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祖父の陣中日誌(改訂版)

以前に祖父の陣中日誌についての記事を書いたのだが、写真や情報を追加した改訂版を投稿したいと思う。


「陣中日誌」というものをご存知だろうか。

本来は「戦地の日誌」と定義されているものの、なぜか私の祖父が残した陣中日誌は「満州での滞在と、そこから帰国し召集解除されるまでの日誌」だった。

ずっとやろうと思っていた日誌の文字起こしをようやく終えたので、写真と共に記録として残しておこうと思う。

祖父の陣中日誌について

書かれている期間は、1939年12月14日(昭和14年)から翌1940年1月24日(昭和15年)までのわずか1ヶ月足らずのこと。
1939年6月に起きた第二次ノモンハン事件に伴う増兵として8月から満州に滞在し、そこから東京に帰り召集解除されるまでの日誌だった。

何故その期間しか書かなかったのかは分からない。
面倒だったのか、書いていたけれど無くしてしまったのか、帰路になって急に書く気になったのか…。

先に書いておくと、祖父自身は90過ぎまで長生きし、亡くなる直前までもマックのチーズバーガーが大好きなくらいすこぶる元気だったので、暗い展開はない。

なお、祖父が最初に滞在していたのは「東安」という場所で、ソ連との国境沿いの街ではあるものの、第二次ノモンハン事件の戦地とは反対方向で実際の戦闘はなかったらしい。
加えて、渡航後すぐに停戦となったため、実質待機の方が多かったようだ。(「大連」での待機期間に日誌を書き始めたのかもしれない)

  • 手書き&旧字体が多いため、一部判読できていない箇所もあり

  • 「*」の箇所は判読できなかった箇所

  • 「?」の箇所は自信が無い箇所

  • 親族の名前の部分は○○と伏字

  • 祖父は東京暮らし

  • 当時の満州(大連)や銀座に関する描写あり

もし、不明箇所についてと分かる方がいらっしゃれば、コメントいただけると幸いです。


陣中日誌

表紙。
80年近く経っているためぼろぼろだが、「陣中日誌」の文字は読み取れる。

表2には特に何もない。

地図

冒頭には地図が掲載されている。タイトルは「東洋要図」で、見慣れた形ながらも「日本帝国」や「満洲国」など時代を感じる表記があちこちに垣間見える。

「南支及中支方百要図」。
台湾から西側の地域を中心にクローズアップして描かれた地図。左下の方にはベトナム(ハノイ)も見える。

「漢口方百要図」。
湖北省を中心に、鉄道や道路まで記載された地図。

明治天皇御製/勅諭

天皇による歌と勅諭。

日誌

ここからが日誌本編となる。

昭和14年12月

14日 木曜 晴
大連商業中
慰問袋を受く
衛兵につきたるも明日旅順行のため交たいす。天好天好
久々に味はいたるチーズに内地を思ひ浮ぶ
裏山に登り市中を行軍して帰る

15日 金曜 晴
延々四十八(将?)の旅大道路をドライブ旅順見学に行く
先輩の悪戦苦闘せう地を見新なる感激に打たる
今日は露軍智将コンドラテンコ小将の戦死せる日

16日 土曜 晴
午後裏山に登り満人街を歩く
五十分間自由行動
支那芝居で西遊記をやつていた
満人街はどこでも同じだ
夜国婦の主さいで極楽㑹がある
一時閉㑹

17日 日曜 晴
午後全員呼集
チエンストアストリートの前で解散
*連通の幾久屋で黒ダイヤを買ふ
ニュータイガー
PERROQUETUダンスホールへ行く
半日を愉快にすごした

18日 月曜 晴
今日は食事番
夕食後*鎧街へ一寸行く
十二時迄眠れず

19日 火曜 晴
午後京亜煙草㑹社を見学に行く
サエの繁速さに驚かされた
一時間自由行動
ドミノ等でお茶を飲む

20日 水曜 晴
荷物の整理等をし一日が終る

21日 木曜 晴
外出の豫定なりしも外出なし

22日 金曜 晴
午後から外出
ドミノマルキタなどで御茶
福*で壽しを食ふ
トラムプを買ふ
イタ(?)を買ふ
豊島戦隊で脱柵、不時点呼あり

※祖父はモールス信号を理解してたため、「・— —・」は「イタ」か? と解釈

23日 土曜 晴
いよいよ明日出発に決る
まだ少し居たい様に思はれる
明日は早いので寝る

24日 日曜 晴
起床四時出発の準備をする
萬事よくはこぶ。
八時半出発徒歩行軍で埠頭に至る
大連の街がなごり残しい。
午後乗船。大変なこんざつなり、
四千人との事
水平線に日の沈むのを見る

