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背中6   憑 狂 ~ツキクルウ~

 さゆみが一人で行っていた尾行に、斗真も手を貸すことになった。そのおかげで、百合子の家のすぐそばに張り付くことが出来るようになったわけだが、男性が見張っているとなると、通報される危険性が増す。基本的には、百合子が日常的に利用している駅で待ち伏せすることにした。
 百合子はなぜか外出にタクシーを使わない。尾行する身としてはありがたい。

 斗真が百合子を見た第一印象は、美人だけれど地味な女性だというものだった。駅で待ち伏せして、外出から帰ってきた百合子の後を尾けたのだが、彼女の美貌に振り返るような人はいない。橋田坂下の絵を見ていたので、目を瞠るような美女が現れると想定していたものだから、危うく見逃すところだった。

 百合子は足音など全くたてていないのではないかと思うほどに静かに歩く。お屋敷町の静謐な空気に溶け込むように。その歩き方もどこか、わざと気配を消しているように不自然な、生気を感じさせないものだった。

 本当にこの女は生きているのだろうか?
 斗真は尾行している間、何度も首をひねるのだった。

 百合子の尾行を斗真に任せたさゆみは、橋田画廊が見える位置にあるインターネット喫茶に入り浸ることになった。
会社は辞める。斗真には反対されたが、さゆみは頑として聞き入れなかった。なぜか、気持ちがざわつくのだ。急がないと手遅れになるよ、と何ものかが直接、頭の中に語りかけているように感じるのだ。
 それこそ、百合子に毒されてしまって、まっとうな精神状態ではなくなっているのかもしれないと自分でも思う。だが、どうしようもなかった。自分の感覚を見ないふりをすることは出来なかった。

 インターネット喫茶のオープンスペース、一面ガラス張りの明るい窓際に設置された硬いソファに収まって、画廊を見下ろす。午前八時から午後八時まで、十二時間居座るさゆみを、いぶかしみ、寄ってくる人はいなかった。何もせず窓の外だけを眺める怪しい人に、誰も関わり合いになりたくないだけなのかもしれないが。
 
 画廊の営業は午前十時から午後六時まで。午前九時に美和がやって来て店を開ける。一日見ていても客は来ない。午後六時に美和が画廊のショーウインドウの明かりを消し、六時半に鍵を閉めて帰っていく。
 三日間、ずっと見ていても、美和以外に画廊を訪れる者は誰もいなかった。

 四日目、昼十二時半にスーツ姿の男性が画廊に入って行った。さゆみは思わず立ち上った。

 『背中』だ。彼が次の『背中』だ、間違いない。あわてて店から駆け出した。

 インターネット喫茶が入っているビルのエントランスにたどりついた時、画廊に入って行く百合子の背中が見えた。
接近禁止命令、そんな言葉は頭に浮かばなかった。そのまま駆け出して百合子の後を追おうとしたのだが、腕を掴まれて足が止まった。

「加藤田、何してるんだ!」

 振り返ると、斗真が焦り顔で、さゆみの腕を掴んでいた。

「百合子が『背中』を見つけたんです! 守らないと、消えてしまう!」

「落ち着け。今、お前が出て行って何かすれば騒ぎになるだけだ。警察を呼ばれたら、そこで終わりだろう」

「でも……!」

「俺が行く」

 さゆみの肩を押して、建物の影に隠すようにしてから、斗真は画廊に向かった。その背中を見つめながら、さゆみは腹の底からじわじわと不安のような、恐れのような感覚が湧いてくるのを感じていた。

 
 それから二十分、待った。時間がかかっている。さゆみは両手をぎゅっと握りしめて橋田画廊を見つめていた。
 もし、百合子が「大ちゃん」以外の男にも興味をもったら、斗真も消えてしまうだろうか。それよりも、現実的な危険にさらされているのではないだろうか。
 
