上河内岳夫

明治文学を読んでいます。

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最近の記事

北村透谷「復讐・戦争・自殺」現代語訳

キリスト教普連土会系の日本平和会が、明治26年5月3日に発行した雑誌「平和」の12号に掲載された「復讐・戦争・自殺」の現代語訳である。無署名であるが「平和」の編集長である北村透谷の執筆によるものである。『透谷全集』の解題によれば、「無署名の巻頭論説。柱には社説とある。四つの文章なのを、相互に連続しているので、一つの仮題の下に一括する処置を採った」とある。この現代語訳では四つの文章に番号を付した。なお、この現代語訳の底本としては、勝本清一郎編『透谷全集 第二巻』(1974年改版

    • 北村透谷「厭世詩家と女性」現代語訳

      〇北村透谷が明治25年2月に『女学雑誌』に発表した評論「厭世詩家と女性」の現代語訳である。この評論はそれまで詩人としての活動が中心であった透谷による最初の本格的な評論であり、透谷の目覚ましい評論活動の出発点になったものである。 〇透谷が「厭世詩家と女性」を書くきっかけとなったのは、「非恋愛」をめぐる論争である。明治20年代において徳富蘇峰の『国民之友』と巌本善治の『女学雑誌』は、キリスト教系の二大雑誌であったが、その蘇峰と巌本の間で論争がもちあがった。  徳富蘇峰は明治24

      • 北村透谷 「各人心宮内の秘宮」現代語訳

        北村透谷が編集長をつとめていた反戦平和雑誌「平和」第6号(明治25年9月15日刊行)に、無署名の社説として公表した 「各人心宮内の秘宮」の現代語訳である。この評論は透谷が「平和」に発表したものの中で最も長文である。透谷の思想を知る上でも重要な著作で、内容的に「内部生命論」などと重なるところがある。この評論は長く埋もれていて、透谷の著作として広く知られるようになったのは、第二次大戦後のことである。 この評論の内容は、「平和」に掲載されたにもかかわらず、戦争にふれるところがない

        • 北村透谷「「平和」発行之辞」現代語訳

          キリスト教普連土会系の日本平和会が、明治25年3月15日に創刊した雑誌「平和」の第1号に掲載された「「平和」発行之辞」の現代語訳である。無署名であるが「平和」の編集長である北村透谷が執筆したものである。なお、フレンド会は内部の呼称であり、一般にはクエーカー教徒として知られている。透谷自身はクエーカー教徒ではないが、キリスト教宣教師の通訳および翻訳の仕事をしていたことからクエーカー教徒とのつながりがあり、日本平和会の創設に加わり、その文章力を買われて雑誌「平和」の編集長に抜擢さ

          綱島梁川「枕頭の記」現代語訳

          綱島梁川は「予が見神の実験」によって知られる明治時代を代表する宗教思想家である。「枕頭の記」は、彼自らの思想遍歴について述べた評論であり、明治39年6月に海老名弾正による雑誌「新人」(第7巻第6号)に発表され、その後若干の修正を加えて、『病閒録』の続編にあたる宗教的な評論集である『回光錄』(金尾文淵堂、明治40年4月刊)に収録された。 この現代語訳の底本としては、『綱島梁川集』(安倍能成編 、岩波文庫 、昭和2年9月刊)に所収のものを用いました。これは『回光錄』に収録された

          綱島梁川「枕頭の記」現代語訳

          綱島梁川「予が見神の実験」現代語訳

          明治時代を代表する宗教思想家である 綱島梁川の代表作である「予が見神の実験」の現代語訳である。この評論は明治38年7月に海老名弾正による雑誌「新人」(第6巻第7号)に、綱島栄一郎という本名で発表され、その後若干の修正を加えて、評論集『病閒録』(金尾文淵堂、明治38年9月刊)に収録された。 綱島梁川は、明治時代の著名な宗教思想家であるが、現在はほとんど知られていない。その思想的な背景をその生涯から概観しておこう。明治6年に岡山県の現在は高梁市になっている有漢村に生まれた梁川は

          綱島梁川「予が見神の実験」現代語訳

          北村透谷「蓬莱曲」現代語訳

          詩人 北村透谷の代表作である劇詩『蓬莱曲』の現代語訳である。この詩は明治24年5月2日に脱稿し、同29日に養真堂から出版された。発行者の丸山垣穂は透谷の実弟であり、自費出版である。 まず劇詩について見ておこう。坪内逍遥が「西洋詩に三派がある。抒情詩と叙事詩とドラマとなり」(『小説三派』)と書いているように、西洋文学が明治日本に紹介されたとき、劇あるいは戯曲はまだ詩の一分野とされ、科白は詩の言葉で書かれていた。このことは、能・歌舞伎など日本の劇においても、音楽に合わせて歌う要

          北村透谷「蓬莱曲」現代語訳

          松原岩五郎「最暗黒の東京」現代語訳

          松原岩五郎が、「国民新聞」に断続的に掲載した東京の下層民・貧民街の記事を整理し、さらに加筆・再構成して明治26年11月に民友社から刊行した『最暗黒の東京』の現代語訳である。 松原岩三郎は、慶応2年に島根県淀江町(現在の米子市)に生まれ、上京して苦学しながら小説家をめざし、明治23年に『好色三人男』を、24年に『かくし妻』『長者鑑』を出版して硯友社系の新進作家として一定の評価を得たものの、大きな成功を収めることはできなかった。明治25年秋にはジャーナリストに転じて徳富蘇峰の国

