上河内岳夫

上河内岳夫

最近の記事

北村透谷「蓬莱曲」現代語訳

詩人 北村透谷の代表作である劇詩『蓬莱曲』の現代語訳である。この詩は明治24年5月2日に脱稿し、同29日に養真堂から出版された。発行者の丸山垣穂は透谷の実弟であり、自費出版である。 まず劇詩について見ておこう。坪内逍遥が「西洋詩に三派がある。抒情詩と叙事詩とドラマとなり」(『小説三派』)と書いているように、西洋文学が明治日本に紹介されたとき、劇あるいは戯曲はまだ詩の一分野とされ、科白は詩の言葉で書かれていた。このことは、能・歌舞伎など日本の劇においても、音楽に合わせて歌う要

    • 松原岩五郎「最暗黒の東京」現代語訳

      松原岩五郎が、「国民新聞」に断続的に掲載した東京の下層民・貧民街の記事を整理し、さらに加筆・再構成して明治26年11月に民友社から刊行した『最暗黒の東京』の現代語訳である。 松原岩三郎は、慶応2年に島根県淀江町(現在の米子市)に生まれ、上京して苦学しながら小説家をめざし、明治23年に『好色三人男』を、24年に『かくし妻』『長者鑑』を出版して硯友社系の新進作家として一定の評価を得たものの、大きな成功を収めることはできなかった。明治25年秋にはジャーナリストに転じて徳富蘇峰の国

      • 高山樗牛「文明批評家としての文学者」現代語訳    

        高山樗牛が、「学士 高山林次郎」という本名で明治34年1月発行の雑誌「太陽」に発表し、同年6月に刊行された評論集『文芸評論』(博文館)に収録された「文明批評家としての文学者」の現代語訳である。 「文明批評家としての文学者」は、高山樗牛の思想がそれまでの日本主義から個人主義へと転換した最初の評論である。この思想的転換の背景には、ニーチェとの出会いという大きな出来事があった。高山樗牛は明治33年5月に文部省から審美学[現、美学]研究のため3年間のヨーロッパ留学を命じられ、大き

        • 正岡子規「文界八つあたり」現代語訳

          正岡子規が、明治26年3月から5月にかけて、「地風升」稿として新聞「日本」の「雑録」欄に断続的に13回にわたって連載した評論「文界八つあたり」の現代語訳である。後に『子規随筆 続編』(明治35年12月、吉川弘文館刊)にそのままの形で収録された。「文界八つあたり」は、正岡子規の「最初の本格的な文学評論というべきもの」(『子規全集 第14巻 評論日記』解題)である。 明治25年に新聞「日本」の記者となった子規は、当初、『獺祭書屋俳話』および同増補再版に収められることになる俳論・

        北村透谷「蓬莱曲」現代語訳

          北村透谷「今日の基督教文学」現代語訳

          北村透谷が、明治26年4月15日に刊行された「聖書之友雑誌」第64号に「すきや」の署名で発表した「今日の基督教文学」の現代語訳である。ここで「文学」は、狭義の文学である文芸の意味ではなく、それに思想・哲学や歴史を含めた広義の文学の意味で用いられている。この評論を発表した時に透谷は「聖書之友雑誌」の編集員の仕事をしていて、透谷の所得面の支えの一つになっていたと考えられる。いつから編集を担当するようになったかについては、明らかになっていないようであるが、同年10月末をもって免職に

          北村透谷「今日の基督教文学」現代語訳

          北村透谷「我牢獄」現代語訳

          北村透谷が、明治26年6月に脱蝉子の署名で「女学雑誌」に発表した「我牢獄」の現代語訳である。 勝本勝一郎編集による岩波版「透谷全集」では、「我牢獄」は「星夜」「宿魂録」の2作品とともに「小説」に分類されている。この短い作品をジャンル分けするのは難しく、「断想」あるいは「評論」(ドナルド・キーン『日本文学史』)に分類されることもある。これを小説ととらえるならば「一人称による独白体小説」ということになるだろうが、私たちが通常考える小説とは大きく異なっている。透谷研究の第一人者

          北村透谷「我牢獄」現代語訳

          魚住折蘆「自然主義は窮せしや」現代語訳

          「自然主義は窮せしや」は、文芸評論家の魚住折蘆が、明治43年6月3、4日に「東京朝日新聞」の文芸欄に発表した評論である。 魚住折蘆は、明治16年に兵庫県に生まれ、第一高等学校を経て39年に東京帝国大学文科大学に入学し、ケーベル先生に師事して哲学を学んだ。大学卒業後は大学院に進んで文明史の研究者を目指すとともに、夏目漱石の影響が強かった朝日新聞の文芸欄に、本稿の他に「自己主張の思想としての自然主義」(同8月)、「穏健なる自由思想家」(同10月)などを発表して、新進の文芸評論家

          魚住折蘆「自然主義は窮せしや」現代語訳

          魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」現代語訳

          「自己主張の思想としての自然主義」は、文芸評論家の魚住折蘆が、明治43年8月22、23日に「東京朝日新聞」の文芸欄に発表した評論である。従来の「現実をありのままの姿で眺めようとするもの」という自然主義観に対して、自然主義を「国家・社会・家庭などのオーソリティ(権威)に対抗するもの」ととらえて注目された。この評論は石川啄木に「時代閉塞の現状」を執筆させる直接のきっかけとなったことで知られている。 魚住折蘆は、明治16年に兵庫県に生まれ、第一高等学校を経て、39年に東京帝国大学

          魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」現代語訳

          与謝野鉄幹「亡国の音」現代語訳

          「亡国の音」は、明治27年5月に、日刊紙「二六新報」に連載された与謝野鉄幹による歌論である。「亡国の音」とは「国をほろぼすような詩歌」という意味で、鉄幹はこのような激しい言葉をもって保守的な御歌所派を批判し、短歌の革新を唱えたのである。 明治の新時代に短歌の革新を最初に唱えたのは、東京大学で学んだ新世代の国学者である落合直文であり、明治26年に短歌の革新のための短歌結社「浅香社」を創立した。しかし直文自身は旧派の短歌に対して融和的であり、より批判的な立場をとったのは、彼の実

          与謝野鉄幹「亡国の音」現代語訳

          仮名垣魯文「安愚楽鍋」現代語訳

          明治4~5年に5分冊として誠至堂から刊行された仮名垣魯文の代表作『安愚楽鍋』の現代語訳である。 幕末から活動していた戯作者の中で、明治の新時代にいち早く対応したのが仮名垣魯文であった。明治3年に『西洋道中膝栗毛』の刊行を初め、明治9年に全15編30冊として完成させた。ただし、第12編以降は友人の総生寛に譲る形であるが。この作品は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』をもとに、弥次郎兵衛と喜多八の孫がロンドン万博に出かけると言う設定で、福沢諭吉の著書や旅行者からの聞き取りに基づいて書

          仮名垣魯文「安愚楽鍋」現代語訳

          島村抱月「囚はれたる文芸」現代語訳

           島村抱月が、明治39年1月に『早稲田文学』(第2次)の第1号に掲載した長編評論『囚はれたる文芸』の現代語訳である。  この評論が書かれた背景について見ておこう。大学への昇格を目前にしていた東京専門学校は、帝国大学に対抗して海外留学を進めることとなり、その海外留学生の一人として選ばれたのが、坪内逍遥の愛弟子であり東京専門学校の講師であった島村抱月であった。逍遥からは「ヨーロッパを広く見聞するように」と言われて送り出された抱月は、32歳の明治35年3月に東京を発ち、38年9月

          島村抱月「囚はれたる文芸」現代語訳

          陸羯南「近時政論考」現代語訳

          陸羯南(本名は陸実)が、明治24年6月に刊行した主著『近時政論考』の中から、その主論文である「近時政論考」を現代語訳したものである。『近時政論考』は、新聞『日本』に掲載した社説をとりまとめたもので、「近時政論考」のほかには「近時政論考補遺 自由主義如何」と「近時政論考附録 近時憲法考」の2編が収められている。 「近時政論考」が書かれたのは、明治22年に大日本帝国憲法が公布され、翌23年の7月には第1回衆議院議員総選挙が実施され、11月に憲法の施行と同時に、第1回帝国議会が

          陸羯南「近時政論考」現代語訳

          二葉亭四迷「小説総論」現代語訳

          二葉亭四迷が、明治19年4月に刊行された「中央学術雑誌」に冷々亭主人杏雨の名前で発表した「小説総論」の現代語訳である。当時四迷は23歳であり、最初に発表された文学論であった。「小説総論」は単独の評論ではなく、坪内逍遙の『当世書生気質』に関する連作評論の序論として位置づけられていた。こうしたこともあって発表当初はほとんど注目されなかったが、昭和3年に『明治文化全集』(日本評論社刊行)に収録されたことによって、その存在が広く知られることになった。現在では、「小説総論」は本格的な写

          二葉亭四迷「小説総論」現代語訳

          大西祝「批評論」現代語訳

          大西祝が、明治21年5月に『国民之友』に発表した「批評論」の現代語訳である。大西祝は、当時まだ23歳の東京大学の学生であり、「批評論」は一般向けの雑誌に発表した初めての評論といえるものであった。 大西祝の専門は哲学であるが、詩歌を初め文芸への造詣が深く文芸評論の分野でも多くの仕事を残している。後に早稲田大学文学部の草創期を坪内逍遙とともに支え、その門下から島村抱月、綱島梁川など早稲田文学派とも言われる多くの文芸評論家を輩出した。 島崎藤村の自伝的な小説『桜の実の熟する時』

          大西祝「批評論」現代語訳

          北村透谷「他界に対する観念」現代語訳

          北村透谷の代表的な詩論の一つである「他界に対する観念」の現代語訳である。この評論は、明治25年10月に徳富蘇峰の『国民之友』の169、170号に掲載された。劇作は、透谷が最も力を入れていたジャンルで、明治24年に、劇詩『蓬莱曲』を刊行しており、この詩論はその経験を踏まえて書かれたものである。 この詩論を読む上で、劇の位置づけが今日とは大きく異なることに注意する必要がある。当時はまだ劇は詩の一分野と見なされていた、換言すると劇詩として詩の言葉で台詞が書かれるのが普通であった。

          北村透谷「他界に対する観念」現代語訳

          徳冨蘆花「謀叛論」現代語訳

          「謀叛論」は、明治44年2月1日に、徳冨蘆花が第一高等学校の弁論部新旧委員更替記念特別講演会で行った講演の草稿である。この講演会の直前の1月末に、大逆罪によって幸徳秋水ら12名の死刑が執行されるという状況の下、講演の内容は政府に厳しい批判を浴びせるものとなった。 まず、大逆事件について見ておこう。戦前の刑法には、天皇・皇后・皇太子など皇族に対し危害を加える罪として「大逆罪」が規定されていた。大逆事件は、明治天皇暗殺計画の発覚に伴う社会主義者の弾圧事件である。その経過は、「社

          徳冨蘆花「謀叛論」現代語訳