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人間万事ブルシット・ジョブ(下)

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前回エッセンシャルワーカーに限って待遇が悪いことが多いことについて触れた。そこで、「給料の低い仕事は楽で給料の高い仕事はきつい、というのは大嘘」であることを述べた。逆に言えば、「給料が低くてきつい仕事」と「給料が高くて楽な仕事」というのは間違いなく現実に存在する。

このような努力や労力と給料が比例しない不条理な世の中で、我々にとって働くこと、ひいては人生にいったいどういう意味があるのか。わたしの読書遍歴を踏まえつつ、それをもう少し考察してみたい。

生きづらい令和社会

この観点から、世の中の不条理を温存させている最たる要素の一つが(中)で触れた公正世界仮説である。「努力は報われる」が「報われない人は努力が足りない」に、「正義は勝つ」が「悪だから負ける」につながることも述べた。

この心理学用語を使うことなく、本邦に明治時代からそういった傾向があることを説いている著作がある。松沢裕作『生きづらい明治社会』がそれだ。

本書で批判的検討の対象になっているのは、「通俗道徳」という世間一般の素朴な道徳観である。具体的には「努力不足を棚に上げて社会のせいにするな」などの自己責任の強調、聖書を出典とする「働かざる者食うべからず」の曲解、生活保護受給者など義務を果たさない者に権利を与える必要はない、といったもの。

まさに現代日本で問題になっている言説ではないか、と思われるかもしれないが、明治時代からあったという。どれを取っても人々に社会の問題点や理不尽など現状を追認させ、社会の問題に目を向けさせない公正世界仮説との親和性が高い。

2020年代の我々はどのような時代を生きているのか。風向きが変わってきているとはいえ、公正世界仮説も通俗道徳も根強く残っている。そのような現状を補強するのが、これから取り上げる「ファスト教養」である。

仕事とファスト教養

「ファスト教養」とは集英社新書のレジー『ファスト教養 10分で答えがほしい人たち』の造語である。

そして、その本質は以下のように語られる。要はビジネスの場においてすぐにその場で自分を高め、よりよく見せるための知識や立ち居振る舞いのようなものと考えてよい。

結局のところ、ファスト教養とは何なのか。その本質にあるのは、ビジネスやお金儲けに関係しない物事を無駄なものと位置づける姿勢にある。この考え方を採用すると、世の中には大量の無駄が溢れている。ファスト教養は、そんな無駄なものを「無駄ではないもの=ビジネスやお金に関係すること」に変えようとするムーブメントであるともいえる。

レジー『ファスト教養 10分で答えがほしい人たち』集英社

ビジネス、金稼ぎの役に立たない事柄は何であっても無駄で不要。コスパ・タイパ至上主義。そして競争相手を蹴落としたり出し抜いたりするために、役に立つ知識だけ欲しい。

そのような需要に応えるのが、自己啓発本を著したり、オンラインサロンやYouTube動画などを通じてファスト教養の担い手として「活躍」するインフルエンサーたち。著者はファスト教養にあるのを新自由主義であるとし、その担い手である安易に他者を馬鹿と断定する俗悪なインフルエンサーたちを批判している。

令和社会を構成する人々のメンタリティを批判的に表現したフレーズとして「今だけ、金だけ、自分だけ」というものがある。短期的なマネタイズに奔走し、他者を慮る余裕を失った状態。ファスト教養も同根の問題だろう。

著者は小泉信三慶応義塾長の著書から慶應義塾大学工学部長の谷村豊太郎教授の言葉「すぐ役に立つ人はすぐに役に立たなくなる」を引用しているが、一言で本質を言い当てている。「即戦力の人材を育ててほしい」という実業界の要請に対する回答だそうだが、けだし名言である。今すぐ役に立つ知識など、付け焼刃のかりそめのものにしかならない。

ポスト・ファスト教養

わたしが本書を気に入っているのは、安易に「古き良き教養」の復権を謳って何か高尚なことを主張した気になって終わりになっていないことだ。わたしを含め、我々は俗世間から超然とした世捨て人になることはできない。

SMAPの楽曲「Joy!!」の歌詞に「無駄なことを一緒にしようよ」という一節がある。これはビジネス、金稼ぎの役に立たない事柄を「無駄」として切り捨てるファスト教養の、これ以上ないほどのアンチテーゼである。無駄と思われることに夢中になり、そこから「ビジネスに役立つ、と異なった形の学び」に触れられれば、これほど嬉しいことはないだろう。

