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正岡子規「歌よみに与ふる書」現代語訳

「歌よみに与ふる書」は、正岡子規による書簡体の歌論書で、子規の著書の中で最も広く知られているものの一つである。当初「歌よみに与ふる書」は、新聞『日本』に明治31年2月11日から3月4日まで10回にわたって断続的に連載され、明治35年12月、吉川弘文館から刊行された『日本叢書 子規随筆続篇』に収録された。

明治25年、帝大国文科を中退して新聞「日本」に入社した正岡子規は、文芸欄を任され、紙上に俳論「獺祭書屋俳話」を連載するなど俳句の革新に着手していたが、短歌に関しては、社主の陸羯南自身が紙上に短歌を発表するなど、詳しい先輩社員がいたので発言を控えていた。ところが明治30年に桂園派など旧派歌人を網羅した「新自讃歌」が阪井久良伎の編纂で連載されると、その内容に我慢がならなかった子規は羯南に歌論の掲載を願い出ることになった。それが許された時の思いは、「六たび」に書かれている。

子規による歌人への批判は、馬鹿呼ばわりする激しいもので、短歌を全面否定していると誤読されかねないが、あくまでも批判の対象は旧派の歌人たちである。実は旧派歌人に対する批判を始めたのは子規ではなく、与謝野鉄幹であり、すでに27年5月に評論「亡国の音」を発表し、実名を挙げて旧派歌人を厳しく批判していた。子規としてはより激しい言葉を使うことを迫られたとも考えられる。「歌よみに与ふる書」の発表後、新聞「日本」の短歌欄も担当することになった子規は、「日本」紙上あるいは雑誌『心の花』への寄稿などで短歌革新に本格的に着手することになり、伊藤左千夫や長塚節らも加わる「根岸短歌会」を主宰して、新しい歌の道を切り開いていった。子規の没後、その考えは伊藤左千夫の『馬酔木あしび』を経て、島木赤彦、斎藤茂吉らによる『アララギ』へと受け継がれ、現代の短歌において大きな勢力となっている。

この現代語訳の底本としては、岩波文庫版の『歌よみに与ふる書』(1983年改版)を用いました。土屋文明氏による解説から多くを学んだことを明らかにして感謝します。あわせて『日本の文学15 石川啄木 正岡子規 高浜虚子』(中央公論社)を参照し、楠本憲吉氏による注解を参考にしました。


現代語訳「歌よみに与ふる書」

ー 歌人に宛てる書簡 ー

正岡子規 著、上河内岳夫 現代語訳

1.歌人に宛てる書簡

 おっしゃるように、近来和歌は一向に振るいません。正直に言えば『万葉集』以来、源実朝みなもと の さねとも[鎌倉前期の将軍、歌人]以来一向に振るいません。実朝という人は三十にもならないで、さあこれからという所で敢え無い最期を遂げられ誠に残念でありました。あの人を今十年も生かして置いたなら、どんなに名歌を沢山残したかも知れません。いずれにせよ第一流の歌人であると思います。むやみに柿本人麻呂・山部赤人のよだれをねぶる[先人のまねをする]でもなく、もとより紀貫之・藤原定家の糟粕そうはくめる[先人のまねをする]でもなく、自己の本領が屹然きつぜんとして山岳と高さを争い日月と光を競う所は、実に恐るべき尊ぶべきもので、知らず知らずのうちに膝を屈するという思いがあります。古来より凡庸な人であると評価してきたのは間違いなく誤りであるに違いなく、北条氏をはばかって韜晦とうかい[自分の才能を包み隠すこと]した人か、そうでなければ大器晩成の人ではなかったかと思えます。人の上に立つ人で文学技芸に熟達したような者は、人間としては下等の地にいるのが通例であるが、実朝は全く例外の人に相違がありません。なぜかと言うと、実朝の歌は単に器用というのではなく、力量があり見識があり威勢いせいがあって、時流に染まらず世間に媚びない所が、例の物好き連中や死んだ歌を詠む公家たちとはとても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間でなければ、実朝の歌のように力のある歌は詠み出されるはずはないのです。賀茂真淵かも の まぶち[江戸中期の歌人、国学者]は力を極めて実朝を褒めた人ですが、真淵の褒め方はまだ足りないように思われます。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知って、他の半面を知らなかったが故にそうなったのでしょう。

 真淵は歌については近世の達見家で、『万葉集』崇拝の所などは当時にあって実に偉い者でありますが、私たちの眼から見れば、なお『万葉集』を褒め足りない心地が致します。真淵が「万葉にもよい調ちょうがあり、悪い調がある」ということをひどく気にして繰り返して言うのは、世間の人が『万葉集』の中の詰屈きっくつ[堅苦しく難しい]な歌を取って「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するのを恐れているかと見えます。もとより真淵自身もそれらをよい歌であるとは思わなかったが故に弱みが出たのでしょうか。しかしながら世間の人が詰屈と言う『万葉集』の歌や真淵が悪い調と言う『万葉集』の歌の中には、私が最も好む歌もあると思われます。それはなぜかと言うと、他の人は言うまでもなく真淵の歌にも私が好む所の万葉調というものが、一向に見当たらないのです(もっともこの辺の論は短歌についての論と御承知下さい)。真淵の家集を見て、真淵は存外に『万葉集』の分からない人であるとあきれました。このように言ったからと言って、全く真淵をけなす訳ではありません。楫取かとり魚彦なひこ[江戸中期の歌人・国学者・画家]は『万葉集』を模した歌を多く詠み出しましたが、なおこれと思うものは極めて少ないです。それほど古調はなぞらえるのが難しいのかと疑っていた所、近来私たちが知っている人の中に、歌人ではなくて返って古調を巧みに模倣する人[福本日南、天田愚庵など、新聞『日本』の先輩]が少なくないことを知りました。これによって見ると、昔の歌人の歌は今の歌人ではない人の歌よりも、遥かに劣っているのかと心細くなりました。してみると今の歌人の歌が、昔の歌人の歌よりも更に劣っていることはどのように言うべきでしょうか。

