおじいちゃんに育てられた空想好きな私は、いつの間にやら「書くこと」を覚えました。

▼こちらで触れています

この世に存在しない「私」だけの場所を、おじいちゃんはつくってくれました。

おじいちゃんの一番は私

そんなおじいちゃんは、敬老の日に市から100歳の記念品を頂けるそうです。広報にも名前を載せてもらえるとのこと。パパからその連絡がきて、私はものすごく嬉しかったです。

おじいちゃんは常々、言っていました。

「ここまで生きてくると、もういいかなと思う。若い時にはできていたことが、どんどんできなくなっていく。仲間もみんな先に逝ってしまった。つまらないし、さみしい」と。

私はそのたびに言いました。

「おじいちゃんはまだまだ死んじゃ嫌だよ。おじいちゃんには、私の結婚式に出てほしい。それから、私の子どもだって抱っこしてほしいよ」と。

どちらも、もう叶いません。

おじいちゃんは、胆石が見つかって手術をしました。手術をしても、体が追いつくか分からない。けれど、しなければもう先はない。そう言われて。

入院した時、容態が急変して悪化した場合、一番の連絡先はパパでした。そして、二番目が私。おじいちゃんの息子で、パパの三人の兄ではなく、私でした。

容態の急変はなかったおかげで、手術は計画的に進み、その後の体調も良好です。

でも、おじいちゃんはもうベッドから起き上がることができません。

息子たちの声に反応がなくても、私の呼びかけには反応して、何を言っているのかは分からなくても、私がいることは分かってくれたおじいちゃん。薄く目を開けたり、笑ってくれたりもした。

でも、それももうできなくなりました。

おじいちゃんへ

いつだったか、「きっと100歳まで生きたらいいことあるよ!賞状もらったりしてる人、いるじゃん」と私が言った時、おじいちゃんは「そうかなぁ」と、むずがゆそうに笑っていました。

「おじいちゃんは学もないし、体が丈夫なことくらいしか褒められるようなことはないけど、賞状もらえたら嬉しいなあ」と言って。

おじいちゃんはものすごく喜ぶだろうなと思います。

おじいちゃんが100歳になるのは、来年の3月。そうしたら、私とぴったり70歳差。

毎年、敬老の日とお誕生日には、ちょっと良いお菓子と、おじいちゃんが好きそうだなという絵柄のカードやレターセットで「ありがとう」を伝えていました。

もう読むことはできなくても。大好きな甘い物だって食べられなくても。私は今年も、おじいちゃんへのプレゼントと、「ありがとう」を書いたカードを用意しようと思います。

一番に可愛がってくれて、難しい子だった私に「おじいちゃんはね、お前が一番かわいいよ」と、たくさんの愛情をくれたおじいちゃん。

「私も、おじいちゃんの一番が嬉しいよ」


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