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昼下がりの陽炎

「彼女欲しい……」
呟くようにして出たその言葉は、誰にも聞かれることなく夏の青空に溶けていった。

泣きたくなるほどの晴天。7月末の昼下がりには、まだ遠慮がちな蝉の音がどこからか聞こえてくる。帰り道を歩く僕に、隣を行く『君』はいない。
初夏と呼ぶには熱すぎる日差しは、僕にある種の幻覚的な思考をもたらしていた。

僕は先ほどほとんど無意識化で「彼女が欲しい」と言ったが、究極的には別に特定の彼女が欲しいわけでは無い。

『結婚したい。イチャイチャラブラブしたいんじゃなくてずっと側にいてほしい。』それが僕の持つ願望の正体である。

もういっそ最悪誰でもいいのだろう。僕が必要としているのは側にいて、僕のことを理解してくれている人間である。長い時間を共に過ごし、僕を本当の意味で認め、分かってくれる存在だ。

『憧れ、憧憬、夢』きっとこれはそう呼ばれる類の妄想なのだろう。

恋仲とは見せたい部分も見せたくない部分も全部さらけ出した先にあるものだと思う。清濁ごった返して人間を見せ合い、その上でお互い一緒にいることを選んだ関係を僕らはそう呼ぶのだ。浮雲のように沸いては消える男女の関係もまた一つなのだろうけれど、この関係を経ないでは辿り着けない境地でもあるはずだ。

しかしその理想は、僕にはある種のナルシズムとエゴの塊にも見える。大層な理想をぶち上げて、その理想を語る自分に酔い、相手にもその理想を押し付けるエゴだ。それでいて自分が受け入れられなければ「理解してくれない!誰か理解してくれ!!」って言って悲劇ぶって泣き叫ぶ。まるで悲劇のヒロイン、王子様を待つ眠り姫そのものだ。


そういうのはもうやめよう。待ってたって王子様は来ないんだから。

認めよう。僕は傷つきたくないだけなのだ。たいそうな理想を語り、悲劇を泣き叫ぶくせに、自分からは一歩も踏み出そうとしない。変わるのが怖いから、傷つくのが怖いから。

だが、誰だって傷つきたくは無いのだろう。その関係性を壊したくはないのだろう。楽しい思い出が悲しい思い出に、昨日までの日常が明日からの憧憬に変わる。そんなリスクを誰も犯したくはないのだ。

それでも、それでもなおその一線を踏み越える思いがあるならば、人はそれを「恋」と呼ぶのだろう。そして、きっとその先にしか僕の描いた理想は無い。


初夏の日差しに湧いて出た、とりとめのない思考と、行き場の無い焦燥に僕は溺れた人のようにもがく。

「彼女欲しい……」

再び口をついて出た言葉は、初夏の陽炎の中に虚しく溶けていった。

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