 長歌のみはやや短歌とは異なります。『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかかりませんが、このような長歌は『古今集』の時代にも後世にも余り流行らなかったことが物怪もっけの幸いと思われます。そうであるので後世でも長歌を詠む者には直接『万葉集』を師とする者が多く、したがってかなりの作を見受けます。今日でも長歌を好んで作る者は、短歌に比べれば多少手際よくできます。(御歌会派おうたかいは[御歌会は宮中歌会のこと]が気まぐれに作る長歌などは端唄にも劣ります)。しかしある人は非難して長歌が『万葉集』の模型を離れることができないことを笑います。それももっともではありますが、歌人にそんなに難しいことを注文しますと、『古今集』以後はほとんど新しい歌がないと言わなくてはなりません。なおいろいろ言い残したことは後便に譲ります。不尽。
                     (明治31年2月12日)

2.再び歌人に宛てる書簡

 紀貫之き の つらゆき[平安前期の歌人]は下手な歌人で『古今集』は下らない歌集であります。その貫之や『古今集』を崇拝するのは誠に気の知れないことなどと言うものの、実はかく言う私も数年前までは『古今集』を崇拝する一人でありましたので、今日世間の人が『古今集』を崇拝する気分はよく承知しています。崇拝している間は歌というものは誠に優美で、ことに『古今集』はその粋を抜いたものとのみ思っていましたが、三年の恋が一時にさめて見れば、「あんないくじのない女に今まで化かされていたことか」と、悔しくも腹立たしくもなります。まず『古今集』という書物を手に取って第一頁を開くと、直ちに「去年こぞとやいはん今年ことしとやいはん」[*1]という歌が出てくる、実にあきれ返った無趣味な歌であります。日本人と外国人との「あいの子」を「日本人と言おうか外国人と言おうか」と洒落たと同じことで、洒落にもならないつまらない歌です。この他の歌も大同小異で、駄洒落か理屈っぽいもののみであります。それでも強いて『古今集』を褒めて言えば、つまらない歌ながら『万葉集』以外に一つの流儀をなした所が取り柄で、どのようなものでも初めてのものは珍しく思われます。単にこれを真似るだけを芸とする後世の奴こそ、気の知れない奴です。それも十年か二十年のことならともかくも、二百年たっても三百年たってもその糟粕を嘗めている不見識には驚き入ります。何代集だの代集だいしゅうだのと言っても、皆『古今集』の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりでございます。

*1:年のうちに春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ 在原元方

 貫之とても同じことです。歌らしい歌は一首も見えません。かつてある人に言った所、その人が「川風寒み千鳥鳴くなり」[*2]の歌はどうかと言われて閉口いたしました。この歌だけは趣味のある面白い歌です。しかし他にはこれくらいのものは一首もありません。「空に知られぬ雪」[*3]とは駄洒落です。「人はいさ心もしらず」[*4]とは、浅はかな言いざまだと思います。ただし貫之は初めてこのようなことを言った者であり、古人の糟粕ではありません。漢詩について言えば、『古今集』時代は、宋の時代にも比較することができて、俗気が紛々としている所はとても唐詩と比べるべくもありませんが、とはいえそれを宋詩の特色として見れば全体の上から変化があるのも面白く、宋詩はそれでよろしいのでありましょう。それを本尊にして人の短所を真似る寛政以後の漢詩人は、よい笑い者でございます。

*2:思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり
*3:桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける 
*4:人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

 『古今集』以後では『新古今集』がやや優れていると見えます。『古今集』よりもよい歌を見かけます。しかしそのよい歌と言うのも、指を折って数えるほどのことであります。藤原定家ふじわらのていか[鎌倉前期の歌人]という人は上手か下手か訳の分からない人で、『新古今集』の撰定を見ると少しは訳が分かっているのかと思えば、自分の歌にはろくなものはなく、「駒とめて袖うちはらふ」[*5]、「見わたせば花も紅葉も」[*6]などが、人にもてはやされるくらいのものであります。定家を狩野派の絵師に比較すれば、狩野探幽かのう たんゆう[江戸初期の絵師]とよく似ているのかと思います。定家には傑作がなく探幽にも傑作がない。しかし定家も探幽も相当に練磨の力はあって、どのような場合にも相当程度にやりこなします。両人の名誉は互いに匹敵するほどの位置にいて、定家以後は歌の門閥を生じ、探幽以後は画の門閥を生じ、両家とも門閥を生じた後は、歌も画も全く腐敗しました。いつの時代でもいかなる技芸でも、歌の格、画の格などというような「格」が決まったら、もはや進歩はいたしません。

*5:駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
*6:見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

 香川景樹かがわかげき[江戸後期の歌人]は『古今集』、紀貫之の崇拝によって見識が低いことは今更言うまでもありません。俗な歌が多いことも無論です。しかし景樹にはよい歌もあります。自身が崇拝する貫之よりもよい歌が多いです。それは景樹が貫之より偉かったのかどうかは分かりません。ただ景樹の時代には貫之の時代よりも進歩している点があることは相違がないので、したがって景樹に貫之よりもよい歌ができるというのも自然なことと思います。景樹の歌がひどく玉石混淆である所は、俳人でいうと大島蓼太りょうた[江戸中期の俳人]に比定するのが適当であると思われます。蓼太は雅俗と巧拙の両極端を備えた男で、その句に両極端が現れております。かつ満身の覇気で世間の人を籠絡ろうらくし、全国におびただしい門派の末流を持っていた所などもよく似ているかと思います。景樹を学ぶならよい所を学ばなければ、甚だしい邪道に陥るでしょう。今の景樹派などと言う者は、景樹の俗な所を学んで景樹よりも下手な歌を作ります。縮れ毛の人で束髪がよいと思って束髪に結う人は、わざわざ毛を縮らせたようなおもむきがあります。ここの所はよくよく活眼を開いて判別をして頂きたいです。古今上下東西の文学などをよく比較してご覧になるべきで、下らない歌書ばかりを見ていては容易に自己の迷いを覚ますことができません。見る所が狭ければ自分の汽車が動くのを知らないで、隣の汽車が動くように感じるものでございます。不尽。
                      (明治31年2月14日)

