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北村透谷 「各人心宮内の秘宮」現代語訳

北村透谷が編集長をつとめていた反戦平和雑誌「平和」第6号(明治25年9月15日刊行)に、無署名の社説として公表した 「各人しんきゅう内のきゅう」の現代語訳である。この評論は透谷が「平和」に発表したものの中で最も長文である。透谷の思想を知る上でも重要な著作で、内容的に「内部生命論」などと重なるところがある。この評論は長く埋もれていて、透谷の著作として広く知られるようになったのは、第二次大戦後のことである。

この評論の内容は、「平和」に掲載されたにもかかわらず、戦争にふれるところがない。しかしこの雑誌を刊行した日本平和会が、フレンド会すなわちクエーカー教系であることにかんがみると、矛盾しないと考えられる。それはクエーカー教が絶対平和主義の反戦平和運動で有名である一方で、開祖であるイギリス人フォックスが、「人は教会によらず、その内心に神から直接の啓示『内なる光』を受ける」(『広辞苑』から引用)と説いたことでも知られており、この評論は反戦・平和運動からは離れているが、フレンド会派の考え方にそった内容になっているからである。なお、透谷自身はクエーカー教徒ではないが、クエーカー教徒と広いつながりを持っていた。日本人で最も有名なクエーカー教徒は新渡戸稲造であろうが、透谷は、実際、新渡戸とも面会している。

この現代語訳の底本としては、小田切秀雄編集『北村透谷集』(明治文学全集29、1976年10月、筑摩書房)に所収のものを用い、読みやすさの観点から、一部の短い段落を統合しました。

現代語訳「各人心宮内の秘宮」

北村透谷 著           上河内岳夫 現代語訳

   各人は自らおのれの生涯を説明しようとして、行為・言動を示すものである。そうして今日に至るまで、真に自己を説明し得た者は、果たして何人いるだろうか。あるいは自己を隠匿しあるいは自己を吹聴し、また自らを誇示する者があれば自らを謙譲する者がある。要するに真に自己の生涯を説明する者は少ないのである。

 哲学があり、科学があり、人生を研究しようと企てることは久しい。客観的詩人があり、主観的詩人があり、千里の天眼鏡をかけて人生を観測することはすでに久しい。そうして哲学をもって、科学をもって、詩人の霊眼をもって、ついに説明し尽くすことができないもの、それが人生であることだ。
 
 厭世[ペシミズム]の大詩人バイロンが「私は哲学も科学も奥深いところまで進んだが、ついに役に立つところはなかった」と放言し、永遠の大戯曲家シェイクスピアが「世の中には哲学をもってしても科学をもってしても、うかがい見ることができないものがある」[ハムレットの台詞]と言ったのも、またルネサンスの大思想家と人がいうべーコンが「哲学にはついに際涯となるところはないようだ」と戯れたのも、結局のところ甚深・甚幽じんゆうな人間の生涯を、どのようにもすることができないためであるだろう。
 
 人生は本当に説明することができないものであるのか。もしそうならば、人生は暗黒の雲霧の中に埋却まいきゃくすべきものとするのか。何物か知らないが、私の中にそうすることを否定するものがあるようである。

 人の本性を善であると認めた中国の哲学者[性善説の孟子]も、人の本性を悪と認めた同じ国の哲学者[性悪説の荀子]も、世界を楽天地と思い定めたライプニッツも、世界を娑婆しゃばと唱えたショーペンハウエルも、あるいは善の一側を観じ、あるいは悪の一側を察し、あるいは楽境を睥目へいもくし、あるいは苦界を睨視げいししたものである[善や悪のある側面を観察し、楽境や苦界を睥睨したものである]。これらの大思想家が知り得たところまでは確実であるけれども、なお「知り得ない不可ふか覚界かくかい」の広さは、いく百万の里程になるであろうか。真理は実に多面的である。神のおもては一つであるが、これを見る者の眼によって、どのようにも見えるものであるだろう。深山に分け入って踏み迷うのは不案内な旅人である。けれどもが、その出てくる時には必ず深山の一部分をよく知ることができて、これを人にも語り自らも悟るのである。真理を探求する思想家のなすところは、またこの通りであるだろう。
 
