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綱島梁川「予が見神の実験」現代語訳

明治時代を代表する宗教思想家である 綱島つなしまりょうせんの代表作である「予が見神の実験」の現代語訳である。この評論は明治38年7月に海老名弾正による雑誌「新人」(第6巻第7号)に、綱島栄一郎という本名で発表され、その後若干の修正を加えて、評論集『びょう閒録かんろく』(金尾文淵堂、明治38年9月刊)に収録された。

綱島梁川は、明治時代の著名な宗教思想家であるが、現在はほとんど知られていない。その思想的な背景をその生涯から概観しておこう。明治6年に岡山県の現在は高梁市になっている有漢村に生まれた梁川は、明治19年に父を失い、翌年に高梁教会で洗礼を受けている。25年に上京して東京専門学校(現早稲田大学)に入学、同窓には金子筑水、島村抱月などがいた。在学中は坪内逍遙宅に寄寓して「早稲田文学」の編集を手伝い、大西祝からは倫理学・哲学を学び大きな影響を受けた。哲学を学ぶに従い、キリスト教の信仰からは離れた。

明治28年に卒業するが、その年に突然肺結核のため喀血し、その入院中に再びキリスト教に接近し、特に海老名弾正の影響を受けた。その後は療養を続けながら「早稲田文学」などに文芸評論や美術評論を執筆するとともに、倫理学者としても活動した。しかしながら喀血は繰り返されて32年以降は病床から離れることができなくなった。そのころには親鸞や白隠禅師の著書を耽読するなど、仏教の影響も受けた。病の進行とともに宗教的な思索を深め、次第に神秘主義的な宗教観に基づく随想を多数発表するようになった。

綱島梁川は著名な宗教思想家として、安倍能成・魚住折蘆・石川啄木が訪問するなど、当時の知識青年層に大きな影響を与えたことが知られている。明治37年に3回にわたる「見神」を体験し、その内容をまとめたのが「予が見神の実験」である。発表とともに大きな注目を集め、賛否を巡って一大論争が展開された。大町桂月は「これは胸部病の重症患者が虚脱状態において惹起するところの幻覚・錯覚である」と批評し、科学者からも厳しい批判がなされた。その一方で青年層からは支持がよせられ、一部の人からは聖者のような取り扱いを受けた。青年層の支持の背景として日露戦争の前後の不安な社会情勢が大きく影響したと指摘されている。綱島梁川はその後、明治40年9月に亡くなった。

この現代語訳の底本としては、『現代日本文学大系 96 文芸評論集』(筑摩書房、昭和48年7月刊)に所収のものを用いました。これは『病閒録』に収録された版に基づくものです。あわせて『日本近代文学大系 57 近代評論集Ⅰ』(角川書店、昭和47年7月刊)に所収の「新人」に基づく版を参照し、中村完氏による詳細な注釈から多くを学びました。注釈の一部を現代語訳に利用させていただいたことを明らかにして、深く感謝を表します。

現代語訳「予が見神の実験」

ー 私の見神の実体験 ー

 綱島梁川 著、 上河内岳夫 現代語訳

この篇は世の中の宗教的な経験が深い人に示そうというためではなく、ただ心まことに神を求めて宗教的な生活に入ろうとする世の中の多くの友に薦めようとしたものである。

 私は今、私自らの見神の実体験について語る所があろうとしている。このことは、私には多少心苦しくないことはない。けれども、私は今、世の中の常の自らへの配慮や、心遣いを一切うち捨てて、できるだけ忠実に、明確に、私が見た所を語らなくてはやめがたい一つの使命を持っていると感じている。必ずしも自己の見証[見神体験]を世間に吹聴しようというのではなく、ただ私のような鈍根どんこん劣器れっき[才能の劣った者]でも、なおかつこの稀有の心証にあずかることができたうれしさ、かたじけなさを抑えることができないこと、それに加えて世の中の心まことに神に憧れていてまだその声を聴かない者、人知れず心の悩みに泣く者・迷える者・もだえ苦しむ者、一言で言うとすべて人生問題につまずき傷ついて惨痛の涙を味わう者、およそこれらの同じ思いをしている友に、私が見ることができた所をさながらに分かち伝えるために語ろうとするのである。ああ、天帝にもご覧頂いて、私は今この一つの尊いおとずれ[自らの見神]を世の中にべるために、ここに立っているのである。