25日 月曜 晴
昨日は不寝番だつたので馬鹿にねむい。
体操。五分間
師走とひふのに船内は非常な暑さだ。
早く此船路が終ればいい

26日 火曜 晴
左航に朝鮮半島を見る
三笠丸に十時頃追越さる
今日は熱が有って寒けがする

27日 水曜 雨曇
今朝門司着
内地に来ると早速雨に見舞れた。
午前中検仮。
午後*恫宇品に向ふ

28日 木曜 曇
今朝宇品着
午後より検渡(?)を行ひ夜終る
フオルマリンで目がいたい
二度と比ダなへ来るもんじやない

29日 金曜
五時三十分起床
七時百合丸はアンカーを上げ宇品港に向ふ
八時より陸揚開始、十一時頃陸上第一歩をふむ
廣島駅附近で中食の後四時*東京に向ふ。
岡山九時頃通過
大阪あたり迄覺えて居たが後は・・・

30日 土曜 晴
名古屋の少々前で目をさます
六時五分名古屋着
日の出だ。満州より一時間早い
朝食をすます
十時大井川を渡る
富士山がよく見える
夜聯隊に入る
十時半就寝

31日 日曜
聯隊はどんどん復員して居る
戦用品を返納する
ぼろ服を受領する
夜明けの式にでるぼろ服を受領す、これもぼろ服也
俺達もすぐ帰郷できる

昭和15年1月

1日 月曜

逢*式を行ふ
今月中には解除になる
外出なし
酒保等へ行つて一日を過す

2日 火曜 晴
九時頃より外出家に行く
○○さん○○君等に㑹ふ
銀座で御茶を飲んで居て遅れそうになつたので
円タクで聯隊に入る

3日 水曜
朝がばかにつらい
一日だらだらと終る

4日 木曜
勅語奉読式ニ參列
午後から五中隊に編入さる
四班だ
解除(通?)し
午前中に慰問袋を受く○○さんより


5日 金曜 晴
外出
オリムピツクで朝食
十時半頃家へつく
○○家訪問再び家へ帰る
ニ時頃、家を出
銀座へ行く
ダツトへ半年ぶりで行き五時聯隊に入る

6日 土曜
解除十七日
午前中遊び
午後から五中隊に居候になる

7日 日曜
酒保や食*(倉内?)で一日を暮す
火災招集あり
夜娯樂㑹あり
相不変一人よがりの連続で面白くない

8日 月曜
觀兵式
午後外出。
柏附近を散歩

9日 火曜
精心訓話
銃剣術
石井曹長に竹刀でなぐられた
午後は山田中尉殿の學科

10日 水曜
聯隊に於ける最後の徴兵につく
寒くてまいつた風強し

11日 木曜
午前農場開墾
午後は練兵場で書


12日 金曜
午前中山田中尉殿指揮で**掘をする
午後完成
晩除隊君の送別㑹
自分等も十七日には送られる身

13日 土曜 晴
福島松下津田吉田石井芝等
招集解除になつた。見送をす
午後内*班の掃事をする
小*等の解除も迫る。
***年兵の出発**を*やる

14日 日曜 晴
最後の外出をする
家へ歸つて服の相談をする
銀座で堀内川下に㑹ひ手袋を買ふ
紫烟荘でお茶を飲む
五時聯隊に入る

15日 月曜 晴
**解除になる。
要*初年兵出*
小生等も後三晩で解除
擬似僔セン瀇(?)発生、隔離さる
夕食八時頃

16日 火曜 晴
今夜一晩で命令が出る
本当は今日解除だつたそうだ
七時半夕食
早く寝る

17日 水曜 晴
兵器の分配
午前午後
L
S
早く寝る

18日 木曜
午前中演習
久しぶりに聽音機をかついだ演習も之で終りだらう
午後は手入
夕方菓子を食いすぎた

19日 金曜
被服返納
解除準備進む
夕方慰問袋がとどく
防疫規定
解除になる

20日 土曜 晴
内(?)*班がへを行ふ。ボリビヤ武官見學に来る
目標柱に登つた
母参官の伯母さんが面㑹に来る
服を持つて来てもらう
解除のねを待つばかり

21日 日曜 晴
外出。名倉小川田中朝君と銀座へ行き映画を見フロリダで食事
ダツト御茶房・門・ボタン等でお茶をのみ
五時聯隊に入る

22日 月曜 晴
午前中待期㑹報ラツパを待つ
大隊長中隊長殿に申告を終る
㑹報ラツパなる
待ちに待つた命令出る送別㑹

23日 火曜
九時召集解除
二度と来ない
角松屋で九一㑹を開く
夜名倉場田小峰菅田稲垣古川岩タて氏等と銀座スエヒロで食事をす

24日 水曜
一日家に居り
夜親族(?)と㑹食

空白のページと白木屋

日誌はここで終わっており、残りは白紙となっている。解除になったためだろう。

白紙が続く。

白紙続きの中、なぜか唐突に白木屋の判子(の切り抜き?)が貼ってあった。
白木屋といえば、かつて日本橋にあった百貨店の先駆け的存在である。
祖父は日誌の中でも銀座などに出かけていたため、その時に白木屋にも行ったのだろうか。それにしても陣中日誌に貼って良いものなのか。