 黙って待っていることが出来なくなって、さゆみは駆け出そうとした。

「あんたか」

 後ろからのんびりした声をかけられて振り返ると、刑事が立っていた。

「画廊に居座ってる男ってのは、あんたの知り合いなんだな」

「居座ってる? 彼は無事なの?」

「多分な。見てきてやるから、あんたはここを動くんじゃない。余計な仕事を増やさんでくれよ」

 そう言いおいて刑事はぶらりと画廊に入って行った。

  ***

 表のドアが開いたチャイム音でバックヤードから出てみると、なぜかスーツを着込んだお兄ちゃんが、ヘラヘラ笑って立っていた。

「いま、昼休みなんだけど」

 軽く睨んでやったけれど、まーったく気にも留めない。

「百合子さんと待ち合わせなんだあ。いいだろう。うらやましいだろう」

 ニヤけ顔で嬉しそうにされると、何だか妙に腹が立つ。

「いつの間に百合子さんと約束なんかしたのよ」

「昨日」

「えー。それなら昨日、言っておいてよ。お茶の準備も何もしてないよ」

「大丈夫、大丈夫。待ち合わせだけで、すぐに出かけるから」

「出かけるって、どこに?」

「百合子さんの家」

 驚いて目玉が飛び出すかと思った。

「なんで!?」

「もちろん、モデルをしに行くんだよ。ほら、見てくれ、この一張羅を。百合子さんのモデルなんて光栄な仕事なんだから、正装しなくちゃなあ」

「正装って。着なれてないんだから、七五三にしか見えないよ」

 本当に、似合っていない。ブラックスーツに白いシャツ、水色のネクタイ、それなのに靴はずっと履きっぱなしのスニーカー。

「なんでスニーカーなの?」

「靴まで手が回らなかったんだよ」

「手? もしかして、スーツ一式を買ったの?」

「おう。フレッシャーズ応援セールをやってたから、安く買えたぞ」

「へえ。いくらくらい?」

「十万」

 それって全然安くない。きっと見栄を張ってお店で一番いいものを買ったんだ。

「あれ、十万って、もしかして……」

「利率は0パーセントでよろしく」

「私のお金!? もう、信じられない!」

 一発、叩いてやろうと手を上げかけた時、表のドアが開いた。

「百合子さん!」

 お兄ちゃんが、ものすごい勢いでドアに向かって走る。もしも犬だったなら、尻尾が降り切れそうなぐらいブンブン振っていると思う。

「こんにちは、大ちゃん。ごめんなさいね、突然に」

「何をおっしゃるんですか! この船木大吾、百合子さんのためなら、いつどこへでも駆け付けます!」

 芝居がかったお兄ちゃんの喋り方が恥ずかしくて直視できない。百合子さんに、こんなのが兄だと知られたくなかったなあ。
 
「じゃあ、行きましょうか」

 百合子さんがお兄ちゃんの背中にそっと手を触れた。お兄ちゃんがビクリと身を揺らした。まるで感電したみたいに。
 そんなことにはお構いなしで、百合子さんはお兄ちゃんの背中を押して外へ出て行く。私がここにいることなんて、気付いていないみたい。視線すら、こちらへ向けてはくれなかった。

 ちょうどその時、ドアが開いてお客が入ってきた。百合子さんとお兄ちゃんは脇へ避けた。けれど、入ってきた男性のお客は、ドアをふさぐように立ったままで、百合子さんをじっと見つめていた。
 あまりの美しさに目が離せないんだろうかと思ったけれど、なんだか雰囲気がおかしい。百合子さんを睨みつけているようにも見える。

 お兄ちゃんが百合子さんとお客の間に体を割り込ませた。お客はお兄ちゃんの顔もじっと見ている。なんだろう、なんだかソワソワする。

「……いらっしゃいませ」

 いつまでも動かない三人に声をかけた。ドアのところで通せんぼするように立っているお客がチラリと私のことを見たけれど、それだけだった。
 私から視線を外すと、お客は、お兄ちゃんの肩越しに百合子さんに話しかけた。

「高坂百合子さんですね」

 百合子さんは落ち着いた様子を崩すことなく答えた。

「はい。あなたは?」

「ファンです。ご本人にお会いできて光栄です」

 お客はちっとも嬉しそうじゃなく、訥々と喋る。お兄ちゃんが怖い顔をして口を開きかけたけれど、それより早く百合子さんが返事をした。

「ファンだなんて、光栄だわ。橋田坂下の絵がお好きなの?」

 お客が答えるまで、少しの間が開いた。

「いいえ、あなたの絵、『背中』のファンです」

 私は驚いて百合子さんを見る。私がここに就職してから今まで、こんな男性が画廊に来たことはない。初めて来店したはずだ。それなのに、どこで百合子さんの絵を見たのだろう。

