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正岡子規「文界八つあたり」現代語訳

正岡子規が、明治26年3月から5月にかけて、「地風升」稿として新聞「日本」の「雑録」欄に断続的に13回にわたって連載した評論「文界八つあたり」の現代語訳である。後に『子規随筆 続編』(明治35年12月、吉川弘文館刊)にそのままの形で収録された。「文界八つあたり」は、正岡子規の「最初の本格的な文学評論というべきもの」(『子規全集 第14巻 評論日記』解題)である。

明治25年に新聞「日本」の記者となった子規は、当初、『獺祭書屋だっさいしょおく俳話はいわ』および同増補再版に収められることになる俳論・俳話を「日本」紙上に発表し、それ以外の分野について本格的に論じることはなかった。最初の単行本となる『獺祭書屋俳話』が、26年5月21日に日本叢書の一篇として刊行されており、その前に当たる「文界八つあたり」を発表した時期には、俳句以外の分野にも議論を拡げる余裕ができていたとも考えられる。「八つあたり」という題名は、文学全般を和歌・俳句・新体詩以下8つの分野に分けて評論しているので、それを「八つ当たり」に懸けていると考えることができよう。

現代語訳の底本としては『正岡子規集』(明治文学全集53、1975年4月、筑摩書房)に所収のものを用い、あわせて『子規全集 第14巻 評論日記』(昭和51年1月、講談社)を参照しました。


現代語訳「文界八つあたり」

ー 文学界の八つ当たり的な評論 ー

正岡子規 著   上河内岳夫 現代語訳

緒言

 春風しゅんぷう駘蕩たいとう百花ひゃっか爛漫らんまんの好時節は、まさに日ならずして至ろうとする。世間の人の心も何となく春めいて、風流な人は郊外に詩を拾い、婦女子はなにかので演劇を見る。俗界に生息する官吏が、小説本に夜を更かして春眠暁を覚えず、ついに出勤の時間が過ぎてしまったのも、俗世間を往来する「時は金なり」の商人が発句会の兼題にうつつをぬかして、知らず知らず回り道をしたのも、いずれも風流の卵でないことがあろうか。まして詩人である者、小説家である者は、まさにこれは十分に詩興を吐露し、小説思想を現出しなければならない時である。そうして現今の我が国の文学界の有様は果たしてどのような有様であるか。世間の需要に応じるだけの供給は、経済学的にできつつあるか。その経済学的に発生した文学は、みょう[名聞と利欲]的なものではないのか。もし果たしてこのような有様とすれば、その後はどのようになっていくべきか、またどのようになっていかせるべきものか。これは今日において文学者である者の一考を促すべきことで、批評家である者がその一考を促させるべき時機であると思われるのである。
 
 嘉永・安政の頃、一陣の猛風が外国から吹いてくるとともに、我が国固有の制度・文物は一年一年に打ち壊されて、世は冬枯れの景色となって、ただ荒れ広がった平原と枯れ残った木立の他にはまた一つの活気あるものを見なかったが、その木枯らしの風がだんだんと弱まるにつれて世界は再びうららかな春となり、何も彼も耳に目に新しく見えるほどに、いままではただ骸骨とのみ思われた文学の枯木も、次第次第に葉を出し花を咲かせ始めたが、その花も葉もいく百年来見てきたものとは色も香りも全く異なった一種異様なものとなったのである。その一種異様なものはみな外国から吹き送った新しい種子から発生したものであるけれども、その種子は果たして我が地味に適さなかったのか、やはりその色香が我が邦人の嗜好に合わなかったのか、ついにこの一種異様な文学は、洋服とともに束髪とともにすっかり減じて、今は和洋折衷とも称すべき「冠を西洋にし、靴を日本にする」かのような文学に変わったのである。否、変わろうとしていまだ変わることができないのである。それならばついに変わるべきであるのか。いわく、変わるべきである。和は一変して無となり、無は一変して洋となる。洋が一変すればまさに折衷となろうとする。そうして天下に、いまだ「折衷」の二字のように曖昧模糊なものはないのである。よくもなり、悪くもなるものはないのである。これは文学者が注意して一歩を誤ってはならない時であって、批評家がそのために提灯を持たなければならない時ではないのか。
 
 私は文学を好むけれども文学者ではない。私は批評を好むけれども批評家ではない。文学者ではなくして文学を評価し、批評家ではなくして批評を試みることは、もとより僭越であるのを免れない。まして当世の諸大家もしくは諸大家の著作に対して論評を試みるようなことは、「蟷螂とうろうが斧を振るって隆車に向かう」[無謀で身のほどをわきまえない行為]という謗りを受けるだろうけれども、「老婆がよく白居易の詩を評し、田夫がよく応挙の画を誹ることができる」のならば、我輩において何の問題があるだろうか。正直な容赦のない素人の批評は、かえって情実のある諛言ゆげん[おべっか]が多い玄人の批評に優ることがあるのを信じるのである。

(1)和歌

 文芸の再興につれて、世の中の学問は多少芸術・文学の要素を含んだものとなり、いわゆる「実用なるものの実用」の他に、「無用なるものの実用」を承認するようになった。古来文学なるものは、余力をもって学ぶべき末技とのみ考えていたが、今は文学ほど高尚優美なものはないとまで論定するに至ったので、これまでは内々に威張っていた若旦那がにわかに大旦那に成り上がって肩幅を広くしたように、新たに出来した文学は大手を広げて世界を横行し始めたのである。そうであるから文学に関する書籍雑誌が続々と世に現れ出たのは言うまでもなく、もとからそうではなさそうな新聞雑誌までが、詩歌・小説の類いを載せないものはないようになったが、その中で最も普通なのは、三十一文字の和歌であるとする。そうして今の世の文学でこの三十一文字ほどつまらない、面白くないものはまたとはないだろう。それならば和歌そのものがつまらないとするのか。古来秀歌が多いことをどうするのか。それならば歌人その人が面白くないとするのか。私はそれが最も適当であることを信じるのである。
 
 「詩人は生まれる、作られない」という一語は、たとえ真理ではないとしても、詩人としての教育は中学の年齢においてこれを受けても、すでに遅いのである。小学の年齢においてこれを受けてもまたすでにその時機を過ぎているのである。ましてや壮年にして初めて詩人になろうと思ってなれるだろうか。かつ詩人としての教育は古歌をたくさん読むことではない。自らむやみに作ることでもない。歌人の点[評価]を乞うことでもない。ましてや古典に通じて、雅語を解したとしても、詩人になれないことは誰でも知っていることであるはずなのに、さてそれさえも知らない現代の歌人が「自ら歌人である」と思っている心の強さよ。試みに「今日の歌人にはどのような人がなるのか」と尋ねると、まず、国学者・神官・公卿・貴女・女学生・少し文才がある者・高位高官を得た新紳士・自分の歌を書籍雑誌の中に印刷してみたい少年といった者になるのが、嘆かわしいことである。神代の詞を詠み続けて、その難しさで愚者をおどすとしても、よもや歌人ではないだろう。神祇じんぎの力を借りて名歌を作ろうとしても、名利に志す俗物は住吉・玉津島の御神も見放されるであろう。位が高く官の尊い人が上手であるかと思うと、柿本人麻呂・山部赤人はそれほど栄達した人ではない。檜垣嫗ひがきのおうな[平安の女流歌人]や祇園梶子[江戸中期の歌人、祇園の茶店店主]は卑しい生まれで歌の達人であるが、やんごとない上臈じょうろうで歌が無下に拙い者も少なくない。世知に富んだ人で上梓を目的に作歌する人は、かえってその才、その目的がわずらいとなって一首の名歌さえ得られないのに、まして金銭を貪って一銭か二銭を目安に立てる歌人の歌はどうであろうか。これらの人はみな、ただ自分の娯楽として歌などを言い捨てるくらいは面白いであろうが、その自惚れ連中がもったいなくも歌人という天爵てんしゃくを横取りするようになっては、本邦固有の和歌ももはや地に落ちたと言わざるを得ないのである。
 
