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北村透谷「復讐・戦争・自殺」現代語訳

キリスト教普連土フレンド会系の日本平和会が、明治26年5月3日に発行した雑誌「平和」の12号に掲載された「復讐・戦争・自殺」の現代語訳である。無署名であるが「平和」の編集長である北村透谷の執筆によるものである。『透谷全集』の解題によれば、「無署名の巻頭論説。柱には社説とある。四つの文章なのを、相互に連続しているので、一つの仮題の下に一括する処置を採った」とある。この現代語訳では四つの文章に番号を付した。なお、この現代語訳の底本としては、勝本清一郎編『透谷全集 第二巻』(1974年改版、岩波書店)を用いました。

現代語訳「復讐・戦争・自殺」

北村透谷 著   上河内岳夫 現代語訳

1.復讐

 人間の心の世界に、頭は神で脚は鬼である怪物が住むようだ。これを名付けて復讐という。彼は人間の温血を吸って人間の中に生活する無形動物で、昔から彼のために身を誤った者、彼によって志を得た者、彼のために苦しんだ者、彼のために喜んだ者を、すべて数え上げることはできないのである。
 
 見よ、戯曲は彼を最上の題目とするのではないか。見よ、世間は彼を尊ぶべきものとするのではないか。そうして復讐というものは、それがいかなる意味の復讐であるかに関わらず、人間の心血を熱して、あるいは動物のように、あるいは聖者のように、人を意志の世界に目覚めさせるのは、あやしい、あやしいことだ。
 
 復讐は快事である。人間はとうてい平穏無事なものではない。ののしられれば怒り、撃たれればいきどおる。そうして、その怒ること、その憤ること、即座に感情をもらすことは野獣のようであって、そうしてそれを止めることができるならば、恐らく復讐というものの必要はないだろう。けれども人間は記憶に囲まれるものである。心の世界に大きな袋があって、怒りをも恨みをも、この中に蓄えることができるものである。再言すれば情緒を離れることができないのが人間である。人間の一生は、苦痛の後に快楽、快楽の後に苦痛があって、そうして満足というものはいつもちょっとの間のもので、何事もただ一時の境遇に縛られるものである。こういうわけで人間の本能のある部分は、快事のために狂するのである。
 
 復讐が快事であるのは、飲酒が快事であるようにそうである。日常の生活においてこの事がある。多岐多様な生涯の中で幾度かこの事があるのである。生活の戦争は一種の復讐の連鎖である。人はこの快事のために狂奔する。人はこの快事のために活動する。このようにして今日の開化も、昔日の野蛮と異ならないのである。その通りである、ヒューマニティーは、衣装は改まるが、千古不変なものである。
 
 復讐の精神は、自らの受けた害を返すことにある。そうして自らの受けた害を償うことができるのは、甚だ稀な場合である。自分が受けた害のために、相手に向かってこれに相当な害を与えることにある。そうしてこのように害を加えた時に、自分が受けた害は償われたような心地がして、奇妙な満足を得るのである。このようなものが復讐の精神であるとすれば、復讐という一事は、人間の高尚な性質を証明するものではなく、極めて卑しい動物らしい性質をあらわすものに他ならない。
 
 歴史は怪しい事実を明らかにする。各国ともに復讐を重んじた時代があることである。「忠臣蔵」の話は、もはや世界に隠れもないものになっている。いずれの国でも復讐というものが、何とはなくただ重んじるべきものになっていることは、私たちがよく知ることである。復讐の親族に決闘があり、決闘の兄弟に暗殺がある。暗殺は卑怯であるとして卑しめられ、決闘は快事として重んじられる。そうして復讐なるものは、最も多く人に称賛される。人間はどうしてこのように奇怪なものであるのか。
 
 [明治]維新の革命は、公の復讐に最後を告げた。法律の進歩は各自の勝手な復讐を変えて、社会の復讐とした。私は法律家としてこう言うのではない、歴史の観察からこう言うのである。このように法律の進歩と復讐の実行とは互いに背戻はいれいしている。私たちは復讐というものをもって、受けた害に対して返すべき害であると思っている。そうして人間はこのような不条理なことを、快事とする性質があることを言ったのである。法律の精神が復讐にはないことはこれを認めながらも、法律の事実は、復讐から隔たることが遠くはないことを信じるのは、このことをもってである。
 