「まあ。ありがとうございます。よろしかったら、ゆっくりご覧になっていってくださいね」

「少し、お話しをうかがいたいのですが」

 男性は相変わらず通せんぼしたままで、除ける気は全然ないようだ。お兄ちゃんは百合子さんを背中に隠すようにお客の前に立ちふさがった。

「すみませんが、急いでいますので」

 お兄ちゃんが言う。まるで百合子さんの付き人か何かのように真面目くさっている。いつもなら笑っちゃうところだけれど、今日は背中を押したい気持ちになる。そのまま百合子さんを隠していて欲しい。
この男性、なにか変だ。お客としてやって来たんじゃない。

「あなたは、彼をどうするつもりですか」

 彼。と言って男性は目の前のお兄ちゃんのことを指し示した。百合子さんがお兄ちゃんをどうするかって、何のこと?
百合子さんはお兄ちゃんの腕に触って、その顔を見上げた。

「大丈夫。心配しないで」

 それはお姉が弟をあやしているような親密さがあって、なんだか違和感を感じる。
『背中』の二十歳と二十三歳を並べて見た時と同じような違和感だ。

「高坂さん。答えてください」

「これから新作の絵を描くの。彼はそのモデルよ」

 男性はキツイ目をして百合子さんを見ている。ほとんど睨みつけていると言ってもよさそうな目だ。百合子さんはニッコリと笑っているけれど、不穏な空気が流れている。

「彼は、あなたの弟ですか」

 男性が低い声で尋ねた。百合子さんは嬉しそうに目を細める。

「ええ、そうよ」

 お兄ちゃんが驚いて百合子さんに視線を向けた。百合子さんはお兄ちゃんを見上げて優しく笑う。

「じゃ、大ちゃん。行きましょうか」

 百合子さんが歩きだそうとしたけれど、男性は、今度は本当に腕を広げてドアの前に立ちふさがった。どうしよう、この人、変だ。危険かもしれない。
警察を呼んだ方がいいだろうか。でも、大げさなことをして、かえって刺激しちゃったら……。

「あなたは、大ちゃんという男性なら、すべて弟だと言うのでしょうね」

 百合子さんは首をかしげた。

「おっしゃっていることが、よくわからないのですけれど」

「私の名前は、大基と言います」

 百合子さんの表情は変わらないのに、雰囲気がガラリと変わった。なにか、オーラみたいなものが見えるような気がした。
怒ってる? それとも、おびえてる?
 ああ、やっぱり警察に電話した方がいいのかな……。
 そう思って、思い出した。いつだったか訪ねてきた刑事さんに電話してみよう! 110番するかは、その後だ!

 そうっと受付のデスクに向かって歩いていく。男性はこちらにはまったく注意を向けていない。

「あなた、加藤田さゆみさんのお知り合いなのね」

「そうです」

 引き出しからメモ紙を引っ張り出して、急いでバックヤードに向かう。加藤田さゆみの知り合い! ちょっと、やっぱり、まともな人じゃないんじゃないの!?
 音を立てないように扉を閉めて、カバンからスマホを取り出す。いやだ、私、震えてる。
震える指を叱りつけて電話をかけると、ワンコールで繋がった。

『はい』

「あの、刑事さん、北条さんですか?」

『あんたは?』

「橋田画廊の受付です。大変なんです、聞いてください!」

『なにがあった』

「加藤田さゆみの知り合いの男が来ていて、百合子さんに、高坂百合子さんに絡んでるんです」

『写真の男か?』

「いいえ、違います。違うけど、どうしたらいいのか、もう、わからなくて……」

『今、近くにいるから、すぐに向かう。相手を刺激しないように。帰るようなら黙って帰らせろ』

「はい」

 電話はそれだけで切れた。スマホを握りしめて、ドアを薄く開いて覗いてみた。男性はまだ百合子さんと話をしている。とりあえず、百合子さんが無事でホッとした。
 でも、見ているだけじゃダメだ。何かあった時に百合子さんを守らないと。
 私はまた足音を忍ばせてバックヤードから出て行った。

 男の人はお兄ちゃんを黙って見つめている。百合子さんを見ていた時は睨んでいるみたいな視線だったのに、お兄ちゃんに対しては、それがない。

「ちょっと、どいてくれないか」

 表のドアから人が入ってきた。立ちふさがっていた男が驚いて振り返る。
あの日、訪ねて来た刑事さんだ! よかった、これでもう安心だ。

 男は刑事さんにも道を譲ろうとはしない。刑事さんは男の頭からつま先までジロリと眺めた。それから、尻ポケットから警察手帳を出して男に見せ、ポンと肩を叩いて軽く押した。
 男は大人しく道を譲った。