 新聞雑誌の文学でも、私は漢詩[日本漢詩]をもって比較的に発達したものと考えるのである。本邦在来の耳になれ口になれた和歌が下落して、外国語の珍紛漢ちんぷんかん的な漢詩が騰貴するとは、やや受け取れない話であるが、これには二つの原因があるようである。第一は、すなわち前に述べた歌人の見識がないことによるもので、歌人と比べると漢詩人の見識はなお数等の上にあることを証明できるのである。第二は、漢詩の言語が多く句法が変化するのと違って、我が和歌は言語の区域が狭いことと字数の少なさと古歌の多いことによるもので、このために新句法を用い、新意匠を述べることができないのは是非もない次第である。この上は多少の新語を挿むか、短歌のみに頼らずに長歌を用いるかの他には別に方便もないだろうと思われる。さりとて今が今でも五十や百の名歌ができないとも決まらず、一人や二人の歌人がないとも限らないが、ただ現時のような老人と老成人が一つになり、名家と名利家とを間違える世の中では、「福島中佐を迎え、郡司大尉を送る歌」[明治25年福島はシベリアを単騎横断して帰国、郡司は千島探検に出発した]が何万首できるとも、少しも頼もしくはない次第である。要するに、今日和歌というものの価値を回復しようとするならば、いわゆる歌人(すなわち痴愚なる国学者と野心がある名利家)の手を離して、これを真成詩人の手に渡すという一策があるのみである。

(2)俳諧

 発句俳諧の類いがすべて文学であるに相違ないとすれば、日本文学の過半は俳諧のために占領されてしまう。俳人宗匠の類いがすべて文学者であるに相違なければ、日本人口の千分の一はすなわちみな文学者と称すべきものである。ああ何と俳諧が盛んで、俳人の多いことか。芸術文学はこれを著作する者が極めて少なく、他人の著作を見て娯楽とする者が極めて多いのは、古今東西ほぼ一定した通則であると思いの外、我が俳諧は単に他人の著作を見聞して快となす者は甚だ少なく、かえってこれを著作して自ら楽しむ者が甚だ多いことこそが第一の不思議と言うべきである。そうしてこの一大不可思議の文学がこのように隆盛を極めるのは、その句法が簡単なこととその用語が卑俗なこととの二つの原因があるからであって、この頃になって「平民文学」というあだ名を得たゆえんである。 

 「平民文学」と言う言語は明治の字典に一つの新語を加えたことに相違はないけれども、これの解釈を付するに当たっては、それが賛美の意味を含むか、あるいは嘲弄ちょうろう[馬鹿にすること]の意味を含むかになると、誰も容易にはこれを判断することができないであろう。否、これを判断する人があれば、多くは「これは嘲弄を意味するもの」とするだけである。たしかに俳諧を指して平民文学というが、そのときは俳諧ほど世間で軽蔑されるものはないからである。あるいは真の文学は高尚優美で、必ずしも多数の賞賛を受けるものではないのであり、むしろ平民と文学とは両立し難い点が多いからである。天下にもし強いて俳諧を平民文学と言おうと思う人があれば、もとより私にはこれを拒む理由はないけれども、その平民文学という語はもはや文学の一部分ではなくして、文学以外の一新語であることを忘れてはならないのである。試みにどのような人が俳諧社会を組織するかを見よ。国学者・公卿など数種の人が歌人となったぐらいはまだしも、金持ちの隠居・町内の口利き・卑俗な芸人・無学な百姓・閑な弁護士・不用な役人、いずれが俳句を好まないことがあるだろうか。これしもなお文学者と言えるならば、日本の文学は井戸端の会議に落ち、御講おこう[寺での読経・説経の集まり]の戻り道に残ったとか言えようか。最多数の平民に理解させることを文学の真意とする言文一致流の論者は、まさに日本の文学者年表の中で、八公・熊公をもって人麻呂・赤人と肩を並べさせようとするのか否か、分からない。
 
 けれども学問に究理と応用の区別があるように、俳諧にも文学と応用との二種があって、いわゆる八公・熊公の俳諧は文学の応用に他ならないとすればいいのである。ただこの場合における俳諧は、床屋の将棋盤、離れ座敷の花札と同種類で、文学的な俳諧とは異種類に属するだけである。前句付・三笠付・景物賞品などはもとより俳諧からは遠くして、博奕に近いことはすでに享保年間において幕府の認める所となったのである。今日行われる懸賞俳句のようなものは、まだ法律をもってこれを禁止しないけれども、その弊害はあるいは享保年間の三笠付に劣らないものである。懸賞俳句はもとは狡猾な商人の発意から出て、その手数料として割合に不相応な金を貪ることにあって、募集に応じる人は全くこれを知らないのではないけれども、これもまた懸賞を得て自分を利そうとの勘定づくで、見す見す敵の術中に陥るものとは知られている。これはもと俳諧以外のもので文学とは何らの関係もないので、ここに論じる必要はないけれども、世間の人はこれをもって俳諧となし、俳諧師はこれをもって奇貨とする観があるのをどうしたらよかろうか。これから俳諧師という文学者の身の上に論及させていただきたい。
 
 数万人の俳人が月に一句ずつを作ると仮定すれば、一年に数十万句を生じ、十年に数百万句、百年に数千万句を生じるに至るだろう。その中には千万の名句が出現するとともに、俳句は早く詠み尽くされるだろうはずなのに、今日においてその割に名句も少なく、あるいは俳句が尽きたとも覚えないのは、これはその人が文学応用者であって、純粋の文学者ではないからである。十七字の天地は、もし数万人の真文学者を容れるならば、名句は一時に湧き出し尽くして、俳句はその時をもって無惨な最後を遂げるべきであるが、俳諧が起こってから以来、わずかに三百年、元禄・天明の盛時でも、いまだこのような多人数の俳人が出現したことはなかったのである。純粋の文学者は、三百年間を通計してなお、数百人に過ぎないので平均して一年に一人か二人の割合であるべきなのに、さても現今の宗匠のおびただしさよ。東京府下のみでも幾十人と数えることができて、全国を探し求めると数百人にも上るであろう。俳諧社会の真の文学者と目すべきその宗匠がこのように多いからには、明治の今日は、たとえ数万人の文学応用者を除いても、なお古今未曽有の俳諧隆盛の時期と言わざるを得ないのである。
 