また、本書ではオードリー若林が世界各国を一人旅したり、東大の学生を家庭教師としたりすることを通じていろいろなことを学んでいることを取り上げている。中でも、自分の身近な人を含めてあらゆる人を競争相手とみなす新自由主義を知るために、あえてその正反対の政策を取る社会主義国キューバへ赴いた彼の柔軟性や行動力には脱帽するばかりだ。

まさに彼が体現しているのがファスト教養のアンチテーゼ、いわばポスト・ファスト教養ではないか。その本質は自分にはない知識、思想、価値観に出会うことにあると思う。

働く意味・生きる意味

何度も回り道をしてしまった感があるが、ここでようやく、わたしにとっての働く意味と生きる意味を述べていきたい。働く意味も生きる意味も決まりきった答えがない、現代人永遠の悩みだが、これを機に自分なりに考えを彫琢してみることにする。

正直今のわたしにさしたる働く意味はない。死なないために生きていると言っていい。

ユダヤ系アメリカ人の思想家として知られるハンナ・アレントは『人間の条件』において、人を人たらしめる条件として「仕事」「労働」「活動」の3つの営みを挙げる。このうち、仕事(work)と労働(labor)は一見意味が同じだが、アレントはこの2つを区別して定義している。

本書の眼目は近代の特徴として、哲学者の理想とする「観照的生活」が「活動的生活」その中でもとりわけ「労働」に取って代わられた、という主張にある。

「仕事」は長く維持できるもの、その人が死しても残るものを制作する営みであるのに対し、「労働」は生命を維持し、消費を前提とするための生産を行う営みとして定義される。まさに消費のために生きる「労働する動物」だが、自然科学やテクノロジーにおいて発展が中心概念となったことで、この労働する動物が幅を利かせるようになった。

ここに『ファスト教養』で述べられていた「ビジネスにすぐに役立つ知識」を摂取し、労働を通じて消費することを営々と繰り返す現代人の姿を想起する。労働による人間性の喪失=マルクスが述べた労働による疎外。滅私奉公を強いられるディストピアに近い。

わたしは本書を読んで思った。「労働」よりも「仕事」をしたい、と。そういえば、“work“には「仕事」だけではなく「作品」の意味もある。自分で言っていて恥ずかしいが、働くということは、単に生活のための手段という側面だけでなく、自分なりの成果、言い換えれば作品を残すということなのだから。

勇ましい高尚なる生涯

明治27(1893)年、キリスト教思想家の内村鑑三は「後世への最大遺物」と題した講演で、誰でも後世の人々に遺すことができるものとして「勇ましい高尚なる生涯」を挙げている。

金がある人は金を、事業を興した人は事業を、思想を(著作などで)世に知らしめた人は思想を遺せばいいが、それよりも価値があるのは、「勇ましく高尚なる生涯」を後世に伝えること。それは取りも直さず、この世が悪魔ではなく神が支配する世の中であること、失望ではなく希望の世の中であること、悲嘆ではなく歓喜の世の中であると信ずること。

重ねて内村は聴衆に語りかける。ここに一つのつまらない、金額的には大した価値のない教会がある。この教会を造った人は貧乏で学問もなかったが、浪費や欲情を節制し己の力で造った。自分たちが100年後に生まれ、そのような歴史を繙いていると仮定してごらんなさい。そうすれば、「この人にもできたのだから、自分にもできる」と勇気が湧いてくる。

内村の言う遺産として残すほどの金がなく、自分で事業を興したわけでもなく、著作として残すほどの立派な思想がない人、とはまさにわたしのことである。わたしを含め多くの人はそうであろう。人生において、「自分でもできそう」と思うことは大切だ。なけなしの自己肯定感を駆使して、できることを実行していき、できることを増やしていこう。

「義を見てせざるは勇無きなり」とか「自ら顧みて縮くんば、千万人と雖も我往かん」ではないが、仕事でも仕事と関係のないことでも、自分が正しいと思ったことは勇気をもって実行していく。サウイウモノニ、ワタシハナリタイ。

むすび

人の世は何が起こるかわからない、人間万事塞翁が馬というが、不条理(ブルシット)に満ち溢れている。ブルシットな世界を勇敢に、たくましく生き抜いていこうではないか。これを結びの言葉としたい。

偶然に目を向ける、自分の運の良さを知る。そういったことの重要性もここで語りたかった。が、分量が増えて据わりも悪くなりそうなので、もう一つ記事を立てて語ることにする。

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