          松原岩五郎「最暗黒の東京」現代語訳

          高山樗牛「文明批評家としての文学者」現代語訳    

          高山樗牛が、「学士 高山林次郎」という本名で明治34年1月発行の雑誌「太陽」に発表し、同年6月に刊行された評論集『文芸評論』(博文館)に収録された「文明批評家としての文学者」の現代語訳である。   「文明批評家としての文学者」は、高山樗牛の思想がそれまでの日本主義から個人主義へと転換した最初の評論である。この思想的転換の背景には、ニーチェとの出会いという大きな出来事があった。高山樗牛は明治33年5月に文部省から審美学[現、美学]研究のため3年間のヨーロッパ留学を命じられ、大き

          高山樗牛「文明批評家としての文学者」現代語訳    

          正岡子規「文界八つあたり」現代語訳

          正岡子規が、明治26年3月から5月にかけて、「地風升」稿として新聞「日本」の「雑録」欄に断続的に13回にわたって連載した評論「文界八つあたり」の現代語訳である。後に『子規随筆 続編』(明治35年12月、吉川弘文館刊)にそのままの形で収録された。「文界八つあたり」は、正岡子規の「最初の本格的な文学評論というべきもの」(『子規全集 第14巻 評論日記』解題)である。 明治25年に新聞「日本」の記者となった子規は、当初、『獺祭書屋俳話』および同増補再版に収められることになる俳論・

          正岡子規「文界八つあたり」現代語訳

          北村透谷「今日の基督教文学」現代語訳

          北村透谷が、明治26年4月15日に刊行された「聖書之友雑誌」第64号に「すきや」の署名で発表した「今日の基督教文学」の現代語訳である。ここで「文学」は、狭義の文学である文芸の意味ではなく、それに思想・哲学や歴史を含めた広義の文学の意味で用いられている。この評論を発表した時に透谷は「聖書之友雑誌」の編集員の仕事をしていて、透谷の所得面の支えの一つになっていたと考えられる。いつから編集を担当するようになったかについては、明らかになっていないようであるが、同年10月末をもって免職に

          北村透谷「今日の基督教文学」現代語訳

          北村透谷「我牢獄」現代語訳

          北村透谷が、明治26年6月に脱蝉子の署名で「女学雑誌」に発表した「我牢獄」の現代語訳である。   勝本勝一郎編集による岩波版「透谷全集」では、「我牢獄」は「星夜」「宿魂録」の2作品とともに「小説」に分類されている。この短い作品をジャンル分けするのは難しく、「断想」あるいは「評論」(ドナルド・キーン『日本文学史』)に分類されることもある。これを小説ととらえるならば「一人称による独白体小説」ということになるだろうが、私たちが通常考える小説とは大きく異なっている。透谷研究の第一人者

          北村透谷「我牢獄」現代語訳

          魚住折蘆「自然主義は窮せしや」現代語訳

          「自然主義は窮せしや」は、文芸評論家の魚住折蘆が、明治43年6月3、4日に「東京朝日新聞」の文芸欄に発表した評論である。 魚住折蘆は、明治16年に兵庫県に生まれ、第一高等学校を経て39年に東京帝国大学文科大学に入学し、ケーベル先生に師事して哲学を学んだ。大学卒業後は大学院に進んで文明史の研究者を目指すとともに、夏目漱石の影響が強かった朝日新聞の文芸欄に、本稿の他に「自己主張の思想としての自然主義」(同8月)、「穏健なる自由思想家」(同10月)などを発表して、新進の文芸評論家

          魚住折蘆「自然主義は窮せしや」現代語訳

          魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」現代語訳

          「自己主張の思想としての自然主義」は、文芸評論家の魚住折蘆が、明治43年8月22、23日に「東京朝日新聞」の文芸欄に発表した評論である。従来の「現実をありのままの姿で眺めようとするもの」という自然主義観に対して、自然主義を「国家・社会・家庭などのオーソリティ(権威)に対抗するもの」ととらえて注目された。この評論は石川啄木に「時代閉塞の現状」を執筆させる直接のきっかけとなったことで知られている。 魚住折蘆は、明治16年に兵庫県に生まれ、第一高等学校を経て、39年に東京帝国大学

          魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」現代語訳

          与謝野鉄幹「亡国の音」現代語訳

          「亡国の音」は、明治27年5月に、日刊紙「二六新報」に連載された与謝野鉄幹による歌論である。「亡国の音」とは「国をほろぼすような詩歌」という意味で、鉄幹はこのような激しい言葉をもって保守的な御歌所派を批判し、短歌の革新を唱えたのである。 明治の新時代に短歌の革新を最初に唱えたのは、東京大学で学んだ新世代の国学者である落合直文であり、明治26年に短歌の革新のための短歌結社「浅香社」を創立した。しかし直文自身は旧派の短歌に対して融和的であり、より批判的な立場をとったのは、彼の実

          与謝野鉄幹「亡国の音」現代語訳

          仮名垣魯文「安愚楽鍋」現代語訳

          明治4~5年に5分冊として誠至堂から刊行された仮名垣魯文の代表作『安愚楽鍋』の現代語訳である。 幕末から活動していた戯作者の中で、明治の新時代にいち早く対応したのが仮名垣魯文であった。明治3年に『西洋道中膝栗毛』の刊行を初め、明治9年に全15編30冊として完成させた。ただし、第12編以降は友人の総生寛に譲る形であるが。この作品は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をもとに、弥次郎兵衛と喜多八の孫がロンドン万博に出かけると言う設定で、福沢諭吉の著書や旅行者からの聞き取りに基づいて書

          仮名垣魯文「安愚楽鍋」現代語訳