 しかるに「過ぎたるはなお及ばざるが如し」とか、宗匠輩出の時代はすなわち宗匠皆無の時代である。試みに幾百の宗匠はどのようにして生計をなすかと問えば、みな文学応用者を利用しその点料、その入れ花などによらない者はない。それも喉元の用心には致し方がないとするも、その宗匠が批評する所を見れば多くはその正鵠を誤って、雅淡を味わうべき句は一切捨てて顧みず、かえって俗臭が紛々として鼻の穴から入って脳天を衝く的な悪句をつかんで来て、これを巻頭となし、これを巻軸となし、かつその句の善悪にかかわらず必ずこれを添削してそうして後人に示すと言う。この添削はその抜粋した「秀逸」が、古人の成句そのままを剽窃していることを恐れて、これを防ぐ秘訣であると言う。かつて都下の宗匠数十人が一堂に会した際に、ある儒学者が宗匠を罵る演説をしたが、一人としてこれを聞く者がなかった。その訳を問うと、その罵言を嫌うのではなく、宗匠の過半はむしろこれを理解しない者であるということであった。何と最近の宗匠の無学・無識・無才・無知・卑近・俗陋ぞくろう・平々凡々であることか。そうではあるがその無学平凡な者は、なお一凡人としてこれを許すことができる。権門に伺候し富豪に出入りして幇間をもって体となし、俳諧をもって用となす奸悪な宗匠になると、その害が大きいことはかえって一時の懸賞発句などにまさることが万々であると言わざるを得ない。ああ、誰かこれを刈る者があろうか。
 
 昨年来、にわかに俳諧の好景気が来て、古俳書の払底と新俳書の刊行とは大いにその盛運を占うに足るものがあることは、急に天下の俳人が増加したためであるかと言うと、もとより百人や二百人の俳人が新たに生まれ出たことに相違がないけれども、その数は従来固有の数万人の俳人に対しては、零と見なしても差し支えがないほどである。それなのににわかに俳諧が活気を生じた様に見えるのは、結局その百人か二百人が商人・百姓を組織したいわゆる月並者流の屁鋒連へっぽこれんではなく、多少の学識と文才を備えた書生仲間から出たからであるだろう。「千羊の皮は一狐のえきに如かず」[凡人は何人集まっても、一人の優れた人物に及ばない]。百万人の月並連は一人の貧書生に及ばない。これがその新俳人が比較的少数であるにかかわらず、急に俳諧社会が色めき立った理由で、私は俳諧のために太白を浮かべて[不詳]祝いたいと思うところである。「学識がない」「佳句がない」「廉恥がない」「節操がない」の数語を形容詞として出現すべき今の宗匠に対しては、私はほとんど改良進歩の望みを絶ってしまった。宗匠といえば卑俗を意味し、発句と言えば陋醜を意味するような、その宗匠その発句は早くこれを地底に葬り尽くして、ただその墳墓から生じる新しい萌芽の成長を待とうと思うのである。

(3)新体詩

 新体詩とは何か。格調の新か、意匠の新か、あるいは格調・意匠ともに新であるという意味か。新体詩人は言う、「従来の短歌は調が短くて、歌人が意匠を述べるのに足りない。古代の言語は数が少なくて詩人の観念を書き出すのに足りない。願うところは、ここに新体詩なるものをはじめ、明治の詩人が縦横無尽に奔走して驥足きそくを延ばす[才能を十分に発揮する]のに十分な一新天地を開き、あえて西洋の大家に比べて「三舎を避ける」[相手をおそれてしりごみをする]ことのない名編大作を作らせよう、ということである」と。そうしてこれを唱道したのは、すでに10年前にゝ山ちゅざん[外山正一]、巽軒そんけん[井上哲次郎]先輩が『新体詩抄』という書を著して世に公にした時である。それ以来文学が進歩するとともに山田美妙・中西梅花・宮崎湖処子その他の多数の少壮文学者を鼓舞して、これを新体詩人の壇に上らせて、彼のいわゆる新体詩歌なるものを歌わせた。その歌う声はいかに高かったことか。その歌の調べはいかに美しかったことか。これを聞くとともに拍手喝采した天下の聴衆はいかに多かったことか。そうしてまだ数年を経過していない今日、彼らが「千歳不朽に伝えよう」と誇言した数十篇の新体詩は尽く雲散霧消して、また昔日の拍手喝采のこだまをもとどめないようになった。無残なことに新体詩人はたおれたのである。空しくきょうわらべ[物見高く口さがない者]をして「半詩人さんはどこにどうしてござるやら。去年の秋のわずらいにいっそ死んでしもうたら、こうした嘆きはあるまいに」と謡わせた英雄の末路は、悲しむべきまた哀れむべきことである。
 
 けれども文学の大勢から察すれば、今日は決して悲しむべき時ではなくむしろ喜ぶべき時であると思われる。春秋戦国の幾百年の干戈かんかが暴虐を極め残酷を尽くしたが、秦の始皇帝が天下を統一し、漢の高祖が法三章をとりきめる治世がないわけではなかった。元亀天正の間[日本の戦国時代]に群雄が輩出し、互いに攻め互いに争い、あるいは和しあるいは叛き、甲が倒れ乙が起こり、彼を討ちこれに伐たれなどした様は、後世からこれを見れば、あたかも多数の英雄豪傑が自分の生命を犠牲にして、それによって徳川氏のために覇図はとを開く地[覇王となる意をみたす地]を作ったような観がある。既往の10年の間に数多くの新体詩人が将棋倒しに斃れたのは、まさに一大詩人のために土台を作って、宏壮な建築の成就を待つもののようである。誰がよく三尺の剣を提げて身を匹夫に起こし、ついに大詩人の栄爵[栄誉ある高い爵位]を受ける者となるだろうか。過去の新体詩人が尽く失敗した後を承けて、未来の新体詩人が大功を成し遂げようとするには、前車の覆轍ふくてつ[失敗の前例]を踏んではならないことはもちろんで、さらに前人が持たなかった新技量を振るわなければならない。ゝ山ちゅざん先生の文学における功績は世間の人に新体詩という観念を深く印象付けただけで、その著作は少しも文学士の価値があるものではない。けれども彼が、当時、新体詩という論説を書いて千万言を重ねるのは、ついに一篇の七五的な長歌を作ってこれを世間に示すことの有力であることに及ばなかったもので、文学が幼稚であった当時に彼の書がもてはやされた理由である。