3.たび歌人に宛てる書簡

 前略。歌人のように馬鹿で暢気な者は、またとありません。歌人の言うことを聞きますと「和歌ほどよいものは他にない」ということをいつでも誇って言いますが、歌人は歌より他のものは何も知らないので、歌が一番よいというように自惚れている次第であります。彼らは歌に最も近い俳句すら少しも理解せず、十七字でさえあれば川柳も俳句も同じだと思うほどの暢気さ加減なので、まして中国の詩を研究するでもなく、西洋には詩というものが、あるやらないやらそれも分からない文盲浅学で、まして小説や脚本も、和歌と同じく文学というものに属すると聞くと、定めて目をむいて驚くでしょう。こう言うと罵詈ばり讒謗ざんぼうで、礼を知らぬれ者と思う人もあるでしょうが、実際なので致し方がありません。もし私の言葉が誤っていると思われるならば、いわゆる歌人の中から、ただの一人でも俳句を理解する人を御指名下さいませんでしょうか。私は歌人に向かって何の恨みも持たないのに、このような罵詈がましい言葉を放たねばならなくなった心のほどを御察しいただきたいのです。

 歌を一番よいと言うのは、もとより理屈もないことで、一番よい訳では少しもありません。俳句には俳句の長所があり、中国の詩には中国の詩の長所があり、西洋の詩には西洋の詩の長所があり、戯曲・脚本には戯曲・脚本の長所があり、その長所はもとより和歌の及ぶ所ではありません。理屈は別とした所で、一体歌人は和歌を一番よいものと考えた上でどうするつもりでしょうか。歌が一番よいものならば、どうでもこうでも、上手でも下手でも三十一文字みそひともじを並べさえすれば、天下の第一の者であって、秀逸と呼ばれる俳句にも、漢詩にも、西洋詩にも優っているものと思っているのか、その料簡が聞きたいものです。最も下手な歌でも、最もよい俳句・漢詩などに優っているほどならば、誰も俳句・漢詩などに骨を折る馬鹿があってはなりません。もしまた俳句・漢詩などにも和歌よりよいものがあり、和歌にも俳句・漢詩などよりも悪いものがあると言うならば、和歌だけが一番よいということにはなりません。歌人の浅はかな考えには今更のように呆れます。

 「俳句には調ちょうがなくて和歌には調ちょうがある、故に和歌は俳句に優っている」とある人は言います。これはあながちに一人の論ではなく、歌人仲間にはこのような説を抱く者が多いことと思います。歌人どもはひどく調ということを誤解しております。調には「なだらかな調」もあり、「迫りたる調」もあります。平和なのどかな様子を歌うには、「なだらかな長い調ちょう」を用いるべきで、悲哀とか慷慨こうがいとかで情が迫った時、または天然でも人事でも現象の活動が甚だしく変化が急な時に、これを歌うには「迫りたる短い調ちょう」を用いるべきであることは論じるまでもありません。それなのに歌人は、調はすべてなだらかなものとのみ心得ていると見えます。このような誤りを来すのも、結局のところ従来の和歌がなだらかな調子のみを取ってきたことによるもので、俳句も漢詩も見ずに歌集ばかりを読んでいる歌人には、そのように思われるのも無理ならぬことと思います。さてさて困った者でございます。なだらかな調が和歌の長所ならば、迫りたる調が俳句の長所であることは分からないでしょうか。しかし迫りたる調、強き調などいう調の味は、いわゆる歌人にはとてもお分かりにならないでしょうか。真淵は雄々しく強い歌を好みましたが、さてその歌を見ると存外に雄々しく強いものは少なく、実朝の歌のように雄々しく強いものは真淵には一首も見当たりません。「飛ぶ鷲の翼もたわに」[*7]などと言うのは、真淵集の中の佳作で強い方の歌ですが、意味ばかりが強くて調子は弱く感じられます。実朝にこの意匠を詠ませれば、このような調子には詠まないでしょう。「もののふの矢なみつくろふ」の歌[「八たび」に後出]のような、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しい趣向ではないが、調子の強いことは並ぶものがなく、この歌を誦詠すれば霰の音を聞くような心地がいたします。真淵が既にそうであるとすれば、真淵以下の歌人は言うまでもありません。このような歌人に蕪村派の俳句集か盛唐の詩集かを読ませたいと思いますけれども、驕りきった歌人どもは宗旨以外の書を読むことは承知しないでしょうから、勧めるだけ野暮ではないでしょうか。

*7:信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲の翼もたわに吹く嵐かな

 御承知のように、私は歌人からは局外者とか素人しろうととか言われる身であり、したがって詳しい歌の学問はしておらず、格が何だか文法が何だか少しも承知していませんが、大体の趣味がどうかにおいては自ら信じる所があり、この点について返って専門の歌人の不注意を責める者でございます。このように悪態をつきますと、私を弥次馬やじうま連と同様に見る人もあるでしょうが、私が弥次馬連であるかどうかは、貴兄は御承知のことと思います。異論の人があればどなたでも来訪あるよう、貴兄よりお伝えください、三日三夜なりとも続けざまに議論をいたします。熱心な点においては、決して普通の歌人どもには負けません。感情が激して筆が走るまま、失礼の語も多いでしょうが、御海容頂きたいです。拝具。
                      (明治31年2月18日)

4.たび歌人に宛てる書簡

 拝啓。「空論ばかりでは傍人[直接の関係がない人]には理解しがたく、実例について論評せよ」との御言葉は、ごもっともと思います。実例と言っても際限もないことで、どれを取って論評すべきだろうかと迷っておりますが、なるべく名高いものから試みましょう。思い当たられる歌どもをお知らせ下さい。さて柿本人麻呂かきのもと の ひとまろの歌でありましょうか

もののふの八十氏川やそうじがわ網代木あじろぎにいざよふ波のゆくへ知らずも

という歌がしばしば引き合いに出されるように思います。この歌は万葉時代に流行した一気呵成いっきかせいの調で、少しも野卑な所はなく、字句もしまっておりますが、全体の上から見ると上三句は余計なものに属します。(「足引あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」という歌も前置きのことばは多いけれど、あれは前置きの詞が長いために夜が長い様子を感じられます。)これはまた上三句が全く役に立ちません。この歌を名所[宇治川]の歌の手本に引くのは大戯おおたわけでございます。総じて名所の歌というのは、その土地の特色がなくてはかなわず、この歌のように意味のない名所の歌は名所の歌になりません。しかしこの歌を後世の俗気が紛々とした歌と比べると遥かに優っています。かつこの種の歌は真似すべきではありませんが、多くの中に一首二首あるのは面白いです。