 わが見証をさながらに世の中に伝えようということは、もともと至難である。ああ、私は一たび神を見てから、もったいなくもこの一大事とその由来を世の中に宣べ伝えようと願う心だけが、日ごとに強くなっていって、しかもどのようにして、これを宣べ伝えるべきかという手段になると、ぼんやりとして欠けていた。どのようにしてこの目的を達成すべきだろうか。顧みると、わが見証の意識が超絶・駭絶がいぜつ[通常からかけ離れた驚くべきこと]にして幽玄深奥であることは、とても思考や言説の加えるべきものはないようである。人の世の言葉や思想は、その神秘的・具象的な事柄の様相の万に一つをさえ彷彿とさせがたいというおもむきがあるのではないか。私はこのことを思って、いくたびか躊躇し、いくたびか気落ちした。そうして昔の人が自己の見証について語る所が、いつもいたずらに人を五里霧中に彷徨させるという感がある理由を今にして知ったのである。彼らが心血をしぼり尽くしてその見証の内容を説くと、時として煌々こうこうとした日星じっせいの大文章[気宇壮大な勢いがある文章]を書くことがあるが、しかもその言葉がいよいよ煩雑で、指す方向がいよいよ天上の月を離れるような観があるのはどうしてだろうか。彼らが悟りを説くと、どうしても城見物の案内者が、人を導いて城の外濠と内濠だけを果てしなく回り回って、ついにその本丸に至らずに終わるという趣があるのである。昔の人にしてそうであり、今所証[自分自身の体験]が浅い私が悟りを説こうとすると、説く所があるいはその一膜を剥ぎ、さらにその一膜を剥ぎ、こうして永久に人をその核心に到達しないようにさせることを恐れるのである。それならば私は、しまいにはこの一事を放棄しなければならないだろうか。いな、否。神は枯れ果てようとする私の残りの人生に意味があるようにと、特にこの所証を私に付与されたのではないだろうか。この所証を幾分でも世の中に宣べ伝えることは、私の貴重な一分の使命のある所ではないだろうか。実際、悟りといい見証というものは、しょせんは言説で伝えることができる限りではないだろう。そうではあるが、わが満心の自覚を一揮いっきょ直抒ちょくじょの筆に付して[筆を振るって一気に書き述べて]、なおよくその駭絶の意識の、青黒い光の穂先だけでも伝えることはできないだろうか。そのかすかな香りだけでも、ほのめかすことはできないだろうか。可能であるか不可能であるかは、すべて神にある。私はただ自ら見ることができた所を、如実に語り出すべきなのである。

  神の「現前」もしくは「内住」もしくは自我の「高挙」、「光耀こうよう」などの意識については、事に触れ境に接して、私がこれまでもしばしば自ら経験した所であったが、しかもそれが不磨の記憶となってながく後に残るほどの奕々えきえきたる[光り輝くような]触発の場合は、ほとんどなかったのである。そのこのようなことがあったのは、昨年、明治37年の夏以後のことである。今後は分からないが、昨一年は私の宗教的な生活史における、言わば光耀時代・啓示時代であったとも見ることができて、私は実に昨一年間に、不思議なことにたびまでも、これまでに経験したことがないやや手応えのある一種稀有な光明に接したのである。そうしてその最後のものを最も驚絶・駭絶であるとする。

  最初の経験は、昨年[37年]7月某日の夜半(日付は忘れた)において起こった。私は病[肺結核]に余儀なくされて、毎夜半およそ一時間ほど、寝床の上で静かに座っている習いであった。その夜もいつもの頃に目覚めて、寝床の上に座ったままじっとしていた。四壁沈々[周囲は静まりかえって]、澄み徹った星夜の空のように、わが心は一念のかげりもつけず、冴えに冴えた。その時に、優れておぼろな、言わば帰依の酔い心地ともいうべき歓喜がひそかに心の奥に溢れ出して、やがておもむろに全意識を占めた。この玲瓏れいろうとして充実した一種の意識、この現世うつしよの歓喜と並外れて静かで淋しくしかも孤独ではない無類の歓喜が、およそ時間にして15分ほども打ち続いたと思われたころ、ほのかに消えた。(『病閒録』所収の「宗教上の光耀」と題する一篇の中で、感情的な光耀について記した一節は、この折の経験に基づいて書いたものである。私は従来でも多少これに類した経験を持たなかったわけではなかったが、この夜のように純粋で充実したことはなかった。)私はいまだに、この夜にあった経験の深いこころを測り尽くし、たどり尽くすことはできない。今もなお折々にその当夜の心の状態をおぼろに想起しては、天上の生活の面影をしばし地上でしのぶという感があるのである。