(4)小説

 文学の中で最も期待の多いのは小説で、文学者の中でその多数を占めているのは小説家である。年々歳々生じる小説書の類いだけでも驚くべき多数であるのに、雑誌は月々これを載せ、新聞は日々これを掲げる。新聞の小説だけを数えても、全国でその数が3、40はあるだろう。その印刷紙数を合わせて10万と仮定し(実際は10万を超えている)、その読者は2紙について3人の割合とすれば、新聞小説の読者はすでに15万人の多きに及んでいる。これを月並俳句[子規が批判した旧派の俳句]の連中と比べて、さらにその何倍を加えたものであることは必定であると思われる。そうして真成の小説読者になると、かえってなおその外にあってやや高尚な位置を占めている。試みに見よ。縁日の露店の風塵にさらす所の新書・古書の一半は小説ではないのか。一つの灯架[ともしびの台]と一つの破机の間で生息する貧しい書生の座右にたまたま見る数冊の書籍は小説ではないのか。汽車の中、汽船の旅に携える書物は紳士と商人を問わず、法律家と政治家を問わず、みな小説であるのではないか。小説の愛読者が多いことはこのようであるので、したがって小説作者が出ることが多いのは必然の結果と言えるだろう。今日の文壇において文学者と称せられる人の中で、少しも指を小説に染めない者は何人あるかと問えば、実に十分の一にも足りないのである。いわゆる新体詩人なる者、いわゆる文学批評家なる者、どちらが小説家の一時の変名ではないのか。小説家という名は実に世間の人に尊敬されるよりも自己に最も尊敬され、小説という業は世間の人に面白く思われるよりも自己に最も面白く思われている。そうしてこの最も尊敬されかつ最も面白く感じられた小説は、実に最も容易な最も名をなしやすい事業と認定されたのである。天下の才子・学者を駆って尽く小説家の範囲内に籠絡したことは、もっともなことである。彼らは実によく時世を知っている。「我々も我々も」と旗を押し立てて打ち出した小説家は、尽くその望みを達して、天下に有名な者となったのである。しかしそれは一時の現象で、今から回顧すればはや4、5年の昔になった。
 
 明治の文学の再興から今日に至るまでまだ10年の星霜を経過しただけなのに、その盛衰を論じるのは小題しょうだい大做だいこ[小さなことを大げさに処理する]という嫌いがないわけではないが、強いてこれを言えば明治16、7年から4、5年間は著しく進歩改良して、年々歳々、光彩が燦然と増すという感がある。明治21、2年頃からこの方4、5年間は次第にその勢いを減じて、今日の萎靡いび沈滞に至ったようである。私は最近の小説界ほど熟睡した活気のないものはないと信じるのである。今日の有名な小説家はみな4、5年前の小説家である。まま新参の小説家がないわけではないが、その名は広く世間の人に知られず、たとえ広く知られてもその階級は従来の老朽小説家の下にあるようである。それならば新参の若手はその技量・学問・経験が果たして老朽小説家に及ばないのか、その著作する所の小説は文章において、脚色において、情感において果たして4、5年前の小説・戯作に劣っているのか。私は断じてそれがそうではないことを信じるのである。その人も遥かに昔日の人に優っており、その著作も遥かに昔日の著作に優っている。そうして昔日の人は依然としてその名声を保ち、今日の著作は微々たる喝采も博さないのはなぜだろうか。天下の少数の文学専門家は、それがいかに進歩して、いかに発達しているかを知っている。そうして世の中の多数の小説愛読者は、衆口一声に「今日は小説の睡眠の時代である」と称するのはなぜか。この不可思議な現象は文学専門家の胸中では暗々に理と情とが互いに争う所であるのに、彼らはなおその理を講究する労を取らないようである。これが小説が睡眠した理由で、また我々門外漢がしきりに剥啄はくたく[訪問して戸をたたくこと]を試みることがやむを得ない理由である。
 
 明治の初めに新聞というものが起こって、その後に絵入り小説の入った新聞が続々と世に現れるに至ったけれども、それは10年余り前のことで、精密な年代記は私の記憶には残るはずもない。ただ「東京絵入新聞」「有喜世うきよ新聞」などという名がとても古めかしいと覚えているだけである。それゆえその頃の小説がどのようなものであったかよくは知らないが、文章は七五調(馬琴風)、趣向は敵討ち・お家騒動の類いか、あるいはこれを応用した維新戦争のことか、そうでなければ雑報[新聞の社会面]に気の利いたくらいの痴話に過ぎなかったようである。(大阪では今日もなおこの域を去ること遠からずとか)。そうして間々西洋の小説を翻訳する者があって、時に多少の喝采を博したという。けれども小説の児はいまだ揺籃の中にあって、容易にその笑い声を聞くことができなかったのである。
 
 明治16、7年頃であっただろうか、矢野龍渓が『経国美談』を著すと、明治の文学界はにわかに活気を保ったようである。思うにその書は脚色を西洋の歴史に取り、文章を和漢折衷の新体で書いたので、それが陳腐を脱したことから、かつまた無骨な書生にも適していたので非常に流行したものと見え、再版・三版と引き続いて出版された。しかしながらこの書はあたかも開戦の第一砲のように号令を与えただけで、今日の標準から言えば少しも小説としての価値のないものである。そうして明治の小説は実に明治18年出版の『当世書生気質』(春の屋おぼろ[坪内逍遥]著)に始まると言って間違いないであろう。この書の特質は趣向が世話物であったこと、文章が雅俗折衷であったことなどで、いかにこの二つのことが明治の小説界を動かしたかは、その後3、4年間に続出した幾十百の小説がみなこの範囲を脱することができなかったことをもって見るべきである。これから我が国の小説は一変して趣向は書生・令嬢の情事、文章は地の文を古にし会話を今にして、英語・漢語を挿み、「・・・・・・」を付し、思い入れを書くことと定まったとともに、小説界はみなみな繁昌して小説作者はますます増加した。
 
 その次に小説界に新しい旗幟きしを立てたのは、二葉亭四迷が著した『浮雲』である。『浮雲』は文章を全く言文一致にしたことによって、したがってその観察は甚だ細膩さいじ巧緻こうち[きめ細やかで精巧緻密]に向かい、写実的とはどのようなことであるかを示した。その次に流行ったのは紅葉山人[尾崎紅葉]の西鶴流で、叢書「新著百種」の第一編である『色懺悔[二人ににん比丘尼びくに色懺悔いろざんげ]』は、まずその名をなしたものである。西鶴流といえば新体ではないけれども、西鶴の著書は世の中に流布するものが少なく、かつその格調があまりに他の者と変わっているので甚だ珍重がられたもので、これに加えて紅葉山人の妖艶ようえん繊麗せんれいな趣向は、文弱に流れ始めた書生の弱点を突いたものと見えた。しかしながら『色懺悔』は今日から言えば最も幼稚であり、当時でもやや心ある者はこれを退けたようである。小説の趣向は猥褻と限り、小説の文章は柔弱と定まった真っ最中に出て、これをひるがえしたのは幸田露伴である。露伴の小説が出て初めて、小説にも高尚な観念がなければならないこと、遒勁しゅうけい[筆勢が力強い]な文章がなければならないことを世間に吹聴したのである。これが今日までの小説界の最後の変化であって、この後はまた一つの大変化を見ないのである。最近、異種の小説、例えば探偵小説・鉄道小説のようなものが流行する傾きがあるけれども、ついに論評するほどの価値を持たないことはもちろんである。
 
 饗庭あえば篁村こうそんなる人は、いつの間にか文壇の豪傑になって、第一流の小説家と称される。八文字屋[浮世草子を刊行した京都の版元]を学んで、文章に軽快・諧謔が湧出するけれども、趣向を立てることが極めておろそかでいわゆる西洋流の小説家ではないことをもって、大家であるにかかわらず一人もこれを模倣する者がないのはまた奇妙であると言えよう。その他東海とうかい散士さんしの『東洋之佳人』[『佳人之奇遇』も有名]や思軒居士[森田思軒]のユーゴーの翻訳など一時流行のもの、あるいは誰と言い彼と言い数多くの小説家があるけれども、いずれも小説世界を動かすには足りないようである。
 
