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富士の水と紙の街。

私の住んでいるまちは、静岡県富士市。
新幹線の駅で言うと「新富士駅」で、
駅から眺めるには一番正面に富士山をとらえる街です。
富士山と駿河湾にはさまれ、豊富な水と木を原料とした「紙のまち」として発展してきました。

2024年の今、富士市に住んでいる感覚で言うと、水が豊富な印象は確かにあり、水道水は確かにおいしくてしかも安い。とくに、夏そうめんを食べるとき、湯掻いた麺を水でしめるのに水道水の水が冷たいのでよく麺がしまって美味しくなる。都内で暮らしていたときよりも水が違うなという実感があります。でも、紙については?富士市は駿河湾にも面していて、製紙工場がとても多く、パルプの山を良く見かけます。でも、紙について市民がフォーカスしているかと言うとあまり実感がなく、紙のお店も多いわけではありません。こんなにも製紙工場が多いのだから、せっかくならもっと紙について知りたい。紙の可能性を探って行きたいと思い始めました。

富士宮西臼塚の三椏

もともとは、江戸時代。富士山南西の麓から富士川の上流でとれる「三椏(ミツマタ)」を原料とした紙すきでの紙を「駿河半紙」と呼び、しなやかな紙質で人気があり、江戸に広く流通していたそう。
この「駿河半紙」は、現在の富士宮市を中心に当時盛んに生産されましたが、富士市では主流産業にはなりませんでした。
明治時代になると、江戸時代の宿駅制度が廃止され、大量失業が懸念されました。
明治12年(1879年)伝法村の栢森貞助(かやもりていすけ)らにより、手すき和紙工場「鈎玄社(こうげんしゃ)」を設立。それまで、家内産業だった手すき和紙に、工場生産の考え方を導入し、洋紙技術を取り入れて富士地区の工場経営の先駆けとなりました。
それから、明治20~30年代にかけて今泉地区に相次いで手すき和紙工場が設立され徐々に富士に製紙工場が増えていったそうです。

明治初期、だいたい明治5年(1872)というから、私の生まれる100年ほど前に、東京では現在の王子製紙や有恒社ができ、洋紙生産技術が浸透して、明治20年代になると経営が安定、そこから全国に工場が広がり、富士地域では、明治23年(1890)に東京の富士製紙会社が潤井川流域の入山瀬に工場を建設し、富士市域で初めて洋紙の製造を開始。このとき、豊富な水資源が注目されそれまで手すきだった和紙の生産が洋紙生産に変わって行きました。

まずは、富士の紙の歴史から。
今後は、富士ではどんな紙が作られているのか、調べて行きたいと思います。

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