 今一つは昨年9月末の出来事につながっている。私は久しぶりに、わが家から程遠くない銭湯に出かけようとして、家人に助けられて門を出た。折しも晴れ渡った秋空の下、町外れのこんもりとした林の連なりが、遠く夕陽を帯びていた。私はこの景色をうち眺めて何となく心が躍ったが、この刹那に忽然として、「私は天地の神とともに、同時に、この森然とした眼前の景色を見た」という一種の意識に打たれたのである。ただこの一刹那の意識は、しかも自ら顧みると、それは決して空華くうげ幻影げんえい[実体のないものを実体と見るまぼろし]の類いではない。鏗然こうぜんとして[かん高い音が出るようにはっきりとしていて]理智を絶した新しい啓示として直覚されたのである。私は今なおその折を回想して、「私は神とともに見た」というその刹那の意識を批評してしまうことができない。

  終わりに語ろうとするものは、これは先に驚絶・駭絶の経験と言ったもので、これまで私が神の現前について経験したもののうち、これほど新鮮・赫奕かくえき・鋭利・沈痛なものはないと思われるほどのものである。私は今なおこれを心上に反覆・再現することができるだけではなく、ますますその超越的な偉大さに驚き、ますますそれが不動の真理であることを確かめつつある。以下に掲げるのは、当時の光景を略述して、ある友に書き送った書簡の大旨である。 

 藪から棒ですが、いつぞやお話いたしました小生のあの夜の実体験以来、驚きと喜びとの余勢、すなわち一種のインスピレーションのようなものが存続いたしまして、体にも多少の影響が出ないわけにはいきませんでした。

 のことがあって以後は、神に対する愛慕がひとしお強くなりました。どうすればこの自覚を他人に伝えることができるかが、このごろの唯一の問題です。一面にはこの自覚を人に知られたいとの要求もありますが、他の一面には、さらに真面目に、厳粛に、世の中のまだこの自覚に達していない、または達しようとして悩みつつある多くの友に対する同情を催起さいきしています。このことによって、小生は幾分か釈迦の大悲や、キリストの大愛を味わうことができた感があります。
 
 本年のうちに、小生はこれとあわせて三たびほど心が触発される機会を得ました。他の二つの場合(前に述べたものを指す)も、今思い出してさえ、心が躍らされる一種の光明・慰藉いしゃでありますが、先日お話しました実体験は、最も神秘的でまた最も明瞭であり、インテンス[intense、強烈]なものでありました。貴君よ、この特絶無類とも言うべき一種の自覚のこころを、誰とともに語るべきでしょうか。実に彼の夜は物静かな夜でありました。一灯の下で、小生は筆を取って何事かを書いていた折のことであります。どのような心の弾みであったのでしょうか、ただ忽然はっと思うと、やがて今までの自分が、自分でない自分になり、筆が動くそのまま、墨の紙上に声がするそのまま、すべてが一つ一つ超絶的な不思議となって眼前に輝きました。この間はわずかに時間にして何分というほどに過ぎないと感じますが、しかもこの短時間における、言わば無限の深い寂しさの奧底から堂々と現前する大いなる霊的な活物と、はたと行き会ったような一種の ショッキングすなわち錯愕さっがく[驚きあわてること]・驚喜の意識は、とうてい筆舌に尽くすことができるものではありません。ただ貴兄の直覚に訴えてご推察を請う他はなく、今はその万に一つをさえ彷彿とすることはできません。
 
 貴兄よ、どのように思われるでしょうか。小生のように一面ではすいぶん批評的・学究的な精神を持つ者に、このような東洋的・中世紀的とも言うべき神秘的な実体験があるだろうとは、いかにもあり得ないような不思議なことと思われないでしょうか。小生自身にも、その後両三日の間は、何だか狐にでもつままれたような心地がいたしましたが、日がたつにしたがって、先に述べた自覚はますます明瞭・確実となり、その驚絶な事実は、不壊ふえ金剛こんごう[きわめて堅固でこわれない]の真理となって光明を放つようになりました。今日はもはや一点も動かすことができない、疑うことができない心霊上の事実となり、力となりました。 (以下は省略)

 これは実に昨11月の某夜、11時ごろに起こった出来事である。私はこの実体験については、もはや言う所はないであろう。それはどんなに巧みな文章の言葉を使っても、もはやここに書き記した以上のことを説き明かすことができるとは思われないからである。真理は簡明である。真理をして真理自らを語らしめよ。言葉による説明が面倒なことは、真理にはわずらわしいことである。

