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人間万事ブルシット・ジョブ(中)

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ブルシット・ジョブ

この記事は上・中・下の三部構成だが、ようやくタイトルにもなっている「ブルシット・ジョブ」について触れられる。なぜこの話題なのか?それはわたしが仕事について語る上で避けては通れない話題だからである。

ブルシット・ジョブ(以下、BSJと表記)は米国の人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが提唱した「無駄な仕事」の類系である。BSJは「クソどうでもいい仕事」とも訳される。彼によると、20世紀以来の自動化と生産性向上の結果、労働時間は短縮されず、代わりにBSJと呼ばれる「無駄な仕事」が生まれている。

ちなみにブルシット(bullshit)は直訳すれば「牛の糞」だが、「嘘」「でたらめ」スラングである。

BSJ は以下5つに分類される。
・取り巻き(不要な受付係など他者を偉く見せるためだけの仕事)
・脅し屋(雇用主のために他者を脅すロビイスト、顧問弁護士などの仕事)
・尻拭い(所属する組織の失敗を取り繕う、粗雑なコードを修復するプログラマなどの仕事)
・書類穴埋め人(実際にない仕事をやっているように見せかけるための仕事)
・タスクマスター(他のBSJに人を割り当てるための仕事)
いずれも他者に自分を忙しいことをアピールしたり誤魔化したりと「やってる感」を演出するような無意味な仕事ばかりだ。「仕事のための仕事」と言ってもいい。

グレーバーの著書『ブルシット・ジョブ ークソどうでもいい仕事の理論』を訳した酒井隆史氏は自著『ブルシット・ジョブの謎 ークソどうでもいい仕事はなぜ生まれるのか』で、資本主義が未熟なのではなく、高度に発達してきたからこそBSJが生まれていることに言及している。

近代資本主義が発達は、かのヴェーバーが詳らかにしたように、勤労を自尊心と結び付ける宗教改革を経て生まれたプロテスタントの労働倫理にその起源がある。要はBSJは苦痛な仕事をすることが美徳だからこそ生じる、クソどうでもいい仕事なのだ。

BSJとエッセンシャルワーカー

ここからは先に挙げたBSJの話題とわたし自身の過去の経験を踏まえて、現在の仕事観について語りたい。

前回語ったのは「仕事というのは、給料と大変さが比例するわけではない」ということ。つまり楽な仕事は低賃金で、きつい仕事は高賃金というふうにはなっていない、ということだ。何を今更当たり前のことを、と思うかもしれないが、わたしは長年素朴に給料と大変さが比例すると信じていた。

実際はどうか。給与額を決めるのはその仕事の大変さでもないし、社会的意義の大きさでもない。もし後者だったら、コロナ禍で注目された、医療や福祉、物流、運輸、交通、清掃といった業界の現場で働くいわゆるエッセンシャルワーカーはもっと高額な給料をもらっているはずだ。

だがむしろ、実際のところ待遇がいいのはBSJで、エッセンシャルワーカーに限って待遇が良くないと言っていい。ではどのように決まるのか?それは仕事の単価の高さ、潤沢な資金があるという環境の良さ、金払いの良さだ。

わたしの場合は、今の会社は前の会社よりも上流工程の案件が多いからか単価が高く、従業員数や売上額も上回っているため、資金も潤沢だったということだろう。金払いがいいと人が集まる好循環と、金払いが悪いと人が離れていく悪循環がここにある。

では仕事が大変であればあるほど、給料も高くなるといった安直な考え方の根底にあるのは何か?それをこれから語っていきたい。

公正世界仮説というブルシット

公正世界仮説、という考え方がある。認知バイアスの一つで、簡単に言えば世界は公平公正にできており、努力は報われるように、正義は勝つようにできているといった素朴な道徳観に支えられている。仕事が大変であればあるほど、給料も高くなる、というのもまさにこの公正世界仮説だ。

一見もっともかもしれないが、実はこの考え方には陥穽がある。それは報われない人は努力していない、負けるのは悪だからといった考え方につながってしまうことだ。

公正世界仮説の理論に則れば、エッセンシャルワーカーが過酷な労働環境や低賃金に苦しむのは努力が足りないから、ということになる。本邦に四半世紀にわたって巣食う、新自由主義に基づく自己責任論そのままではないか。これだけで公正世界仮説が、如何に欺瞞に満ちたインチキかということが痛いほどわかる。ブルシット以外の何物でもない。

公正世界仮説が言わんとしているのは、頑張り屋が報われて怠け者が罰せられる。というまさに因果応報である。余談であるが、わたしはこの世の儚さ、無常さを痛感して一時期仏教に帰依しかけたことがある。

だが、諸行無常であることは信じられても、因果応報という考え方にどうしても馴染めず、結局有耶無耶になったまま今に至る。因果応報というのは、公正世界仮説の同義語に過ぎない。

そうでなければ、2000年以上前に司馬遷が「天道是か非か」と喝破したように、数多くの盗みや殺人を働いた盗跖が安楽に天寿を全うし、伯夷・叔斉のような忠節の士が餓死という形で非業の死を遂げることはなかったのではあるまいか。

善人に善行の報いが、悪人に悪行の報いがあるとは限らない馬鹿馬鹿しいこの濁世こそがブルシットなのかもしれない。


ここまで仕事についていろいろ語ってきたが、語りたいことはまだ残っている。公正世界仮説を支える新旧の思想、働くことを通じてどのように生きたいのか、といった話題である。それは次回(下)で語ることにしたい。

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