月見れば千々ちぢに物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど

という[大江千里おおえ の ちさと[平安前期の歌人]の]歌は最も人が賞賛する歌です。上三句はすらりとして難点はないが、下二句は理屈であり蛇足であると思います。歌は感情を述べるものなのに理屈を述べるのは、歌を知らないからでしょうか。この歌の下二句が理屈であることは消極的に言っていることでも、知られるでしょう。もし「わが身一つの秋と思う」と詠むならば感情的ですが、「秋ではないが」と当たり前のことを言うと理屈に陥ります。このような歌をよいと思うのは、その人が理屈を離れることができないためです。俗人は言うに及ばず、今のいわゆる歌人どもの多くは理屈を並べて楽しんでおります。厳格に言えばこれらは歌でもありませんし、歌人でもありません。

芳野山かすみの奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり

 八田知紀はったとものり[幕末の歌人、国学者]の名歌とか言います。知紀の家集はいまだ読んでいませんが、これが名歌ならばおおよそ底も見え透いています。これも前のと同様に「霞の奥は知らねども」と消極的に言ったのが理屈に陥ります。既に「見ゆる限りは」と言う上は、「見えない所は分らないが」という意味はその裏に籠もっているのに、わざわざ「知らねども」と断わること、これが下手と言うものです。かつこの歌の姿の「見ゆる限りは桜なりけり」などと言うのも極めて拙く野卑であり、前述の千里の歌は理屈は悪いが姿は遥かに立ち優っておりました。ついでに言っておくと「消極的に言えば理屈になる」と言ったことは、いつでもそうであると言うのではありません。客観的な景色を連想して言う場合は、消極的でも理屈にならず、例えば[定家の]「駒とめて袖うち払ふ影もなし」と言うようなのは、客観の景色を連想しただけで、このように言わなければ感情を表現することができないものなので無論理屈ではありません。また全体が理屈めいた歌があり(仏教関連の題材の歌の類い)、これらは返って言い様では多少の趣味を添えるでしょうが、この芳野山の歌のように全体が客観的、すなわち景色であるのに、その中に主観的な理屈の句が混じっていては、言いようもなく殺風景です。また同じ人[知紀]の歌であるのでしょうか

うつせみの我世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり

というのがあるとのことですが、さてさて驚き入った理屈的な歌であることか。「嵐山の桜が美しい」と言うのは無論客観的なことであるのに、それをこの歌は理屈的に表現しています。この歌の句法は全体が理屈的な趣向の時に用いるべきもので、この趣向のように客観的に言わなくてはならない所に用いたのは、大俗の仕業しわざと見えます。「べきは」とけて「なりけり」と結んだのが、最も理屈的で殺風景な所であります。「一生嵐山の桜を見よう」と言うのも変な下らない趣向であり、この歌は全く取り所がありません。なお手当り次第に申し上げます。
                      (明治31年2月21日)

5.いつたび歌人に宛てる書簡

心あてに見し白雲はふもとにて思はぬ空に晴るる不尽ふじ

というのは村田春海はるみ[江戸中期の歌人]の歌ではなかったかと記憶しています。これは富士山の裾野から見上げた時の即興であるにちがいなく、私も実際にこのように感じたことがあるので面白い歌だと一時は思いましたが、今見れば拙い歌であります。第一に、麓という語はどうでしょうか。心当てに[当て推量で]見た場所は少なくとも中腹位の高さであるはずなのに、それを麓というべきかどうか疑わしいです。第二に、それはよしとしても、「麓にて」の一句は理屈っぽくなって面白くない。「ただ心あてに見た雲よりは上にあった」とだけ言えばよい所です。第三に、富士山の高く盛んである様子を詠もうとするのであれば、今少し力強い歌にならなくてはなりません。この歌の姿は弱くて到底富士山によく合っているとは言えません。高井几董きとう[江戸中期の俳人]の俳句に「晴るる日や雲を貫く雪の不尽」というのがあり、極めて普通に叙述してのけたが、富士山の趣は返ってよく現れています。

もしほ焼く難波の浦の八重霞やえがすみ一重ひとえはあまのしわざなりけり

 契沖[江戸前期の歌人、国学者]の歌で俗人が口々に称揚するものでありますが、この歌の品が下っていることはやや心ある人は承知していることと思います。この歌が口々に称揚されるのは、言うまでもなく八重一重の掛け合わせにあるのでしょうが、私の攻撃点もまたここに他なりません。総じて同一の歌で極めて褒める所と、他の人が極めてけなす所とは同じ点にあるものです。八重霞というものは、もとより八段に分かれて霞んでいるものではないので、一重ということは一向に利きません。また初めに「藻汐もしお焼く」と置いたが故に、後で煙とも言いかねて「海女の仕業しわざ」と主観的に置いた所は、いよいよ俗に堕ちます。こんな風に詠まなくても、「霞の上に藻汐を焼く煙がなびく」ことを普通に詠めば、つまらなくてもこんな嫌味はできないでしょう。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

 この凡河内躬恒おおしこうち の みつね[平安前期の歌人]の歌は、百人一首にあるので誰もが口ずさみますが、一文半文の値打ちもない駄歌でございます。この歌は嘘の趣向であり、初霜が置いたくらいで白菊が見えなくなる気遣いはありません。趣向が嘘であれば、趣もヘチマもありません。思うにそれはつまらない嘘であるからつまらないのであって、上手な嘘は面白いです。例えば[家持の]

かささぎのわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

は面白いです。躬恒の歌は些細なことをやたらと仰山に述べただけなので無趣味であるけれど、大伴家持の歌は全くありもしないことを空想で表現して見せたが故に面白く感じられます。嘘を詠むなら全くないこと、とてつもない嘘を詠むべきで、そうでなければありのままに正直に詠むのがよろしいのです。「雀が舌を切られたとか、狸が婆に化けた」などの嘘は面白いです。「今朝は霜が降って白菊が見えない」などと、真面目くさって人をあざむく仰山な嘘は極めて殺風景でございます。「露の落ちる音」とか「梅の月が匂う」とかいうことを言って楽しむ歌人が沢山おりますが、これらも面白くない嘘です。すべて嘘というものは、一、二度はよいけれど、たびたび詠まれては面白い嘘も面白くなくなります。まして面白くない嘘は言うまでもありません。「露の音」「月の匂い」「風の色」などはもはや十分なので、今後の歌には再び現れないようにしたいものです。「花の匂い」などと言うのも大方は嘘であり、桜などには格別の匂いはありませんし、「梅の匂い」でも『古今集』以後の歌人が詠むようには匂いません。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅が闇に匂う」とこれだけですむことを、三十一文字に引きのばした[躬恒の]御苦労の加減には恐れ入りますが、これもこのころには珍しいものとして許せるものでしたが、あわれ歌人よ、「闇に梅が匂う」という趣向はもはや打ち止めになされてはいかがでしょうか。闇の梅に限らず、普通の梅の香も『古今集』だけで十余りもあり、それから今日までの代々の歌人が詠んだ梅の香の歌は、おびただしくて数えられない程であるので、これもいい加減に打ち止めにして、香水香料に用いられるのは格別ですが、その他の歌には一切これを入れないこととし、「鼻づまりの歌人」とあざけられるほどに遠ざけられてはいかがでしょうか。小さなことを大きくいう嘘が、和歌が腐敗する一大原因であると見えます。
                      (明治31年2月23日)