 深山に踏み入る旅人がいなくてはならないように、真理に踏み迷う思想家もいなければならない。人間は暗黒を好む動物ではないのである。恒久不滅の霊はその故郷を思慕して、ある時において真理に到着することを固く心に決めたものであればこそ、今日に至るまであるいは迷信に陥り、あるいは光明界に出て、宗教・哲学の形式は千態万様の変遷を経たのである。人間の本性に具備する恋愛のような、同情のような、慈憐じれんのような、とりわけ涙のようなものは、深くその至粋を極めた者をして、造化の微妙に驚嘆させないものはない。野蛮から文化に進んだのは、それほどのことではない。この至妙な霊能・霊神をもってついには獣性を離れて、高尚な真善美の理想境に進み入ることを、どうして望みなしとするのだろうか。
 
 ヨーロッパの理想界に形而上派がおこってから、ようやくにして古代の崇高なプラトニックな理想的精神を復活させ、それ以来ヨーロッパの宗教界・詩文界に生気が活動してきたのを見る。律法・儀式にのみに拘泥したローマ・カトリック教の胎内からプロテスタンティズムが生れ出て、プロテスタンティズムからピューリタニズムを生じ、ピューリタニズムによって長く人心を苦しめてきた君主専制の陋習を破った自由な思想の威霊のあるものを奮い興した。あるいは一転して旧来の迷夢をかき乱し破ったヴォルテールとなり、バイロンとなり、ゲーテとなり、カーライルとなり、自由神学派となり、唯心的な傾向となって、今日に至るまでの思想界の変遷は限りなくおもしろい。
 
 しかしながらすべてこれらの変遷を貫く一条のいとが存在することは、識者があまねく認めるところである。これを何であるとするのか。答えて言う、皮相的な信仰が破れて、心を基礎とする思想及び信仰が次第に地平線上に立ち上って、曙光が光り輝いていること、これであると。すべての批評眼を取り去った後に『聖書』を解釈しようとするのは、昔のローマ・カトリック教の積年の通弊であったものを継承して、今日の浅薄な『聖書』の読者がなすことである。心をもって基礎とし、心をもって明鏡とし、心をもって判断者となし、それによって『聖書』に教えるところを行おうとするのは、最近の思想を奉じて自由な意志に従って信仰を形作る者であるのだ。
 
 人世じんせいはついに説明することができないものである。そうであるならば人生じんせいを指導する者もまた、ついに解釈し尽くすことができないほどの宝庫でなければ、よいとする所を知ることができない。数間すうけんの土地を測るには物差しで十分であろう。世界の大きさを測るには、人造の物差しは果たしてどんな用をするだろうか。もし『聖書』の教える所が、単に消極的に快楽を押し殺すこと(あるいは克己)にとどまるならば、『聖書』もまた古来の数多くの思想界の階段の一つになるという歴史上の価値を得るのみで終わるだけである。
 
 あるいは利得のゆえに教会に結び、あるいは不運な境遇に苦しんで教理に帰依する。このようなことは今日の教会には珍しくない実情である。もしも人間の本性が完全に教理を認めたものであるならば、あるいは利得を取りあるいは帰依をなすことはもとより自由であるが、いやしくもその発心の一瞬間に卑劣な欲情が混ざっているならば、その教会の汚濁を実に思うべきである。しかしながらキリストの本旨は善人を救うことではなく、不善を善に返すことにあるので、私は初めに汚染した欲情をもって入って来た者も、後には極めて清浄潔白である神聖な思いに満たされるようになることを願うのである。
 
 洗礼者ヨハネはキリストのために道を備えるようにとしてつかわれたのである。道を備えるとは何か。答えて言う、人々を悔い改めに導くことであると。悔い改めとは何か。答えて言う、不善に向かった霊性を善に向かわせることであると。
 
 不善な行為は、たまたま不善な実象を現すに過ぎず、心の上に現れた一つの黒い点に他ならない。不善の行為をやめて善の行為をなすのもまた、心の上に映った一つの白い点に他ならない。ともに心の上に現れるものであって、心があって後に善もあり不善もある。心がなければ何を悔い改めるところとするのだろうか。
 
