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風祭

 バスは右に左にゆれながら坂道を登っていく。窓の外すぐそこまで杉の木が迫っていて、カーブを曲がるたびに枝がガラスを突き破るのではないかと、夢はヒヤヒヤした。

 『玉川前』というバス停で、一人きり降りた。クーラーの効いたバスから外へ出た途端、アスファルトから立ちのぼるムっとした空気をあびて顔を顰める。ぐるりとあたりを見回す。山間を走る一本道はバスが行ってしまうと人も車も通らず、アブラゼミの声だけがガシャガシャとうるさく落ちてきた。

 ゆるい坂を少し上ったところに、墨で手書きされた『玉川神社』と言う立て札が山上へ向かう石段をさしている。
 ママが描いてくれた地図を確認してリュックにしまい階段を上る。人とすれ違うこともできないほど狭く、両側から覆い被さってくる木の陰のせいで薄暗く肌寒い。セミの声も心なしか小さく遠くなったようだ。夢は心細くなって階段を駆け上った。

 去年までは毎年ママと夢と笑、三人でこの階段を上った。今年の一月、雪が積もった寒い日に四歳年下の妹、笑が事故で死んだ。それ以来、夢は一人っ子になった。

 一人きりの夏休みが半分終わったころ、ママの会社が繁忙期を迎え、夜中まで帰れない日が増えた。夢は夏休みの終わりまでおばあちゃんの家に泊まることになった。
 夢は一人で行くと言い張った。ママと二人、車にのるのは嫌だった。ママが今でも夜中に笑の靴を抱いて泣いているのを知っていたから。
 「電車もバスも一人で乗れる。来年は中学生になるんだから」
 夢の言葉に、ママは少し寂しそうに、けれど少しホッとしたように笑った。

 階段を上りきると、急に杉木立がきれて川が見える。すぐ目の前に真っ赤に塗られた木製の橋があり、おばあちゃんが橋の真ん中に立っていた。おばあちゃんの顔を見ると夢は心底ホッとして駆け寄った。おばあちゃんは夢の肩を両手でポンポンとなでた。
 「夢ちゃん、えらかったねえ。バス停まで迎えに行けんでごめんね。風祭の最中やけん橋を越えたらいけんのよ」
 「かぜまつり?」
 「あれさ」

 おばあちゃんは、橋の上で木の棒を握って立っているおじいさんを指さした。棒の先には白い糸が結びつけてある。まるで釣りをしているように見えるが、糸は短くてとても川面まで届かない。
 「何しているの?」
 「風を捕まえるんよ。この村で死んだもんは風になる。年に一度お山から帰ってくる風を、糸を垂れて捕まえるんよ」

 おじいさんが腰にぶら下げている手ぬぐいは風にゆれているが、糸は風などないように、まっすぐ川に向かって下がっていた。
 カラスがガアと大きく鳴きながら飛んでいく。おじいさんが空を見上げた。夢もつられて見上げた。田んぼの向こう、山すその空が真っ赤に燃えている。夕焼けだ。

 おじいさんは糸をクルクルと棒に巻きつけると、肩にかついでトボトボ歩き出した。
 「お祭りはおわり?風は捕まったの?」
 「いいや、捕まらんかったさ。夢ちゃんも見たろ、糸はゆれんかった。けど夜に糸を垂れるとよくないもんがかかるけんね。さ、うちへ帰ろうかね」
 おばあちゃんは夢の手を取って歩き出した。幼子のように手を引かれ驚いたが、なんだか懐かしく、そのまま黙って歩いた。おばあちゃんの手は固くて、あたたかかった。

 おばあちゃんの家は大きくて古い。三角形の青いトタン屋根が地面近くまで覆い被さり、夢はいつも息苦しく感じる。玄関の引き戸はほとんど開けっぱなしで、土がむき出しの土間は暗く、夏でもひんやりとしていた。
 「すぐ晩ご飯にするけん、テレビ見て待っとり」
 そう言い残しておばあちゃんはまた外に出ていった。夢はテレビがある茶の間に、背負ってきたリュックを放りこむと庭に出た。

 枇杷、金柑、黒鉄もち。庭に生えている木の根元を一本ずつ見て回る。最後に熊笹の茂みをかきわけて笹の枝を一本拾うと、茶の間に駆け戻った。
 背伸びして、茶箪笥の上にある煎餅の缶から木綿糸を取り出し、一メートルほど切って枝の先に結びつけた。
 「夢ちゃん、どうしたんね?」
 いつのまに戻っていたのか、おばあちゃんが土間から顔をのぞかせて聞く。
 「なんでもない」
 夢は咄嗟に笹を背中にかくした。