6.たび歌人に宛てる書簡

 お手紙を見ると私の考えを誤解されています。ことに変なのはお手紙の中の四、五行で、その間に撞着があります。初めには「客観的景色に重きを置いて詠むべし」とあり、次に「客観的にのみ詠むべきものとも思われない」云々とあるのはどうしてでしょうか。私は「客観的にのみ歌を詠め」と言ったことはありません。「客観に重きを置け」と言ったこともないが、この方は私の考えに近いように思えます。「皇国の歌は感情をもととして」云々とは何の事でしょうか。詩歌に限らず総ての文学が感情をもととすることは、古今東西で相違がありません。もし感情をもとにせずに理屈をもとにしたものがあると、それは歌でも文学でもありません。ことさらに「皇国の歌は」などと言われるのは、例の歌より他に何物も知らない歌人の言葉かと怪しまれます。「いずれの世にいずれの人が理屈を読んだのは歌ではないと定めましたか」とは驚いた御質問であります。「理屈は文学ではない」と言うのは古今の人、東西の人がことごとく一致した定義で、もし「理屈をも文学である」と言う人があれば、それは大方日本の歌人ではないかと思います。

 客観・主観、感情・理屈の語について、あるいは私の考えを誤解されているのではないか。全く客観的に詠んだ歌であっても感情をもととしているのは言うを待ちません。たとえば「橋のたもとに柳が一本風に吹かれている」ということをそのまま歌にしたならば、その歌は客観的であるけれど、もともとこの歌を作るということは、この客観的な景色が美しいと思った結果なので、感情に基づくことは勿論で、ただ美しいとか、綺麗とか、うれしいとか、楽しいとかいう語を着けるのと着けないとの相違です。また主観的と言う中にも感情と理屈との区別があり、私が排斥するは主観の中の理屈の部分で、感情の部分ではありません。感情的な主観の歌を客観の歌と比べて、この主観と客観の相違の点から優劣を言うべきではなく、そもそも私は客観に重きを置く者でもありません。ただし和歌や俳句のような短いものには、主観的佳句よりも客観的佳句が多いと信じておりますので、客観に重きを置くというのも、この点を意味すると見れば差し支えありません。また「主観と客観の区別、感情と理屈の限界は、実際は判然としたものではない」との御議論はごもっともです。それゆえに善悪・可否・巧拙と評価するとしても、もとより画然とした区別があるのではなく、巧の極端と拙の極端とは少しもまぎれる所はないけれども、巧と拙との中間にあるものは巧とも拙とも言いかねます。感情と理屈の中間にあるものは、この場合に当たります。

「同じ用語、同じ花月でも、それに対する我々の観念と古人のそれとが相違することは珍しくないことで」云々、それは勿論のことですが、そんなことは私の論じることと少しも関係がありません。今は古人の心を忖度そんたくする必要はなく、ただここでは古今東西に共通する文学の標準(自らそのように信じている標準である)をもって文学を論評するものであります。昔は風帆船ふうはんせんが速かった時代もありましたが、蒸気船を知っている眼から見れば、風帆船は遅いと言うのが至って当然なことわりです。紀貫之は、貫之時代の歌の上手であるとしても、前後の歌人を比較して貫之よりも上手な者が他に沢山あると思えば、貫之を下手と評価することはまた至って当然です。歴史的に貫之を褒めるのならば、私もあながちに反対ではありませんが、只今の議論は歴史的にその人物を論評するのではなく、文学的にその歌を論評することが目的です。

「日本文学の城壁ともいうべき国歌」云々とは何事でしょうか。代々の勅撰集のようなものが日本文学の城壁ならば、実に頼みが少ない城壁で、このような薄っぺらな城壁は、大砲一発でめちゃめちゃに砕かれるでしょう。私は「国歌を破壊し尽くす」という考えではなく、日本文学の城壁を今少し堅固にいたしたく、外国の髭面どもが大砲を放とうが地雷火を仕掛けようが、びくともしないほどの城壁にしたいという心願がありました。しかも私を助けてこの心願を成就させようとする大檀那おおだんなは天下に一人もおらず、数年来、鬱積し沈滞していましたが、近頃ようやく出口を得た[『日本』社主 陸羯南から歌論掲載の許可を得た]ことで、前後が錯雑する順序で道理もなく大言疾呼して、我ながら狂せるかと思いますほどの次第にございます。そばにいる人から見れば定めて狂人の言とさげすまれることと思います。なおこのたび新聞の余白を借りることができたのを機会として、思うように私の考えも述べたく、それだけでは意図が分かりかねますので、私の作品をも連ねてご批評をお願いしたいと考えておりますが、あるいは先輩諸氏の怒りに触れて、差止められるようなことはないかと、それのみを心配しております。心配、恐懼きょうく、喜悦、感慨、希望などに悩まされて、従来の病体が益々神経過敏になって、近頃は睡眠不足を生じている次第です。愚とも狂ともお笑いください。

 従来の和歌をもって日本文学の基礎とし、城壁としようとするのは、弓矢剣槍けんそうをもって戦おうとするのと同じことで、明治時代に行われるべきことではありません。今日軍艦を購入し、大砲を購入し、巨額の金を外国に出すのも、結局は日本国を固めるために他ならず、そうであればごくわずかの金額で購入できる外国の文学思想などは、続々輸入して日本文学の城壁を固めたいと思います。私は和歌についても旧思想を破壊して新思想を注文するとの考えで、したがって用語は雅語、俗語、漢語、西洋語を必要次第に用いるつもりです。委細は後便で。