「高坂百合子さんだね」

 刑事さんは男を放っておいて百合子さんに話しかけた。

「そっちの男は誰だい」

 顎でお兄ちゃんのことを指し示す。刑事さんは、なんで不審者を尋問してくれないの? 関係者確認の方が先なの? そういうもの? 何もわからないから見ていることしか出来ない。

「私の弟です」

 百合子さんはやっぱり、お兄ちゃんのことを『弟』だと言う。そりゃ、弟の代わりにモデルになるわけだから、そうと言えないことはないんだけど……。

「あんたの弟は死んだだろ」

 刑事の言葉に、私は目を丸くした。百合子さんは不思議そうな表情で首をかしげた。

「弟なら、ここにいます」

 百合子さんがお兄ちゃんを見上げてニコリと笑いかける。お兄ちゃんは、さも嬉しそうにヤニさがる。きっと、何も考えていないに違いない。

「おい、弟。お前、名前はなんて言うんだ」

「大吾ですが?」

 お兄ちゃんの答えに、今度は刑事さんが目を丸くする。

「冗談なら悪趣味だぞ」

「冗談って、何がですか?」

 刑事さんが何を言っているのかわからなくて、お兄ちゃんは頬っぺたを、ポリポリと掻いている。

「大吾、苗字は」

「高坂大吾です」

 お兄ちゃんの代わりに百合子さんが答えた。刑事さんは、ちらりと百合子さんに目をやったけれど、すぐにお兄ちゃんに視線を戻した。

「あんたに聞いてるんだよ、弟。氏名は」

「船木大吾ですけど」

「身分証は」

「今は何も持ってません」

「そうか。でも、とりあえず、あんたは高坂百合子の弟じゃないんだな」

 お兄ちゃんは何と答えればいいのか悩んでいるようで、黙ってしまった。どうしよう、何が起きているんだろう。刑事さんは何が言いたいんだろう。謎の男はなんで微笑してるんだろう。百合子さんは、なんで不思議そうにお兄ちゃんを見上げているんだろう。

「もう一度聞くぞ。あんた、高坂百合子の弟じゃない……」

「弟です!」

 叫んだ私に視線が集中した。刑事の、お兄ちゃんの、あの男の、驚いた顔。それから、百合子さんのとっても嬉しそうな顔。そんな顔を見たら、もうこの嘘を貫き通さなければという使命感が湧いて来た。

「その人は、百合子さんの弟です」

 刑事さんは私の胸の名札に視線を動かした。思わず手で隠す。

「こいつは、船木大吾って名乗ったがな」

「ま、間違えたんですよ、きっと! さっき、私が名乗ったばかりだから、つい、そんな名前を口に出しちゃったんですよ!」

「はい、間違えました」

 とぼけた声をあげたお兄ちゃんを、刑事さんがギロリと睨む。もう、お兄ちゃんてば、こんな時くらい真面目にしてよ!

「どこに自分の苗字を間違って名乗る人間がいるんだよ」

 刑事さんはお兄ちゃんに一歩近づいた。放っておいたら胸倉でも掴みそうな勢いだ。

「ここに、一人、いまして」

「何だって!? 聞こえなかったなあ!」

 刑事さんが低い、大きな声でお兄ちゃんに迫ったけれど、お兄ちゃんは間抜けな顔で驚いてみせただけだ。

「ここに、一人、いるんですよ。自分の苗字を間違えるやつが」

 チッと舌打ちが聞こえた。刑事さんだ。こんなにガラが悪い人には見えなかったのに。

「もう一度、聞こうか。お前の氏名はなんていうんだ」

「高坂大吾です」

「間違いないんだな」

「間違いありません」

 刑事さんはしばらく黙ってお兄ちゃんを睨みつけていたけれど、フイっと顔を背けると、ハーーーーーっと大きく長く深いため息を吐いた。

「分かったよ。ほら、出て行くんだろ。どーぞ」

 百合子さんとお兄ちゃんが一緒に外に出て行く。謎の男が二人を追いかけて外に飛び出す。刑事さんが後を追う。

 画廊には、何が起きたか今でもわからないままの、私一人が取り残された。


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