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【『ソトコト』9月号:“サステナブルデザイン”】

ソトコト』毎号連載中の“サステナブルデザイン”“Life Style”について1ページ書かせてもらいました


今回書かせてもらったのは岡山県瀬戸内市長島の『 喫茶さざなみハウス/長島アンサンブル 』です
こちらは元ハンセン病患者が入所している国立療養所長島愛生園内(以下:園)にあります
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僕がこの場所を知ったのはお世話になっている人から
岡山に鹿児島と同じ長島という名前で景色も似ているエリアがあること
そして、その島内に40年程前にハンセン病患者で構成されたハーモニカ楽団“青い鳥楽団”(※)の存在を聞かされたのがきっかけでした
「苦しみのどん底で命を絶つ方法を模索していた」
自身の著書『闇を光に』で、そう話していたのは“青い鳥楽団”指揮者の故・近藤宏一氏
近藤氏は10歳でハンセン病で母を失い、1938年、11歳で園へ入所しました
近藤氏はハンセン病の影響で失明と手指の欠損
キリスト教を信じ、島内にある教会に通うことだけが彼の唯一の生きがいだったといいます

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癩(らい)(※)と盲と四肢障害の三重苦、もしくは別の病気で四十苦を背負った入所者たちもいました
中にはハンセン病患者に対する差別や隔離政策により
家族、そして社会のどちらとも分離され、何を信じればいいかわからない者さえもいて視覚だけでなく、本当の闇が彼らを包んでいたともいわれています
そんな彼らが光を見い出すきっかけはハーモニカでした
ある人はハーモニカに慰められ、ある人は療養生活の友としてきたと聞いています
そして、孤独の中で自己を慰めるのではなく、十数名の仲間が一つの楽曲を心を合わせて演奏する喜びと楽しみを見出していきました
しかし、当初は楽器の不足、音楽的知識の未熟さがあり足りないものだらけだったみたいです

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その中で、どうしても習得しないいけないことがありました
それは点字楽譜でした
一般社会の盲人にとって点字は盲人の第1の動作とさえいわれるほど視力障害者には切り離せないものとされていますが、癩を病んで指先の知覚を奪われている人にとっては至難の技だったのです
ただ一つ知覚の残された口唇や舌先はその痛ましい姿を超越して文字通り血の滲む努力を重ねながら、これを読破するに至ったといわれています
楽団員のほとんどの者は何より音楽が好きでした
だからこそ血の滲むような点字習得の努力も、夜遅くまでの練習も苦とせず、それぞれ明るさを取り戻していったといわれています
見えない瞼の裏に無数の音符の列を刻みながら
楽団員一人一人はいつの間にか生活の中から楽団の存在が不可欠なものになっていったのです
楽団員の癩に対する苦悩は、そのまま“青い鳥楽団”に結びついていきました

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もちろん、楽団以外にもそれぞれのできることで楽しみや生きがいを見出し長島で日常を送っている人たちもたくさんいます
釣りだったり、ゲートボールだったり、編集だったり
どうしてもハンセン病に悲しい歴史の背景が先走りしてマイナスなイメージを持たれてしまいがちですが
入所者の皆さん、いい顔して生活されています
僕が初めて長島愛生園に足を踏み入れてのは昨年3月でした
店主の鑓屋さんとカウンターで話をしていると
入所者の人が声をかけてくれました
その人は園内の自治会長さんで世間話も含めて色々お話してくれました
僕はハンセン病の背景しか頭になかったので入所者の人とお話しするのは生まれて初めてでした
話しているうちに
「何だか、地元によくいるおじさん、人生の先輩みたいだな」
と思ったんです
きっとこの場所を訪れた人はそう感じる人は多いと思います
ハンセン病の背景だけじゃない
そこを乗り越えて今を楽しく・逞しく生きている人たちの日常を垣間見れる
そんなことを体感できる場所です
岡山市内から車で1時間くらい
喫茶店からも長島周辺からも綺麗な海が望めます
また園内の少し離れた場所になりますが、精神科医としてハンセン病患者と向き合った神谷美恵子医師が寄贈した記録や文献が保管されている空間もあります
この機会に長島に足を運んでみられてください
※青い鳥楽団は1953年結成、メンバーの高齢化もあり1978年にその活動の幕を下ろすことになる
※癩(らい)とは、ハンセン病の原因であるらい菌のこと。主に表在の末梢神経に障害を起こす。

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