 追伸。「伊勢の神風、宇佐の神勅」云々の語がありますが、文学は合理、非合理を論じるべきものではありません。したがって「非合理は文学ではない」と言ったことはありません。非合理なことで文学的には面白いことは少なくありません。私が写実と言うのは、合理非合理、事実非事実といういいではありません。油絵師は必ず写生によりますけれども、それで神や妖怪やあられもないことを面白く画きます。しかし神や妖怪を画くにも、もちろん写生によるもので、ただありのままを写生するのと、一部一部の写生を集めるのとの相違であります。私の写実も同様のことです。これらは大誤解であります。
                      (明治31年2月24日)

7.ななたび歌人に宛てる書簡

 前便に言い残したことを今少し申し上げます。宗匠的な俳句と言えば、直ちに俗気を連想するように、和歌と言えば直ちに陳腐を連想するのが年来の習慣で、はては和歌という字は陳腐という意味の字のように思われています。このように感じる者は、和歌の社会にはいないと思いますが、歌人ではない人は大方このような感を抱いているとか聞いています。時々は和歌をけなす人に向かって、「さて和歌はどのように改良すべきか」と尋ねると、その人が首を振って「いやいや和歌は腐敗し尽くしているのに、どうして改良の手立てがあるだろうか、放って置け」などと言い放つ様は、あたかも名医が匙を投げた死に際の病人に対するような感を持っているものと見えます。実際にも歌は色が青ざめて呼吸が絶えようとする病人のようであります。そうではあるが私の考えは非常に異なり、和歌の精神は衰えたが、形骸はなお保つべきで、今にして精神を入れ替えれば、再び健全な和歌となって文壇において奔走できることを保証いたします。これは言わなくてもいいことだが、ある人がすでにこと切れた病人と一般に見なしたのは、みるからに和歌の腐敗が甚しいことに呆れて、一見して放棄したものではないでしょうか。和歌の腐敗の甚しさも、これで大方が知られるでしょう。

 この腐敗と言うのは趣向が変化しないのが原因で、また趣向の変化しないのは用語が少ないことが原因と思われます。故に趣向の変化を望むならば、是非とも用語の区域を広くしなくてはならず、用語が多くなれば、それにしたがって趣向も変化するでしょう。ある人が私を目して、「和歌の区域を狭くする者」と言ったことは誤解で、少しでも広くするのが私の目的でございます。とはいえいかに区域を広くするとも非文学的思想は受け入れません、非文学的思想とは理屈のことであります。

 「外国の語も用いよ、外国に行われる文学思想も取れよ」と言うことについて、日本文学を破壊する者と考える人もあるようであるが、それは既に根本において誤っております。たとえ漢語の詩を作るとも、西洋語の詩を作るとも、ひょっとしてサンスクリットの詩を作るとも、日本人が作った上は日本の文学に相違がありません。唐の制度を模して位階も定め、服色も定め、年号も定めて置いて、からぶった冠衣かんいを着けるとしても、日本人が組織した政府は日本政府と言えましょう。イギリスの軍艦を買い、ドイツの大砲を買い、それで戦いに勝っても、運用した人が日本人ならば日本の勝ちと言えましょう。しかし「外国の物を用いるのは、いかにも残念なので日本固有のものを用いよう」との考えならば、その志には賛成いたしますが、とても日本のものばかりでは物の用には立ちません。文学でも、馬、梅、蝶、菊、文などの語を初めとして一切の漢語を除いてしまうと、どのようなものができるでしょうか。『源氏物語』『枕草子』以下の漢語を用いたものを排斥したならば、日本文学にはどれだけが残るでしょうか。それでもやせ我慢で、歌だけは日本固有の語で作ろうと決心した人があれば、それは勝手次第ですが、それをもって他人を律するのは無用のことです。日本人が皆日本固有の語を用いるようになると日本は成り立たないし、日本文学者が皆日本固有の語を用いたならば、日本文学は破滅するでしょう。

 あるいは姑息にも、「馬、梅、蝶、菊、文などの語は、たいそう古い代より用いてきたので、日本語と見なすべきだ」などと言う人もあるだろうが、たいそう古い代の人は、その頃に新しく輸入した語を用いた者であって、この姑息論者が当時に生まれておれば、それをも排斥したのだろうか。たいそう笑うべき撞着でございます。仮に姑息論者に一歩を貸して、古い時代に使った語のみを用いるとして、もし王朝時代に用いた漢語だけでも十分にこれを用いれば、なお和歌の変化すべき余地は多少あるでしょう。そうではあるが「歌のことばと物語の詞とはおのずから別であり、物語などにある詞で歌には用いられないものが多い」などと例の歌人は言うでしょう。何たる笑うべきことでしょうか。どのような詞でも美の意味を運ぶに足るべきものは、皆歌の詞と言うことができて、これを他にして歌の詞というものはありません。漢語でも西洋語でも、文学的に用いられれば皆歌の詞と言えます。
                      (明治31年2月28日)

8.たび歌人に宛てる書簡

 悪い歌の例を前に挙げたので、よい歌の例をここに挙げましょう。悪い歌といいよい歌といっても四つや五つほどを挙げたとしても、私の意を尽くすことはできませんが、ないよりは優るだろうと言うことでいささか列挙します。まず『金槐和歌集』[実朝の家集]などから始めましょうか。

武士もののふの矢並つくろふ小手の上にあられたばしる那須の篠原

という歌は、多くの人の口が一斉に嘆賞するように聞いておりますので、今更取り立てて言わなくてもいいのですが、なお気づかれないこともあるかと思いますまま一応申し上げます。この歌の趣味は誰しもが面白いと思うでしょうし、またこのような趣向が和歌には極めて珍しいことも知らない者はあるはずはなく、またこの歌が強い歌であることも分かっておりますが、この種の句法がほとんどこの歌に限定されるほどの特色をなしているとは知らない人が多数いるでしょう。普通に歌は、なり、けり、らん、かな、けれなどのような助字によって取り持たれることから名詞が少ないのが通常であるのに、この歌に限っては名詞が極めて多く、「てにをは」は、「の」の字が三つ、「に」の字が一つで、二個の動詞も現在形(動詞の最も短い形)になっています。このように必要な材料をもって充実した歌は実に少ないです。『新古今集』の中には材料の充実した句法の緊密な、ややこの歌に似たものがありますが、なおこの歌のようには一語一語が活動しないと感じます。『万葉集』の歌は材料が極めて少なく簡単なことをもって優るもので、実朝は一方ではこの『万葉集』をなぞらえ、一方ではこのように破天荒の歌を作り出す、その力量には実に測ることができないものがあります。また晴れを祈る歌に