 それはそうだが、私は前に述べた見神の意識について、今一つ言説すべきものがあると感じている。それは他でもない、私が先に「自分が、自分ではない自分となった」といい、「霊的な活物とはたと行き会った」といったような言葉が、なおやや粗雑(ルーズ)な用法ではないかとの疑いが、読者にあるのではないかとも思ったからである。そこで私に今一度最も厳密に前に述べた意識を言い表させるならば、「今まで現実の自分として筆を執りつつあった自分が、はっと思う刹那にたちまち天地の奥の実在となったという意識、自分は没して神自らが現に筆を執りつつあると感じた意識」とも言うべきか。これが私が超絶・驚絶・駭絶の事実として意識した刹那の最も厳密な表現である。私は今、これ以上、また以外にこの刹那における見証の意識を描く方法を知らないのである。私はこのように神を見た、このように神に会った。いな、「見た」といい「会った」という言葉は、なお皮相的・外面的で、とてもこの刹那の意識を描き尽くすのに十分ではない。それは神と自分との融会ゆうかいであり、合一である。その刹那において私自らは、ほとんど神の実在に融け合ったのである。「自分すなわち神」となったのである。私はこの驚絶・駭絶の意識を、直接に端的に神から得て、一糸いっし一毫いちごうさえも前人の証権しょうけん[人を信仰させる権威や典拠]を媒介とし、もしくはその意識に頼った所がないことに感謝する。(彼らの間接の感化は言わない。)

 顧みると、私の従前の宗教的な信仰というものは、自得自証から来たものは少なく、キリストやその他の先覚者[釈迦やマホメット]の人格を信じ、もしくは彼らの偉大な意識を証権として、それによりそっておぼろげに形作ったものが、その多くであったのである。半ばは他人の声に和し、他人の意識を踏襲して、神をも見たと感じ、神の愛をも知ったと許したのである。すなわち間接に他人から動かされる所が、その多くであったのである。後に深く内部の生活に沈潜するに及んでは、前人の証権を一切投げ捨ててしまって、自ら独立にわが至情の要求に神の声を聴こうとした。わがもとめは空しくなかった。私は私の深い至情の宮居[至純の感情に満たされた心の奧]に「わが神がいましぬ」と感じて、幾たびかその光明に心が躍った。私が見た神は、もはや先の因襲的な偶像、または抽象的な理想ではなかったのである。けれどもこのように端的に見たと感じたわが神は、なお一重の薄紗はくしゃを隔てたような感がなかったか、水に映った花のような朧のこころを着けなかったか。私は過去の幼稚な朧げな経験を、すべて虚である、誤りである、または無意義であるとするものではない。私は過去の一切の経験を尊ぶ。それらはみな、その折々の機根[宗教的な能力]に相応して神を見た真実・無妄むもうの経験として、わが宗教生活史の一鎖一環をなすものではないのか。感謝せよ、これはみな天帝の賜物たまものであることを。ただ、私は従来の一切の経験をもって、わが不動の信念の基礎とするには、なおそれでもやはり一点の亀裂があることを感じざるを得なかったのである。私の従来の見神の経験というものは、言わば、春の夜のあやなき闇に、どことも言えない一脈の梅の香をたどり得たことにも例えられる。確かにそれとはっきりしているけれど、なおほのかであり微かであった。そうして今はそうではない。わが天地の神は、白日はくじつ瞳々とうとう驚心きょうしん駭魄がいはくの事実として、すぐ眼前に現前したのである。何という祝福だろうか、末代下根の私たちが、この稀有で微妙な心証をなして、無量ののりの喜びにあずかることができるとは。