 これを今日までの小歴史に照らして見ると、今日は当然のこととして一大変化があるべき時である。一大変化がなければ、この小説界の萎靡いびを回復することができない。たとえわずかな変化と進歩があっても、それで名をなすには不十分であることは時勢上怪しむに足りないのである。もしこの上に一変化する道がないとすれば、一篇の大作が出なければならないのである。変化をもって人目を幻惑するのは容易であるが、大作を著して芳名を千載に残すことは実に難事である。大作とは何か。長編という意味ではない。写実の意味ではない。一時に流行して俗人の俗情をうがつものではない。製本・挿画を美しくして多額の原稿料を収めるものではない。必ずや識が天地八荒[全世界]を貫いて、筆が江海の波瀾を巻き、百世に独歩して一時の毀誉きよを顧みない者が出て、そうして後に初めて大作・大鑑ができるのである。筆力が波瀾を起こすのに十分でも、その観察する所が低くかつ狭いのでは、すでに識において欠ける所がある。その観念が純粋・高尚で宇宙を総括することができても、文章が富贍ふせん[豊富なこと]ではなく修辞が妥当でないのであれば、すでに筆において欠ける所がある。筆力が自在で観念が高尚であっても前後を顧みて毀誉に関して一敗してくじけ、二敗してたおれるような者は、すでに気において欠ける所がある。これらの人はどうして大作を書くことができるだろうか。
 
 それならば今日振るわないのは、全く上述の大小説家がいないことによるかというと、大小説家はいつの世にも多くはないので、いないとしてもまたよいのである。今日の不振は別に一つの原因が存在するのである。これを説くことをお許し頂きたい。私は小説界の事情にうといためにその精細な報告をなすことができないけれども、有名な小説家が一団結をなして天下を横行するのは万人が知る所であろう。外面の形跡上から言えば村山龍平[朝日新聞社社主・社長]という一富豪がその金力をもってありとあらゆる有名な文学者(主として小説家)を自分の手下に網羅したもので、「大阪朝日」「東京朝日」「国会」の三新聞に従事する小説家は自ら打って一丸とされたという観がある。これを名付けて「小説家買占め策」という。坪内逍遙・森鷗外・尾崎紅葉などの三派を除いて、他は多くが小説家買占め策の餌食になった者で、その人々は誰々であるか枚挙にたえないので、ここには言わない。知る人は知っているだろう。この小説家買占め策こそが実に競争心と名誉欲とを減じ、今日の小説界をして寂々せきせき寥々りょうりょう起たず振るわざるの極限まで堕落させたもので、憎しとも憎き小説界の罪人である。ある人は、「買占め策なるものはなぜ憎むべきか」と問う。答えて、「月々2、30円ないし7、80円の月給を与えてこれを雇い、そうしてこれに賦課する事業は極めて少ない。このため小説家はみな懶惰らんだに慣れて、ついに意匠いしょう惨憺さんたんの[工夫を凝らした]名編を出さないのである」と言う。ある人がまた問う、「貧困に追われ金銭を目的にして著作するのは、名編がでるゆえんではない。これに給して飢えず、これに施して不足がないようになって後に、たまたま大作を見るだけである。それならばいわゆる買占め策は保護策なのではないか」と。答えて「買占めの三字は保護ではないゆえんであるが、彼らは商売的な駆け引きになると、あえてその意志を問ういとまはないのである。ただ学があり識がある小説家諸氏がその罠にかかることが恨めしい。けれども文学者が窮乏に陥って驥足きそくばす[優秀な人が才能を発揮する]ことができないのは、ある人が言うように千古の遺憾であるので、これを養いこれに給して安楽に世を過ごさせるのは、意志はともかく形跡上は立派な所業で、文学者がこれにしゅうするのも無理からぬことである。そうであれば小説家はその本分を忘れず、うまく買占め策を利用して、大著作をなすという心がけを怠らなければ、ある人の言う保護策に他ならないのである」。
 
 上述のことは単に外形の団結を論じたものなので、皮相を見るものとの謗りを免れない。いかに外形の団結が大きくても内部において団結することがなければ団結がないのと同じことで、買占め策はかえって保護策であることに相違ないのである。それなのに競争心と名誉心とを失ったのは、外部の団結ではなくして主に内部の団結にあるのである。こう言ったからといって、文学者が相互に交際するのはよいと認めて賞めるべきことで憎むべきことではないけれども、いかんせん彼らはすでに第一流もしくは第二流あたりの位置に昇進している者であるので、名もない雑兵どもと競争する必要はなく、またそのすでに得た名誉はほとんど頂上に達した者なので、ただこれを失うまいと勉めるだけである。そうして自分と競争して自分の名誉を奪うことができるほどの剛の者は、自分たちの一味の者のみなので、彼らは悠々閑々として枕を高くし眠りを貪って、時にしゃれを闘わし酒量を誇るという児戯じぎをなすにとどまるようである。もし当世流の言葉をもってこれを言えば、確かに「小説家の藩閥」を作ったのである。彼らが「狂言綺語」というような楽屋落ちの雑誌を発行して、世間の人を愚弄するのは、あたかも昔の藩閥政府が園遊会・舞踏会を興行して、自ら天下泰平を謳ったのによく似ている。天下有為の少年はまさに矛を倒し旗を伏せ、敵の虚に乗じてこの藩閥を滅ぼそうとする者が多いことを知るべきである。けれども私はこの藩閥をもって老朽して事に堪えないとするのではない。かえって一二の豪傑がこの団体中にあることを認める者である。ただ彼らの今において警戒する所があり、もって他日噬臍ぜいせい後悔[ほぞをかむ後悔]を残さないことを望むだけである。

(5)脚本

 この表題のうちには浄瑠璃の各種類はもちろん、謡曲・狂言・琴唄・端唄の類いをも含める意なので、この語が不適当なのは言うまでもないことである。[訳注:原文の「院本」をここでは「脚本」と訳した。「院本」には「浄瑠璃本」の意味もあるので、このような記述となっている]。要するにここで論じようと思う所は、独立した純粋の文学ではなく、半分は文学に属し、半分は音楽または所作に属する一種の合同芸術のなかで、その文学に属する部分のみに関してである。
 
 この中で世間が最も大切にするところは演劇の脚本である。けれども私はここに詳論することはできないのである。なぜならば第一に私は演劇のことに通じていない。第二に今日の演劇はますます文学から遠ざかる傾向があるからである。事新しく言うに及ばないけれども近松門左衛門の戯曲がいかに普通の小説に類似しているかは、これを一読した者が熟知する所である。その弟子である竹田出雲の作を見ればすでに判然とした演劇の体裁をなして、それが小説から遠ざかる所はこれを近松に比べると単に雲泥の差のみではないのである。下って鶴屋南北になると全く舞台上の活用だけに務めて、文学臭味はこれを一切脚本中から追放したようであり、そうしてその傾向はますます一方に走って、ついに今日のいわゆる活劇となったもののようである。
 