時によりすぐれば民のなげきなり八大はちだい竜王りゅうおう雨やめたまへ

というのがあり、恐らくは世間の人が好まない所と思いますが、これは私が好きで好きでたまらない歌でございます。このように勢いが強い恐ろしい歌は、またとはありません。八大竜王を叱咤する所には、竜王も懾伏しょうふくする[恐れひれ伏す]ような勢いが現れます。「八大竜王」と八字の漢語を用いた所、「雨やめたまへ」と四三の調を用いた所、これら皆がこの歌の勢いを強めた所です。初三句は極めて拙い句ですが、その一直線に言い下して拙い所が、返ってその真率で偽りがないことを示して、祈晴きせいの歌などには、最も適合しております。実朝はもとよりよい歌を作ろうとしてこれを作ったのではなく、ただ真心から詠み出たことが返ってよい歌となったのでありましょう。こうした点は手先の器用をろうして、言葉の操作だけにこだわる歌人どもの思い至らない所です。三句切れのことは、なお他日に詳細に申しますけれども、三句切れの歌にぶっつかったので一言して置きます。「三句切れの歌は詠むべからず」などと言うのは守株しゅしゅ[いたずらに古い習慣を守る、韓非子より]の論で論じるに足りませんが、三句切れの歌は「尻が軽くなる」という弊があります。この弊を救うために、下二句のうちを字余りにすることがしばしばあり、この歌もその一つです(前に挙げた大江千里おおえのちさとの月見ればの歌もこの例で、なおその他にも数え尽くせません)。この歌のように下を字余りにする時には、三句切れにした方が返って勢いが強くなります。取りも直さず、この歌は三句切れの必要を示したものであります。また

物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思う

のような歌は何も別に珍しい趣向もありませんが、一気呵成の所が返って真心を表現して余りがあります。ついでに字余りのことをちょっと申します。この歌は第五句が字余りであるがゆえに面白いのです。ある人は「字余りとは余儀なくするもの」と心得えていますが、そうではありません。字余りにはおおよそ三種があります。第一は、字余りにしたために面白いもの、第二は、字余りにしたために悪いもの、第三は、字余りにしてもしなくてもいいものに分かれます。その中でもこの歌は、字余りにしたために面白いものであります。もしも「思う」と言うのを詰めて「もふ」などと吟じると、興味が索然さくぜんといたします。ここは必ず八字に読むべきであります。またこの歌の最後の句のみに力を入れて「親の子を思う」と詰めたのは、情が痛切であることを表現するもので、もし「親の」の語を第四句に入れて、最後の句を「子を思うかな」「子や思うらん」などとしてしまうと、例のやさしき調となって痛切な情は現れず、したがって平凡な歌となってしまうでしょう。歌人が古来助字を濫用いたします様子は、宋人が虚字を用いて弱い詩を作るのと同様でございます。実朝のような者は実に千古の一人だと思います。

 前日来、私は「客観の歌だけを取る者」と誤解されてきましたが、それがそうではないのは上の例で分かるでしょう。那須の歌は純客観、後の二首は純主観であり、ともに愛唱する所であります。しかしこの三首だけでは強い方に偏っておりますので、あるいはまた強い歌のみを好むかと考えられるかもしれません。なお多少の歌の例を挙げるのをお待ち下さい。
                      (明治31年3月1日)

9.ここのたび歌人に宛てる書簡

 一つ一つ論じるのもうるさいので、ただ二、三首を挙げておいて、『金槐集』以外に移ることにするようにします。

山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも

箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人あま小舟おぶねの綱手かなしも

大海おおうみのいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも

 箱根路の歌は極めて面白いけれども、このような構想は古今に共通の構想なので、実朝がこれを作ったとしても驚くに足りません。ただ「世の中は」の歌のように、古意古調なものが『万葉集』以後において、しかも華麗を競っていた『新古今集』の時代において作られた技量には、驚かざるを得ない訳で、実朝の造詣の深いことは今更言うも愚かでございます。大海の歌は、実朝の始めた句法ではないでしょうか。

 『新古今集』に移って、二、三首を挙げると

なごの海の霞のまよりながむれば入日いりひを洗ふ沖つ白波 (実定)

 この歌のように客観的に景色をよく写したものは、『新古今集』以前にはないようで、これらもこの集の特色として見るべきものです。惜しむらくは「霞のまより」という句が傷であります。一面にたなびいている霞に間と言うのもおかしく、たとえ間があってもそれはこの趣向には必要ではありません。入日も海も霞みながら見えることにこそ趣があります。

ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風 (信明)

 これも客観的な歌で、景色も寂しくえんであるのに、語を畳みかけて調子を取った所がたいへん風変りであると感じます。

さびしさに堪へたる人のまたもあれないおを並べん冬の山里 (西行)

 西行の心は、この歌に表現されております。[西行の歌としては]「心なき身にも哀れは知られけり」[*8]などという露骨的な歌が世にもてはやされて、この歌などは返って知る人が少ないのが口惜しいです。「庵を並べん」と言うような斬新で趣味のある趣向は、西行でなくては言えないだろうし、特に「冬の」と置いたのもまた普通の歌人の手段ではないと思います。後年、芭蕉が新たに俳諧を興したのも、さびは「庵を並べん」などから悟入[深く理解]し、季の結び方は「冬の山里」などから悟入したのではないかと思われます。

 *8: 心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

ねやの上にかたえさしおほひ外面とのもなる葉広柏はびろがしわに霰ふるなり (能因)

 これも客観的な歌です。上三句が複雑な趣を表現しようとしてやや混雑に陥っているが、葉広柏が霰をはじくという趣は極めて面白いです。

岡の辺の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風 (慈円)

 趣味があって句法もしっかりしています。この種の歌の第四句を「答へで」[答えないで]などと言うように、下に連続する句法とすると何の面白味もありません。

ささ波や比良山風の海吹けば釣するあまの袖かへる見ゆ(読人しらず)