 そもそも「見」と「信」と「行」とは、私たちの宗教生活における三大要義である。三者は力を出し合い、助け合って、その価値に高低は認められない。だだ私は、私自らの所証に基づいて、「見」の一義に従来の習慣的な見方以上の重要な意義を付したいのである。人はややもすれば「見」と「信」とを対比させて「信」の一義に宗教上は千鈞せんきんの重み[非常な重さ]をおくことが常であり、そうして「見」の一義になるとこれを説く者は稀である。ましてその光輝ある意義を鮮明にする者は、なおさら稀である。けれども私は信じる、偉大な信念の根底には、常に偉大な見神があることを。真に神を見ずに、真に神を信じる者はいない。キリストの信は、常に心の奥底に神を見、神の声を聞くことから来たものである。パウロの信は、そのダマスコの町への途上で驚絶な天光に接したことから湧き出したものである。仏陀の菩提樹の下の見証や、マホメットのハルラ山洞の光耀は、今はひとつひとつわずらわしく挙証しないが、真の見神が偉大な信念の根底であり、また根底であるべきことは火を見るよりも明らかである。「見」のない信念は、盲信となり、頑信となり、他律的な信となって、外は堅いようでも内は自分を信頼する所がないという感を生じるだろう。私たちが「神を信じる」と言って、なお自らを顧みてどことなくその信念が充実しないのを感じることがあるのは、これはまだおもてあいせっして神を見ることがないためではないのか。「見ずして信じる者は幸いである」、「信仰はいまだ見ざる所を望んで疑わず」などという古言もあるけれども、これはまだ真理の両端を尽くしたものとは言うことができない。「見ざる所を信じる信をして、信たらしめるもの」は、すなわち既に幾分か見た所があるものを根底とするからではないのか。もちろん詮議を厳密にして言えば、見は究極的には信に帰着するだろう。「信」の尖鋭で照着なものは、すなわち「見」であるとも言えるだろう。けれども、ここではただ普通に言う信の一義をとって言説するのである。そうであるから私はまさに言おう、「見ずに信じる者は幸せである、けれども見て信じる者はさらに幸せである」と。そうしてここで言う「見る」の意義が、あのキリストの一弟子[十二使徒のトマス]が、手で再生したキリストの肉体に触れて、そうして初めて「彼を見た」とするような感覚的に浅薄な意味ではないことは、言うまでもないのである。そもそも真に神を見て信じる者の信念は、宇宙の中心から伸び出して、広大無辺な宇宙を覆う人生の大樹であるのか。生命いのちの枝葉が永遠に繁り栄えて、劫火ごうかもこれを焼くことができず、劫風ごうふうもこれを倒すことができない。

 私はわが見神の実体験が、あるいは無根拠な迷信ではないかと疑って、このことがあった後に、しばしばこれを理性の法廷に訴えて、その厳正で仮借のない批評を求めた。そうして私は、理性がこれに対して究極の是認以外に何にも言葉をさしはさむことができないのを見た。私はまたこの実体験が、その折の私の脳細胞の偶然の空華くうげではなかったかとも危ぶんで、虚心にしばしばこれを心上に再現して、前から、後ろから、上下左右、漏らす所なく、その本体を正視・透視した。そうしてその事実が、ついに巋然きぜんとして[一つだけ高くそびえ立つように]宇宙の根底から来たことを確かめた。けれども、私はなおこの実体験の事実が、万が一にも誇大で自らを欺いたものではないかをおそれて、その後も幾度となくこれを想起・再現し、務めて第三者の平静な心を持って、仔細に点検したが、しかもこれを思い出すごとに、私はますますそれが驚くべき事実であることのみを見るのであった。それは到底如実には言い表しがたい稀有で無類な意識である。今やいよいよ一点の疑いをも入れがたい真の事実とはなった。ただ私は、私の今日の力量では、この実体験の意義・価値がどれほどであるかを計り知ることができないだけである。真理の体察[身をもって考察すること]は、どうして容易であろうか。私はただいわゆる「悟後の修行」[悟りの後に悟りを保つための修行]に一念向上するだけである。

 ああ、私が見た所、感じた所は、すべてこの通りである。あるいはあまりに自己を説くことに急な点もあっただろう。あるいは文章がやや煩雑で、意義が明瞭ではない点もあっただろう。いずれもが私の筆の至らない所と諒承していただきたい。私は今なおこのことの表現に心を砕きつつあるのである。ただ私はこのように神を見、そうしてこれからさらに進んで、天地の間の何物をもってしても換えがたい光栄無上な「私は神の子である」という意識が、鬱勃うつぼつとして心の奥底から湧き出すことを覚えたのである。私は宇宙の間における私の真の地位を自覚した。私は神ではなく、また大自然の一波一浪[ささやかな現れ]である人でもなく、私は「神の子」である。天地人生の経営にあずかる神の子である。何という高貴な自覚であろうか。この一つの自覚の中に、救いも、解脱も、光明も、平安も、活動も、ないし一切の人生的な意義の総合があるのではないか。ああ、私は神の子である。神の子らしく、神の子としてふさわしく生きなければならない。こうして新たな義務の天地が、私の前に開けたことを感じたのである。けれども顧みると、私は敗残の生、枯れ果てた体で、一歩も歩みを屋外に移すことができない境遇にあって、何をなすことができようか。私は一たびはこの矛盾に泣いた。そうしてやがて「世の中にある限り汝の最善を尽くすべきである。神を見た者はついに死なない」という強い心証の声を聞いた。新たな力が心の奥底から充実して来た。そもそも私が見た神は、常に私とともにあって、その見えざる手を常に打ち添えてくださるのではないか。


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