 一口に言えば近松の頃は「チョボ」[浄瑠璃で語る地の文]が多かったものが、だんだん減ってついに皆無ともいうべきほどになり、したがって直接の対話のみが多くなって行って、あたかも西洋の演劇に類似して来たのである。そうして戯曲の中で最も詩歌的な要素が多い所はつねにチョボ(ことにサワリ)にあるものなので、近松の戯曲が舞台に上がることが少ないにもかかわらず、叢書として盛んに市中で読まれているのは怪しむに足りないのである。これに加えて演劇は文学外のある一種の趣味として発達して来て、知らず知らず文学と分離し近松らの浄瑠璃と疎遠になるにつれて、その流行おくれの浄瑠璃はまた演劇を離れて一種特別な技術として、その音節と楽譜とをのみ残すに至った。世の中のいわゆる太夫だゆう語り(または浄瑠璃語り)として寄席などで興行するものがこれである。
 
 以上のような次第であるので、一方においては文学趣味が少ない当今の演劇脚本は文学者の補助を借りるにも及ばず、また一方においては詩歌的な妙致が多い古代の戯曲はもはや旧時の廃物であるので、これを研究しこれを模倣する価値を失ったような観がある。これがすずろに[不本意であるが]私が世上の文学者に向かって猛省を請おうとする理由である。舞台の活動を務めるには演劇の事情に通じていなければならないことはもちろんであるが、事情に通じていたとしても演劇脚本を作るべきではない。文学なき演劇通の作は、演劇に通じない文学者がやみくもに作った脚本に劣ること万々であろうからである。文学といい、演劇といい、全く外形を異にするけれども、その幽妙不可思議な極意になるとどうして異なる趣があるだろうか。今日、有為な文学者は何にでも手を出す癖があるのに、演劇に限っては空しくこれを桜痴[福地源一郎]、百川[依田学海]の二老に委ねて、その上汁さえも吸おうとしないのはなぜだろうか。衣裳の好み・囃子はやし・拍子などは一切これを知らなくてもよい。その道の人がいるからである。たとえ今日の舞台に上がらなくてもよい。百年の知己を待つべきだからである。ああ、多芸の文学者よ、何を苦しんで宝の山に手を入れないのか。
 
 また古代の浄瑠璃は舞台から落ちたとして、放棄するのは甚だ聞こえない次第である。現に寄席で興行する語り物を目的として、一段物の新作を作るのもまた文学者の一事業ではないのか。近松風の戯曲をやや修正して一種の小説の新体となすこともまた甚だ珍しいのではないか。う、芝居以外に一種の芸術(すなわち義太夫語り)を生み出したことを忘れるなかれと。また脚本以外に一種の文学(古風浄瑠璃)を生み出したのを忘れるなかれ。
 
 世間の人はまた、近松らの戯曲を古代の人形芝居の遺物としてこれを愛し、あえて一つの新文学としてはこれを見ないようであり、の謡曲(能楽)については足利時代の古楽という他に、なんらの観念をも持たないようである。もし演劇は能楽の発達したものであるとして、演劇を取り能楽を捨てる人があるならば、これは俳句が起こって和歌を捨て、川柳が起こって俳句を捨てるのと同然で、誰がそのもうを笑わないことがあろうか。俳句の趣味はおのずから和歌とは異なり、演劇の妙趣はおのずから能楽とは異なり、各々がその長所に向かって進歩したものであるので、今日において単立たんりつ偏廃へんぱいの処置はあるはずはないのである。かつ世間の人が能楽を嫌忌するのは少しも能楽の高尚優雅な妙趣を解さないからである。見よ、彼らが誹謗する所を聞くと、「千篇一律だ」「荒唐こうとう無稽むけいだ」と言う。なんとその言葉の窮することか。これは今日の文学者でも常に口にする所である。千篇一律ならば新趣向の謡曲を作るべきであり、荒唐無稽ならば人情的な脚色を創造すべきである。もしそもそも能楽を評して「遅々とした歩み、喃々の語りは、ついに文明の舞楽ではない」と言うようないわゆる「大声里耳に入らない」者[高尚な議論を理解できない俗人]を、どうして歯牙に掛ける必要があるだろうか。
 
 謡曲戯曲のみならず、その他の百般の音曲類に至っても、なお文学者が助力を与える必要があるものが実に多い。そうして文学者は少しもここに注目しないもののようである。彼の長唄・端唄の本を繙いてもなお多少の名文があって、なかなか新詩人の手に合わないと見えるものも少なくない。いわゆる新体詩人という者は、まさに何をなそうとするのか。

(6)新聞雑誌

 明治世界の一現象であって昔の文人雅客たちが夢想にも知ることができなかったものは、活字の利用とそれにしたがって生じる新聞雑誌のおびただしいことである。百年前に山東京伝がしきりに黄表紙を刊行して時世の進歩を重宝がったのも、今から見れば児童の戯れに等しく、あるいははなわ保己一ほきいちが千辛万苦して『群書類従』を出版したのも、今の世に生まれたならば半分の難儀で『続類従』をも出版することができたのにと悔やむであろう。このように便利な世に生まれた若人たちは、昔の人が一冊の黄表紙に用いただけの心遣いも知らないで、何でもかんでも草稿のままで早く世に広めて、我先に高名を得ようと競いに競って、無数の新聞雑誌が世に現れるに至った。前後の考えもなく発行されたその無数の新聞雑誌は、血の気の若武者が敵陣目掛けて一騎討ち入ったように、大音声をあげて名乗り終わらないうちに、たちどころにしかばねを戦場にさらして、空しく「十号新聞」「三号雑誌」[創刊してもすぐに廃刊になる新聞雑誌]の汚名をとどめたのは、実にあわれで気の毒の至りである。それゆえその無数というも同じ新聞雑誌が永続するのではなく、甲が倒れて乙が起こり、前軍がたおれて後軍が進み、常に新陳代謝して少しもとどまることがないようである。
 
 文学専門の雑誌があって、文学専門の新聞がないのは、新聞の性質がすでにそのような結果に至らせる所であるので、新聞は文学上それほどの大関係を持たないようであるが、退いて「全く文学趣味を持たない新聞はあるか」と考える時は、それがほとんどないことに驚かざるを得ないのである。新聞の中で普通に売れ高[販売数]の多いのは、いわゆる大新聞ではなく、かえって小新聞である。試みに小新聞を取ってこれを見よ。その一半は小説と絵画とをもってこれをはめ、残りの一半も多くは一種文学的な雑報をもって満たされている。彼の大新聞すらあるいは絵画を挿み、あるいは詩文・歌俳[和歌俳句]を載せ、あるいは随筆・歴史談の類いを掲げるものは、どれもみなこの通りである。どうして新聞は全く文学界の外に退くことができないのか。けれども新聞文学は多くは蕪雑で粗放なもので、時として嘔吐を催すものさえ少なくはない。ついにこれを批評する価値を持たないのである。世間の人もまた一度見て、二度と読まないものなので、これを許しているようである。独りここで怪しむべきなのは彼の新聞小説である。新聞小説は一日の紙上を一回と限る窮屈さえあるにまして、挿絵があるものになると日々画面を変化させなければならないので、その小説の局面もまたいやでも応でも変化せざるを得ないのである。それゆえ新聞小説は新聞の上でこそ一応もっともであれ、ひとたび新聞の上を離れると、ふたたび完全な小説と言うことができないはずなのに、これらの小説は尽く再版して一冊の小冊子となるのはどうしたことだろうか。否、それはともかくも近頃出版される小説といえば必ず新聞小説の翻刻のみに限っているのは不思議千万のことではないか。今日の小説界は真に新聞文学の一部分としてわずかにその命脈をつなぐものと言えるだろう。
 