 実景をそのままに写し、些細な技巧をもてあそばない所が返って興が多いです。

神風や玉串の葉をとりかざし内外うちとの宮に君をこそ祈れ (俊恵)

 神祇じんぎの歌と言えば、「千代の八千代の」と決まり文句を並べるのが通常であるのに、この歌はすっぱりと言い放したのが、返って神の御心にかなうように感じられます。句の締まった所、半ば客観的に叙述した所などに注意すべきで、「神風や」の五字も訳のないようですが、極めてよく響いております。

阿耨あのく多羅たら三藐さんみやく三菩提さんぼだいの仏たちわが立つそま冥加めいかあらせたまへ(伝教)

 たいへんめでたい歌です[阿耨多羅三藐三菩提は、仏の知徳を称える梵語]。長句の用い方などは古今未曾有で、これを詠んだ人もさすがですが、この歌を勅撰集に加えた勇気も称賛するに足りるだろうと思います。第二句は十字の長句ですが成語であるのでそれほどまで口に溜まらず、第五句を九字にしたのは故意にではないだろうが、この所は故意にでも九字位にする必要があり、もしも七字句などをもって止めたのでは、上の十字句に対して釣合いが取れません。初めの方に字余りの句があるがために、後にも字余りの句を置かなくてはならない場合がしばしばあります。もしかすると「字余りの句は一句でも少ないのがよい」などと言う人は、字余りの趣味を理解しない者ではないでしょうか。
                      (明治31年3月3日)

10.たび歌人に宛てる書簡

 先輩を崇拝するということは、いずれの社会にもあります。それも年長者に対し元勲に対し相当の敬意を尽くすと言う意味ならば当然のことですが、それと同時に、意味も分からずにその人の力量技術を崇拝するようになると愚の至りにございます。田舎の者などは御歌所おうたどころと言えば偉い歌人の集まり、御歌所長と言えば天下第一の歌人のように考え、したがってその人の歌と聞くと、読まないうちからはやくもよいものと定めているなどありがちのことで、私も昔はその仲間の一人でありました。今より追想すれば赤面するほどのことです。御歌所とて偉い人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が座るわけでもないでしょう。今日は歌人なる者が皆無の時でありますが、それでも御歌所の連中よりも上手な歌人ならば民間にあるでしょう。田舎の者が元勲を崇拝し、大臣を偉い者と思い、政治上の力量も識見も元勲大臣が一番に位する者と迷信する結果として、新聞記者などが大臣をけなすのを見て、「いくら新聞屋がホラを吹いても、大臣は親任官で新聞屋は素寒貧すかんぴん、月とスッポンほどの違いだ」などとののしります。少し眼のある者は元勲がどれくらい無能力かということ、大臣は回り持ちで新聞記者から大臣に上った実例があることくらいは承知していて説き聞かせますが、田舎の先生は一向に無頓着で、相変わらず元勲崇拝であるのも腹立たしい訳です。あれほど民間でやかましく言う政治上でなおそうであるとすれば、今まで歌の社会において隠居した老人を崇拝する田舎者が多いことも怪しむに足りませんが、この老人崇拝の旧弊を改めなければ歌は進歩いたしません。歌は平等無差別であり、歌の上に老少も貴賤もありません。歌を詠もうとする少年があれば、「老人などに構わず、勝手に歌を詠むのがいいでしょう」と御伝言下さい。明治の漢詩壇が振るっているのは、老人をそっち除けにして青年の詩人が出たが故です。俳句が外観を改めたのも、月並連つきなみれんに構わずに思う通りを述べた結果に他なりません。

 縁語を多用するのは和歌の悪弊です。縁語も場合によってはよいが、普通には縁語、かけ合せなどがあれば、そのために歌の趣を損じるものです。たとえ言いおおせたとしても、この種の美は美の中で下等なものだと思います。むやみに縁語を入れたがる歌人は、むやみに地口・駄洒落を並べたがる半可通はんかつうと同じく、御当人は大得意であるけれど端から見れば品の悪いことおびただしいです。縁語に技巧を弄するよりは、真率に言い流した方がよほど上品に見えます。

 歌と言うといつでも言葉の論が出るのは困ります。「歌ではぼたんとは言わず、ふかみぐさと詠むのが正当である」とか、「このことばはこうは言わず、必ずこう言うのがしきたりだ」などと言われる人がありますが、それは根本においてすでに私の考えとは異なっております。私の考えは、古人の言った通りに言おうとするのでもなく、しきたりにならおうとするのでもなく、ただ自己が美しいと感じた趣味をなるべくよく分かるように表現するのが本来の主意でございます。故に俗語を用いた方がその美感を表現するのに適していると思えば、雅語を捨てて俗語を用いるようにします。また古来のしきたり通りに詠むこともありますが、それはしきたりであるが故にそれを守るのではなく、その方が美感を表現するのに適しているのでそれを用いただけです。古人のしきたりなどと言っても、その古人が自分で新たに用いた例が多いでしょう。

 牡丹ぼたん深見草ふかみぐさとの区別を言うと、私たちには深見草と言うよりも牡丹と言う方が、牡丹の幻影[イメージ]が早く顕著に出現します。かつ「ぼたん」という音の方が強くて、実際の牡丹の花の大きく凛とした所によく合っています。それゆえ客観的に牡丹の美を表現しようとすれば、牡丹と詠むのがよい場合が多いようです。

 「新奇なことを詠め」と言うと、汽車、鉄道などと言ういわゆる文明の器械を持ち出す人がありますが、大いに料簡が間違っています。文明の器械の多くが風流ではないもので歌には入りにくいですが、もしこれを詠もうとするならば、他に趣味のあるものを配合するほかはありません。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極みです。せめては「レールの傍にすみれが咲いている」とか、または「汽車の過ぎた後で罌粟けしが散る」とか、「すすきがそよぐ」とか言うように他物を配合すればいくらか見栄えがよくなるでしょう。また殺風景なものは遠望する方がよろしいのです。「菜の花の向こうに汽車が見える」とか、「夏草の野末を汽車が走る」とかするようなことも、殺風景を消す一手段かと思います。

 いろいろ言いたいままを取り集めて申し上げました。なお他日に詳細に申し上げる機会もあるでしょう。以上。月日。
                      (明治31年3月4日)


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