 心こそがすべてのものをうるおす静かにたたえた水である。迷うのもここにあり、悟るのもここにあり、殺すのも仁をなすのもここにあり、愛も非愛もここにこそ湛えるのである。ヨハネが言う悔い改めとは、すなわち心を真っ直ぐにすることであり、ヨハネが言う「道を備える」とは、すなわち心を空虚にすることである。心を空虚にする後でなければ、真理を望むことはできないからである。キリスト教において心を重んじることは、この通りである。ただし、老荘が心をもって太虚たいきょとなし、この太虚こそが真理の形象であると認めるようなこと、または陽明派の良知良能や、禅僧が心は宇宙の至粋であるとして心と真理とをほとんど一体視するようなことと、キリスト教の心を備えた後に真理を迎えることとを同一視してはならない。

 以上は「心」について説明したまでのことである。さてこれから私は自分が感得したところを述べて、心宮内の秘殿について論じよう。

 『聖書』はエルサレムの神殿をもって神の御座おわすところとした。その神殿に聖所せいしょがあり、聖所せいしょがある。至聖所には祭司長の他に、ここに入ることができる者は甚だ稀であると伝えられている。私は思う、人の心もまたこのようになっているのではないかと。心に宮があり、宮の奥にさらに他の宮があるのではないか。心は世の中にあり、そうして心は世を包んでいる。心は人の中に存在し、そうして心は人を包んでいる。もし外形の生命をとってきて見ると、地球は広いと言っても、五尺の身体は大きいと言っても、どうしてシェイクスピアをして「天と地との間をはい回る私は、果たしてどのようなものであろうか」と大喝だいかつさせるだろうか。そもそもこの心の世界は、このように広くこのように大きく、森羅万象を包んであますことがない。そうしてこの広大な心が来臨して人間の中にある時に、渺々びょうびょうとした人間の眼をもってしては説明することができないものを、世の中に存在させるのである。
 
 我々はちて世間にあることを記憶しなければならない。しゅつ世間せけんで出世間のことを行うよりも、ざい世間せけんで出世間のことを行うことが、むしろ大きくて真であることを記憶しなければならない。キリストの教理もまたここにあり、彼は遁世を教えずに世間に打ち勝つことを教えたのである。彼は世の中が大とするものを退けて小であるとし、世の中が小とするものをとり挙げて大であるとした。彼は学者・法律家などを偽善者の名をもってめ、かえって最も少額の義財を神に献じる者を激賞した。彼がこのようにして教えたものは、要するに人間の中に存在する心は至大・至重のものであって、俗眼をもって大小を衡量すべきではなく、学問・律法をもって度合いを測るべきものではなく、小善・小仁をもって論じるべきではないことを示したことに他ならない。

 小善・小仁は、滔々とした世界で、これをなすことが難しいものは多くはない。大善・大仁はどのような人が初めて行うことができるだろうか。教会内で、つまらない批評眼をもって他人の小悪・小非を指摘する者には、教会内の小善・小仁すらも鼓舞することが難しい。そうして今日の教会の多数がこのようになることを悲しむのである。そもそも小善・小仁は、昔のパリサイ人がよくこれをなしていた。彼らは教会で威厳を装い崇敬をあらわし、小悪・小非行を慎むことは今日の俗信仰にまさり、小善・小仁を行うことは今日のいわゆるキリスト教信者なるものにいくらか加えるところがあった。そうであるのにキリストはこれを排して、「まむしのすえ」とまで罵ったのである。
 
 宗教の本意は、どうして狭く小さな行為の抑制にあるだろうか。私は、教会の義財箱をちゃらちゃらと響かせて、振り向いて誇り顔である偽善家を憎むとともに、行為の抑制を重んじて心の広大な世界を知らない者を憐れむことには限りがない。何事であろうか、人間を遇するのに鞭を用いて、その行住ぎょうじゅう座臥ざがを制しようとするようなことは。宗教はどうしてこのようなものであろうか。
 
 心に宮があり、宮の奥に他の秘宮がある。その第一の宮には他人が来て見ることを許すけれども、その秘宮には各人がこれに鍵をかけて容易には人を近づけさせない。その第一の宮において人はその処世の道を講じ、その希望、その生命の表白をなすが、第二の秘宮は常に沈冥ちんめいにして無言、蓋世がいせい[功績や名声などが大きい]の大詩人をも、これに突入することをさせないのである。
 