通信メモ

後半はメモ帳的なページになっており、誰かの名前と住所が書かれていた。

白紙のメモページ。

「通信メモ」用のページ。
名前は同じ隊にいた人たちか。住所は召集解除の場所だろうか。このあたりは兵役に関するメモらしい。

これも同じ隊のメンバー名だろうか。

メモは少なく、あとは空白だった。

日常支那語

場所柄、現地の言葉を覚える必要があったのだろう。

隊で必要となりそうな言葉が書かれている。
そういえば、祖父は生前少しだけ中国語を話してくれたような気がする。

自由記述欄もあるが、空白だった。

上官氏名/氏名住所

上官の氏名などを書くページだが、何も記載がなかった。

一方で、「氏名住所」ページには数名の名前と住所が書かれていた。隊の人たちだろうか。なぜか一人だけはイニシャルで書かれていた。

手控

祖父の住所と名前が書かれたページ。「所有兵器番号」だけが異質さを感じる。
隣は「七回生まれ変わっても国に尽くす」という意味の言葉らしい。重く暗い時代を感じる。

表3には何もない。

裏表紙には桜と星の印。
元々この陣中日誌には背表紙もついていたのだが、劣化と共に剥がれてしまい、左の筒状の紙はその名残である。背表紙の中身は他の冊子の余りで作っていたようだ。

後記

ちょっとぶっきらぼうで、でもきっちり毎日真面目に書き、合間に素直な感情が垣間見える文章は、まさに祖父そのものだった。

祖父からはいわゆる「戦争のはなし」を子供の頃によく聞いていた気がするのに、覚えているのは「何度も船が転覆したけど何度も助かった話」と「夜中に大きな大きな流れ星が現れて空一面が急に明るくなった話」くらい。

実は祖父が当時どこに行って、どういった足跡をたどったのかは全然分かっていなかった。聞くチャンスもたくさんあったはずなのに、逃したまま祖父は亡くなってしまった。

ある程度時間が経ち、後悔していたところ「戦場体験放映保存の会」主催のイベントに出会ったのが、今回文字起こしをちゃんとやろうと思ったきかっけだった。

イベントにいた、当時の情勢に詳しいHさんに陣中日誌やその他残っていたものを見ていただいたところ、ご厚意で祖父の足跡を調べていただいた。
これにより、ぼんやりと「戦争に行った祖父」でしかなかった記憶がより鮮明に、一人の人間としてあの時代の中をどう生きていたのかがつかめるように。さらにハッキリさせるためにも、今回日誌の書き起こしを行った。

調査にご協力いただいた会の方には、改めて感謝申し上げます。


補足:祖父の足跡

前述の調査にて分かった足跡は以下の通り。

  • 1939(昭和14)9月16日、第二次ノモンハン事件停戦

  • 1939(昭和14)年10月1日、砲兵上等兵を命ず

  • 1939(昭和14)年9月27日より同年11月22日まで、東安に於いて待機

  • 1939(昭和14)年11月23日、東安出発

  • 1939(昭和14)年11月26日、公主嶺着
    ※現在は中華人民共和国吉林省四平市

  • 1939(昭和14)年11月30日、関参動六三〇により関東軍臨時第二十一照空
    隊の編成を解除

  • 1939(昭和14)年12月7日、公主嶺出発

  • 1939(昭和14)年12月8日、大連着

  • 1939(昭和14)年12月24日、大連港出発

  • 1939(昭和14)年12月28日、宇品港着

  • 1939(昭和14)年12月29日、広島上陸同日出発

  • 1939(昭和14)年12月30日、高射砲第二聯隊に帰還。同日第五中隊に配属

  • 1940(昭和15)年1月13日、昭和14年陸支機密第二三三號により召集解除

  • 1940(昭和15)年1月23日、善行証書付与

補足:出てきた店舗や社名など

日誌に出てきた店舗名などを以下にまとめておく。
(今も残っているのはスエヒロだけ?)

  • 幾久屋

  • PERROQUETUダンスホール

  • 京亜煙草㑹社

  • ドミノマルキタ

  • オリムピツク(オリンピック)

  • 銀座 ダツト(ダット)(お気に入りだったようだ)

  • 紫烟荘

  • 銀座 フロリダ

  • 銀座 門

  • 銀座 ボタン

  • 角松屋

  • 銀座 スエヒロ

  • 日本橋 白木屋


その他、大正時代の家計簿や昭和の煙草など、古い品々の記事はこちらにまとめています。

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