【読書日記】6/14 6月はどんな月?「季節のかたみ/幸田文」
季節のかたみ
幸田文 講談社文庫
梅雨です。今日は雨降りではなかったのですが、空気がしっとりと水気を含んで肌にまとわりついてきます。
そんな梅雨時ですが、幸田文さんの文章で読むと一味違います。
「うるおう」と題された見開きページにおさまる掌編。
と始まり、六月の田畑、草木が潤い、青々と繁茂する様を愛で「青さも潤沢、水も潤沢な六月の旅が私は好きである」と綴ります。
この時期の緑の繁茂ぶりはあまりにも獰猛で、山間の集落に生じた空き家があっという間に雑草や蔓性植物に蹂躙されていく様をみると、私なぞは怖ろしや、と感じてしまうのですが、その生命力を支えるのが「うるおい」であるというのはよくわかります。
しかし、後半でおや?という展開に。
ん?
頭の上に乳酪(バター)?
あぶらがとけてうるおってくる???
私のイメージの仕方が悪いのか、トゲトゲした心がやわらぐ気も、心が静まる気もしない。
疑問符がたくさん浮かんできます。
「なるほど」、じゃないです。幸田先生。
この衝撃の文の後に「六月はうるおう月、濡れそぼつ月、私は好きだ。」ときれいにまとめないでください・・・。
私は、幸田文さんの随筆が好きで良く読みます。(5/8「幸田家のことば」参照)
その考え方や教えに私淑しているのですが、これは・・・何度読み返してもわからないです。
向田邦子さんの随筆の中に「昔の年寄りはあぶらっけを大事にした」という趣旨の文章があったことを思い起こすと、あぶらのもたらす潤いが貴重だった時代の感覚なのかなあとも思っています。
本書「季節のかたみ」は、幸田文さんが雑誌などに連載した随筆をまとめたものですが、四季をテーマにした文章が多くて、読んでいて美しい光景が目に浮かびます。
冒頭に紹介したのは「くくる」という家庭画報に1967年の2月から12月まで毎月連載した掌編の六月のものです。
本書におさめられた「季節の楽しみ」という一篇は、幸田さんの季節のあれこれへの向き合い方が現れています。(こちらは暮しの手帳1973年ごろ)
「季節の移り変わりを見るのが、わたしは好きです。」と始まります。
季節のことを特別に見ようとするというよりも、それが癖である、と。
昔は「なにかと季節へ交際をもつ人」が今より多かった、と。今のように石油がなくなるからと彼岸を思い出し、手に入れば春とも言わなくなる風潮を批判します。(オイルショックの頃の話と思われます)
そのことに関して、環境が変わって季節を感じにくくなったせいだ、という人に対しては胸がすくような反論をしてみせる。
季節の感じ方、向き合い方にもその人の品格が現れるという教え。そして、都会に住んでいるから、人工物が増えているから、と季節を感じられないなどという怠惰で鈍感な心持への叱咤。
思わず背筋が伸びてしまいます。
さらに、季節と向き合うことでありがたいことは「前向きの心でいられること」といいます。
だから、「季節に連れ立とうとすれば、私もひとりでに前向きになっているわけです」と。
私の心持が生来悲観的にできているせいか、愛らしい花を見つけたり、うっとりするような光景を見た時にそのことを喜ぶよりも「ああ、この瞬間が過ぎ去ってしまう」とその移ろいを儚さを惜しんでしまいます。
「前向きの心」で季節に向き合う心がけでいれば、また、違った目でみられるように思います。
うん、やっぱり幸田文さんの教えはためになります。
事務用箋の湿気で鉛筆の滑りが悪いことや訪問先のスリッパがなんだかじめっとすることなども、この時期ならではだなあ、と前向きに思うことにします。