 今の世で真理を追求し、徳を修める者を見ると、第一の宮は常に開けて真理の威力を通すけれども、第二の宮は堅く閉じて、真理をその門前に迷わせる者が多い。第一の宮に入る門は広いけれども、第二の宮の門は極めて狭い。第一の宮に入った真理は、まだその人を生かさせるものではなく、また死なせるものでもない。かつ、第一の宮に善根を種まきして懺悔をすることは、凡人ができないところではない。この凡人は、どうして大遠に通じる生命と希望とを、どのようにともする者であろうか。福音とは何か、救いとは何か、更生とは何か。これらのものを軽侮し、玩弄がんろうし、いたずらに説き、いたずらに語り、いたずらに行い、いたずらに思う。第一の門までは踏み入らせて第二の門を堅く閉ざす者は、どれもこれもみなこのような者であるのではないのか。最も笑うべきことは、当今の宣教師連中が「福音」の字句に神力があると信じていることである。彼らはみだりに「福音の説かれるところに、必ず救いがある」と言っている。そうして彼らは福音を説かずに、その字句を説き、自ら「キリストを負う」と称して、キリストの背後に隠れる悪魔を負うのである。とつ、福音を語ろうとする者は、どうして天地至大の精気に対して、極めて真面目な者にならないのか。その第一の宮を開いて、第二宮を開かないということは、心があっても心がないのと同じである。おのれは寒村・僻地から来て、国家の大いに愛すべきことを知らずに、みだりに自利自営を教え、己は無学無識に自ら甘んじながら、人に勧誘するところでは「学問」を退け、「『聖書』のみを奉ぜよ」と言って、もって我が学問界以外の小人と結ぼうとし、己は文学・美術の趣味、哲学の高致を理解しないが故に、愚かな者をだましあざむいて「文学を遠ざけるべきだ」と言う。こうして一国の愛国心をも、一国の思想をも、一国の元気をも、一国の高妙な趣味をも、ことごとく刈り尽くして、そのことをもって福音をこうとする。どうしてこれは田園の肥沃な土質を洗浄し尽して、その後に果樹を植えることと異なるであろうか。心の奥の秘宮の門を閉ざして、軽浮な第一の宮の修道をもって世の中を救おうとすることの弊害を知るべきである。
 
 道に入ることは、極めて至難とするところである。道に入ることは他の生命に入るものであることを記憶しなければならない。道に入ることはリジェネレーション[regeneration、再生]の発端であることを記憶しなければならない。それなのに今の世のいわゆるキリスト教会なるものを見ると、あしたに入った者がゆうべに出て、出没は常がなく、去就は定まりがない。その入るのは入るべきではないのに入り、その出るのは出るべきでないのに出る。なんと自らの心宮を軽んじることの甚だしいことか。
 
 洗礼を施すことは悪いことではないけれども、そのことをもってキリストの弟子となるのに欠くことができない大礼であるとするのは誤りである。心をもってキリストに冥交めいこうする時に、彼は無上の光栄あるキリストの弟子となるのである。「洗礼を施さないこと」は悪いことではないけれども、洗礼を施さないことをもって直ちにキリストの弟子となりおえたと思うのは大早計である。すべて心がキリストに通じた時に、すなわち心がキリストの水を浴びた時に、再言すればパウロが言う火の洗礼に会った時に、真にキリストの弟子となったのである。その通りである。心の奥の秘宮が開かれて、聖霊の猛火がその中に突進した瞬時においてこそ、そうなったのである。
 
 ナタナエルがイチジクの樹下に黙座していると、ナザレのイエスは彼を見て「ユダヤ人の中で最も誠実で、欺瞞ぎまんのない者である」と思った。後世のこのことを説明する者は、ナタナエルの黙思を論じないで、キリストの威力のみを説く。ナタナエルを知るのはキリストであるけれども、ナタナエルがナタナエルであるのは、キリストが関わるところではない。彼の心が照々として天地に恥じるところがないのは、彼自らの力である。彼を救うか救わないかは、彼があずかり知らないところであるが、救われるべき者になるかどうかは彼の自力である。このようなことわりは極めて見やすいものであるのに、今の世の中には往々にして、いささかの自力をも頼まず他力をもっぱらにする者があり、神に祈念することをもって唯一の行為となす。これはあたかも彼の念仏講の愚輩のなすところを学ぼうとするようなものである。告げよう、キリストは救うべき者を救い、救うべきではない者を救わないことを。千言万句の祈祷は、ひとたびキリストを仰ぎ見るという徳に及ばない。仰ぎ見るのは心で仰ぎ見るべきであり、祈祷が教会をやかましくするのは、最も好ましくないことである。私はすべての教会が沈黙しきる時に、大活気が燃え上がるであろうことを信じる。