 文学専門の雑誌は、[森鷗外による]「しがらみ草紙」と「早稲田文学」をもって最も有名なものとする。各々が一長一短はあるだろうが、雑誌の体裁について言えば、「早稲田文学」の方がやや完備しているようである。すなわちこれがこの雑誌の長所である。けれどもこの二つの雑誌は文学の批評を主とするもので、文学上の著作を載せることは極めて稀である。文学上の著作を載せる雑誌は、その数において少なくないが一つとして完備したものを見ない。最近発行する所の「この文」のような「文海」のような、その他のなんとかとか言うものは尽く、文学界の中に雄飛するものではない。言うまでもなく「彼の雑誌は誰々の機関雑誌である」「この雑誌は何某の楽屋雑誌である」などという悪評が至る所に伝称されないことはない。「三号雑誌」の運命は、そう呼ばれることをもって判断すべきである。もしそもそも入花いればな[点者が受ける報酬]を取って発行する俳諧雑誌になると、その数が幾千万あったとしても、結局は商人が配布する大安売りのビラと異ならないのである。どうしてこれを文学と言うことができようか。

(7)学校

 普通に称する所の文学という語に両義がある。一つは技芸に属し、一つは学問に属する。技芸に属するものは詩歌・文章を作り、小説・戯曲を著すという意味であって、学問に属するものは古今の文学上の著作を研究し、あわせて修辞学・美学などにわたる意味である。技芸は自らその妙趣を解すべきで、他人からこれを教えることはできない。学問はますます勉めてますます深く、いよいよ励んでいよいよ達するものなので、良師について百書に渉って初めてその蘊奥うんのうを究められる。そうであるから技芸と学問とは個々独立して相互に何らの関係を持たないようであるけれども、それは両者の極端を論じるもので、ある一点までは両者は提携して、全く互いに依存し、互いに扶助するもののようである。つまびらかにこれを言えば、ある程度以内においては学問がある者は技芸に進み、技芸に進む者はすなわち学問の深い者であると断定することができるのである。ゆえに文学的な技芸もあながちにこれを教える方法がないわけではない。このゆえにか、文学専門の学校がある。
 
 文学専門の学校で東京府下に設立されるものは多いけれども、あるものはその程度が低く、あるものはその課程が一方に偏して、完全なものはない。その中でもまず体裁を具備したものを挙げると、官立では文科大学[現東京大学]があり、私立に東京専門学校[現早稲田大学]文学部があって、相対峙する勢いをなしている。今、この両校を比較すると文学全体の体裁から言えば、文科大学が専門学校に優ること万々である[はるかに優っている]。前者は国文・漢文・英文・仏文・独文(哲学・歴史・言語学はこれを除く)の数科があるけれども、後者は混然とした一文科があるだけだからである。けれどもその中で最も重要な国文学を取ってこれを比較してくれば、その体裁上において、大学がはるかに専門学校に劣っているのを見る。専門学校の課程を見れば、いやしくも文学に関するものは、古今と雅俗とを問わずことごとくこれを網羅する傾きがある。それなのに文科大学の国文科なるものは、全く古文学にのみ走って、全く近世文学の課目はない。そうしてその古文学なるものは実に王朝時代の文学で、鎌倉時代になると少しもこれをかえりみないようである。まして徳川時代は言うまでもない。鎌倉・足利時代は文学隆盛の時代ではないので、研究する価値がないとするのもいいだろう。またこれを研究するには独学でもできるであろう。独り徳川文学になると、文学の発達が著しいのみならず、万事が複雑におもむいたので、先輩について研究しなければ少しも解することができないものが少なくない。それなのにこれを捨てて塵芥のように見るのは、実に大学の一大欠点である。また一般に学生の学識と品格とを評価すると、専門学校ははるかに大学を下回っている。これは専門学校が学生を入学させる程度が非常に低いために来した結果であって、専門学校の欠点は実にここに存在するのである。
 
 両校は各々欠点があるので、その欠点を完備にならせることは、私が両校に向かって希望する所であるが、専門学校に向かってにわかに「学生の地位を高尚にならしめよ」と言うのは、実に卵を見て時夜じや[鶏が夜間の時刻を告げること]を求めるように無理難題であることを免れない。おそらくこのことはその根底から改革しなければならないことから、一朝一夕にこれを求めることはできないのである。けれども大学に向かってその学課を改正せよと望むことは、前者に比べて甚だ容易なものなので、私はまずこれから始めようとするのである。すなわち文科大学の国文学の中に近世文学の一科目を加えることである。そうしてこれを実行しようとするには、近世文学の教員を招聘し、近世文学の書籍を備えるという二事をなさなくてはならないのである。
 
 非難して言う人がある。「その言葉は正しいけれども、時勢においてこれを行うことができないのをどうするのか。第一は、財政の困難であり、第二は良師の欠乏である」と。答えて言うことには、文科大学に冗費があることは、人が知る所である。どうしての老朽して仕事に堪えない門閥的な教授を罷免し、これを二三人の講師に代えないのか。その余財をもってさらに二三人の近世文学の講師を招聘するのは実に容易な事業である。第二の問題点になると、実に難しいようであるけれども、そうかといってこれを置かなければ、いずれの日か良師を得る期があるだろうか。ましてその良師が乏しいと言っても、今日現に教授である某々くらいの人物には乏しくないことは言うまでもない。
 
 その他に文科大学の漢文、英文などの文学についても、不完全なことは少なくない。第一に、良師を得難いこと(外国人を万里の外に求めるので、選択しがたいのである)、第二に、学科のバランスを得ていないこと(国文学の中に英文の課があって、英文学の中に国文の課がないようなことである)などの欠点があるけれども、外国文学は直接の必要がないのでここでは言わない。

(8)文章

 文章はすべての文学に必要なことは言うまでもなく、文学以外にあっても常に用いられるものである。もし文章なるものの利用を列挙してくれば、法律の明文、裁判の宣告、日用の書信、新聞雑誌の論説雑報から金銀貸借の証書、開店売出しの披露の引札[ちらし]に至るまで、数限りもないことになるだろう。これらはもとより文学とは言うことができないものであるけれども、もしそのものの中から、特に文章という一部分を取ってこれを吟味すると、多少の文学思想をもって解析されないものはないのである。
 
 その言い表すべき事物と目的によって文章の体裁を異にするのは、文字を持つ各国がみな同じであるが、我が国のように差違が甚だしく、種類の多いものはいまだ他にあることを聞かない。その種類の大略を言えば、次の通りである。