 一つのただしからざることが生じることによって、社会は必ずこれに応じる何事かをなさなくてはならない。一つの不義ふぎは、直ちにその反響を社会に及ぼすのである。そうしてこの場合には、社会は他の義をもって、その不義を消す権利があり、責任がある。これが正しい意味での復讐である。宗教の精神からいう時は、社会という法律的な組織はなく、単に神の下に群がる兄弟の民を言うほかはない。上に一つの神をいただき、下に万民の相愛の綱がある。このことから宗教的な組織の社会に一人がなした害は、その社会自らが責任を負って神の前に立たなくてはならないものになるのである。そうして、社会自らはその社会の一部分である者がなした害に対して、復讐すべきところはないのである。
 
 人と人とをつなぐものも愛であり、神と人とをつなぐものも愛である。社会が受けた害に報いるのは、社会自らもこれをなすことができず、神もまた社会に対して復讐の意味をもって、害を加えることは全くあるまじきことである。このようにして、宗教的な組織の社会では、復讐ということはついにその跡を絶たなければならない。(ただし、懲罰ということは別の題目である)。
 
 しかしながら宗教を架空のうわごとにさせてはならない。無暗にただ救いだとか天国だとか、浮かれ迷わせてはならない。宗教はクリード(信仰個条)ではないのであり、宗教は聖餐せいさんではなく、洗礼でもない。もしくは法則でも、戒めでもないのである。赤心の悔い改めと赤心の信仰とは、どのような場合においても最も大きな宗教である。そうして宗教は、ヒューマニティーの深奥に向かってかんかんとした明灯であるべきものである。人生は実に測ることができないものがあり、人生は実に知ることができないものがある。どうか私たちの信仰を、皮相な迷信たらしめず、深く人間と神との間に成り立たせますように。

2.復讐と戦争

 一個人の間では復讐である。国民と国民の間では戦争である。復讐の時代はようやく過ぎて、そうして戦争もまたようやく少なくなろうとしている。宗教の希望は一個人の復讐を絶つとともに、国民間の戦争を断とうとすることにあるだろう。

3.自殺

 苦惨の海に漂って、寄る辺よるべのないなぎさの浮き身となる時は、人は自然に自殺を企てるものである。人は自分を殺すことをもって、自分の財産を蕩尽することと同じように考えるのである。
 
 しかしながら名誉が自殺を促すことがある。名誉の唯一の保護者の地位に自殺を置くことがある。人の生命は名誉よりも軽くなることがあるのは、奇怪なことではないのか。
 
 ほかにまた自殺は自らがなした害に対して、自らが加える害のようなことがある。この場合には自殺は自伐じばつの復讐である。この復讐によって万事を決しようとする。ああ、人間のことはどれほど悲しむべきことではないのか。

4.自殺と復讐

 「ハムレット」を読んだ者は、面白い自殺と復讐の関係を知るだろう。イギリスの思想では、自殺は東洋の思想で考えられるよりも苦しいものである。「死」はその場かぎりのものではなく、死の後に何か心地のよくないことがあると思うのが、彼の思想である。「死」は最後のものであって、残るのはただ形骸だけだとするのは、我が思想である。この点において彼我に大きな差違がある。
 
 短剣を自らに加えるのは極めてやさしい。けれども人はこうするよりも、むしろ自らの受けた害に対して復讐し、そうしてまたその復讐の復讐として自ら殺されるのを喜ぶのである。自殺は自ら殺すものであって、人に害を与えるものではない。人はこれを尊ぶべきなのに、かえって人を害した後に自ら殺すことを快とするのである。何と奇怪なことか。
 
 ハムレットは、その相手が悔悟する時に手を下すことを、復讐の精神から外れたものとしてこれをなさず、復讐は敵を地獄に追い落とすことをもって、最も成功であると考えた。ああ復讐よ、汝の心は果たしてどうであろうか。
 

(明治26年5月、「平和」12号)

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