 慈恵のこと、伝道のことについては、世間にはその精神を誤解する者が多い。私は今くだくだしく述べようとは思わない。
  最後に
  一個人が最も安らかで最も平らかな
  ところを尋ねてみよう。
 
 「人には各自に何事かの秘密があるものである」とは、詩人某が言った言葉であるが、残念なことはこの言葉に漏れる者が甚だ稀なことである。言い難いのではない、発表し難いのではない。ただ日常に思惟するところのものは、極めて高潔なことがあり、極めて下劣で卑しいことがある。自ら責め、自ら怒り、自ら笑い、自ら嘲り、静座する時、瞑目する時、談笑する時、歩行する時、一々その時々の心の状態があるので、その中に何事か自ら語ることをこころよいとはしないものが、ないというわけにはいかない。けれども俗人はこれを覆い隠そうとし、至人はこれを開表して恥じるところを知らない。俗人は心の第一宮においてこれを覆い隠す計略を立てるので、巧を弄して自ら隠蔽するところがあるのである。しかしながら至人はこれを第二の心宮に暴露して、人がほしいままに見るのに任せるのである。これを覆い隠すのではなく、これを示すのではなく、その天真爛漫であることは、何人なんびとをも何ものをも敵とせず味方とせず、自分の秘密を秘密とする念はないのである。そうである。このような至人の域に進んで後に初めて、その秘密も秘密の質を変え、その悪業も悪業の質を失い、懺悔も懺悔の時を過ぎ、憂苦も憂苦の境を転じ、殺人・強盗の大罪もその業を絶って、そこは一面の白屋はくおく、ただ自然の美があるだけ、真があるだけである。

 この美こそが、真こそが、未来の生命を形作るものであるだろう。キリストを奉じる者が、まさに専念祈欲すべきものは、思うにこの美、この真の境地であるだろう。倒崖とうがいが倒れかかろうとする時に、猛虎が躍りかかり噛もうとする時に、巨大なわにが来て呑み込もうとする時に、顔色一つ変えず泰然自若でいることができるのは、すなわちこの境地にいる人である。生死の境界を出、悟迷の外に出たきょう[恐れ畏まることがない状態]は、この境地にある人が味わうことができるところである。

 昔には、ヨブがすべての所有を失い、すべての家族・親族を失い、すべての権威・地位を失い、加えて身は悪瘡あくそうの苦痛に堪えがたく、身命が旦夕に迫った。けれども彼は神を恨まず、己を捨てず、友が来てあざけったが意に介せず、敵が来て悩ましたが自ら驚かず、心を明らかにして神意を味わったのである。彼は、その秘宮の内において、天地の精気に通じた者であり、平和の極意を得た者である。最も富み最も栄えた人が、夢にも感得することができない極甚の平和を、この最も哀れで最も悲しむべき「破運の王」(説を述べる者はヨブを某国の王であると信じている)が味わうことができたことを見るならば、天国の極意が至妙・至真であることを知るのは難しくないだろう。

 人はすべからく心の奥の秘宮を重んじるべきであり、これを明らかにすべきである。これをなおくすべきであり、これを白くさせるべきであり、これを公にさせるべきである。大罪・大悪が消えるのはこの奥にあり、大仁・大善が発するのはこの奥にある。秘事・秘密が天に通じるのはこの奥にあり、沈黙・無言の大雄弁もこの奥にある。その通りである、永遠の生命が存在するのもこの奥にあり、彼の説明することができないと言われた人生の一端が説明されるのも、この奥にある。この奥にこそ人生の最大で至重なものがあるのである。   
       
(明治25年9月15日、「平和」第6号)


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