純粋の国文:我が国古代の言語文章で、後世に至るほどこれを用いる者が少ない。今日にあってこれを用いるのは、和歌及びその端書きか、あるいは特に古文辞に擬する時にあるだけである。この体は優美であるけれども、言語は簡単であって複雑な思想を述べるのに適しない。
純粋の漢文:修辞学としては漢文ほど簡潔なものは他にないけれども、外国の文であることと、かつ古文だけを遵奉することから、自在にこれを応用することはできない。今日用いる所は、碑文や書籍文章の表題・清国人との筆談や書信の往復などの他に、あるいは漢学者が特に漢詩・漢文を作ることにあるだけである。 
純粋の英文:英米人に宛てる書簡の他は、外国人に示すべき著書かあるいは英学修業の自慢のためか、あるいは洋行帰りの人が我が国の文章を作ることができず、やむを得ずこれを用いるだけである。仏文・独文は英文に比べればさらに少ない。
漢文の仮名くずし:漢文をくずして単に仮名を交えたものは、荘重を主とする時にのみ用いられる。例えば、勅諭・法令などのようなもの、ただし法令は時により和習[日本人の漢詩文の独特な用法]を帯びるものが少なくない。
直訳体:これは明治にできた一種の文章で、つまり英文の直訳から始まったものである。文体から言えば「……デアル」、「……スベクアル」などの類いで、またこれから出た新熟語を挙げれば「名誉を犠牲にして」「世の風潮に巻き込まれて」などである。直訳体流の文体を用いる者は、多くが漢文も国文も知らない無学者連中であるとする。
新聞体:新聞の文章はもとより時と場所によって異なるけれども、他の文体にはまぎれない一種の特性があるのを見る。すなわちこの文体が今日最も普通のもので、解しやすくかつ広く行われるようである。
書簡体:維新前の体裁を伝えて今も変わらないものは書簡体である。けれどもこれもまた半分は変わって、新聞体を書簡体に和らげたようなものとなった。
言文一致流:言文一致の文章の作者に三種の区別がある。第一は、言文一致より他に文章を知らない者で、例えばおさんどん[下女]の手紙のようなものである。第二は、多少の学問がある者がことさらに言文一致体を作るもので、今のいわゆる言文一致流の小説家のようなものである。第三は、言語をそのまま筆記したもので、落語家・講談師の筆記物のようなものである。この中で嘱望すべきは第二種の作者であるけれども、これも時として第一種の作者に近いことがあり、また第三種の作者に劣る者が少なくない。ゆえに今日に言文一致ということは、一概に軽蔑される傾きを持っている。また言文一致には必ずしも言葉通りの文章ではなくて、直訳体などの混交したものが多い。

 この他に文学者が美文的に用いるものには、古体があり、今体があり、西鶴があり、馬琴があり、ぬえ[正体不明なもの]があり、折衷がある。実に千種万様であって、一々これを区別することはできないのである。
 
 次のように言う人がいる、「最近の文体は乱れている。今これを矯正しなければついに回復できないようになろう」と。この言はよいが、その標準を問うと漠として帰するところを知らない。そうしてこのような説をなす者の多くは、いわゆる国学者流である。国学者の言う所は「一理なきにあらず」であるけれども、言文一致家の言う所もまた一理ある。要するに各種の文体はみなそれぞれの長所があれば、すべからくその長所を利用して、あるいは優美に、あるいは繊細に、あるいは簡雅に、あるいは穠艶じょうえんに、もって他の文体の及ばない所を補益[補い益する]すべきである。あるいは各種の長所を取って一種の折衷の新体をつくるのも、もとより望ましい所である。必ずしも国学者流のように千年前の死文法を復活するには及ばない。おそらく文法は時代とともに推移する傾向を持つからである。必ずしも言文一致者流のように文章と言語とが一致するには及ばない。おそらく最も多数の者に理解される文章は、多くは最上の文学ではないからである。

結論

 三人寄れば、その時は「天下に名文章がないことが久しい」と言う。そうして久しいと言う理由を探れば、わずか2、3年のことに過ぎない。さらにその着眼の大きなものを求めても、なお明治20年あまりの日月を指すことにとどまるのである。いかに古来の文学隆盛の時代でも、いわゆる大詩人・大文章家・大小説家が20年に一人の割合で、一国のうちに生まれ出た例を聞かない。その昔に多く、今は少ないとする理由は、歴史上の星霜は百年がなお瞬間のようで、我々が経過する現在の光陰は一日がかつ千秋の思いがあることによらないことはないのである。それゆえ明治20年余りの間に一人の大文人がいないことはまた怪しむのに足りない。まして維新革命の後をけて、紛々ふんぷん擾々じょうじょうの間に10年余りを経過したのだから言うまでもない。見よ、詩人・文人の他に「大」の字をかむらせるべき学者・工芸家がいるかいなかを。
 
 大学者や大工芸家がいないにもかかわらず、明治の学術・工芸が明治以前の学術・工芸に優ることが万々であるように、明治の文学も明治以前の文学に優ることが遥かに数等の上にあるだろうか。その通りである。ある点においては数等を超えている。例えば小説について言うと、理想でもなく、写実でもないロマンスのような旧態の外に、理想を主とするもの、写実を主とするものなどの数種を生じたのは、著しい発達を証明するしるしであるとする。しかしながらこれは時勢に応じて論じるべきものであるので、今日のデモ小説家[名ばかりの小説家]が馬琴を誹って「彼は趣向に窮するごとに、神力妖術を借りてきて全篇を奇々怪々の間に結ぶという窮策を取った。私が彼の時に生まれたならば、新奇な小説を著して彼の名声を圧倒することは、手の裏を返すようなものだ」などと高言するのは以ての外もってのほかである。馬琴を今日に生まれさせたならば、彼はどのような筆力を振るって世上の群小の者を圧倒するか分からない。ましてある一点を除けばデモ小説家が馬琴に及ばないことが数十等であることは言うまでもない。
 
 古今の詩文の短所を概言すれば、昔の文学は文章のために趣向を束縛されたという傾向がある。故に文章が変化して趣向は変化しなかった。今の文学は趣向のために文章が束縛されるという傾向がある。故に趣向が変化して文章は変化しないようである。その両方の極端を論じれば、馬琴が椽大てんだいの筆を振るって[立派な大文章で]得意に書き去り書き来たる時は、彼の胸中にはただ妙辞・巧詞のみがあって、少しも趣向なるものがない時である。今の言文一致体論者流が精細な観察力で得意に書き去り書き来たる時は、彼の脳内はただ心理的な解析の苦慮のみがあって、少しも文章なるものがない時である。趣向と文章の軽重は容易に明言しがたいが、とにかく両者ともに完備しなければ完全な文学となすべきではないことから、この点から言えばいずれも多少の不備であることを免れないけれども、その不備である度合いを論じれば今の小説ほど不備なものはないだろうと思われる。あたかも訥弁な者が思い余ることがあって、言おうと思うとますます言葉がつかえるようなものである。
 
 明治以来、大文学を渇望する世間の読者が、この不備な文学の群集の中に一人の偉人を見出そうとして常に刮目しつつあるのは、「大旱たいかん雲霓うんげいを望む」ような有様である[日照りの時に雨の前兆である雲や虹を待ちこがれるように、一人の偉人の到来を切望している]。目があって鼻がない者、耳が一つで口が二つある者、高木の果実を採ろうとして採れないこびと、三尺の小川にあって飛び越そうとしてできない者、これらの障害疾病をすぐに去って鷦鷯さざい[ミソサザイ]とともに一枝に安んじるべきである。大空いっぱいに翼をひろげ、はげしいつむじ風に羽ばたいて、南方の大海を目指す大鵬と化して大文学者となる者は、今どこの僻地に潜伏しているのか知らない。[訳注:鷦鷯以下の記述は、『荘子』逍遥遊篇の表現を踏まえている]


(明治26年3月22、24、31日、4月1日、13日、17日、22日、24日、5月6日、8日、12日、21日、24日の「日本」に掲載)

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