 翌朝、目覚めるとおばあちゃんはもう出かけていた。布団を片付けて茶の間に行くと、お膳の上に朝食が用意してあった。味噌汁と漬物だけ急いで飲み込むと、ご飯と卵焼きをラップに包み、寝巻きがわりのパーカーのポケットに突っ込んだ。
 昨夜、リュックの中に隠した糸付きの笹を持ち、着替えもせずにスニーカーをつっかけて駆け出した。

 橋まで一気に駆けて息がきれた。橋の上には今日もおじいさんが立っていた。やはり糸はゆれていない。風はそよそよ吹いているのに糸はピーンとまっすぐ張っている。
 夢はおじいさんの後ろをそっと通り過ぎ、間に二人分ほどの距離をあけて立った。釣り人のように、笹を橋の欄干から川に差し出す。ぶんぶん枝を振って絡んだ糸を放すと、錘がついているかのように糸はまっすぐ垂れて動かなくなった。枝を振っても、糸は固い金属ででも出来ているかのようにまっすぐだ。

 夢はそっとおじいさんを覗き見た。おじいさんは夢のことなどまったく見えていないみたいに、真面目な顔で糸の先だけを見つめている。
 夢も真面目な顔で自分の糸の先を見つめた。朝早い時間だと言うのに、太陽がチリチリと肌を刺すように熱い。川面の光が眩しく目を焼く。夢はフードを深くかぶった。

 『このマチに雪が降るなんてホント珍しいわね』ママはそう言って、正月に田舎に帰る時だけ使う滑り止めのついた靴を履いて出勤していった。
 小学校は休校になった。夢と笑は大はしゃぎで亀公園に行くことにした。
 笑はお気に入りのカエル模様の長靴を履いて出かけた。

 糸はまったくゆれなかった。太陽は夢の頭の真上へやって来た。ただ黙って立っているというのは思いのほか辛い。頭がふらふらして倒れそうになり、足を開いて踏んばった。ぐう、とお腹が鳴る。ポケットからご飯を取り出し、立ったまま食べた。横目でおじいさんを見てみたが、やはりおじいさんは、ただじいっと糸を見つめている。
 それからちょくちょく夢はおじいさんを盗み見た。もしかしたらよくできたマネキンかもしれないと思ったのだ。おじいさんはたまに瞬きをした。人だ。夢は少し安心した。

 亀公園はブランコも滑り台もベンチも亀型遊具も何もかも、雪に埋まって真っ白だった。夢と笑は歓声を上げ駆け回った。踏み出すごとに脹ら脛まで雪に埋もれ、すぐに靴の中はびしょ濡れになった。二人は濡れた足の冷たさも感じぬほど夢中で雪の中を転がり、雪にダイブして自分サイズの穴を作った。
 楽しかった。

 日差しはきついが、橋の上は川風で涼しい。夢の前髪はさらさらと風にゆれたが、糸はまるでゆれない。身動きしても足踏みしても、見えない手に引っ張られているようにゆれない。横目で見たおじいさんの糸もゆれない。
 次第に夢は焦れてきた。汗がつうっと顎に伝う。何かよくわからないものに追いかけられているように感じて、ジリジリする。それでもただ、じっと立っているより他に、できることは何もなかった。

 笑は、たぶん砂場であろう辺りで、夢中になっていくつもいくつも雪うさぎを作っていた。夢はいいかげん飽きて、手足が冷えて痺れていた。何度も『帰ろう』と言ったが、笑は『もうちょっと!』と叫び夢を見もしない。『じゃあ笑一人で遊んでれば』と言って夢が帰ろうとすると、笑が立ち上がって叫んだ。

 おじいさんが木の棒をひょいと上げた。ずっと動かなかったのに! 夢は驚いて目を見開いた。おじいさんは片手でクルクルと糸を巻き取ると棒からちぎり、棒を川に捨てた。夕焼けに赤く染まった川に飛沫があがる。棒は水の中に沈んだが、すぐに浮かび上がりプカプカと下流に流れて行く。おじいさんは棒を見送ると、黙って村の方へ歩きだした。

 途中、おじいさんが小さく会釈した。いつの間にやって来たのか、橋のたもとにおばあちゃんが立っていて、おじいさんに会釈を返した。それから夢に声をかけた。
 「夢ちゃん、もう帰ろ。夜には良くないもんが来るけん」
 夢が枝を持ったまま駆け寄ろうとすると、おばあちゃんは両手を前に突き出して『止まれ』と合図を送った。
 「竿は捨てなくちゃいけん。風祭りは今日で仕舞いだ。糸をちぎって竿は川に捨てな」
 夢は手に持った枝と、おばあちゃんの顔を交互に見た。おばあちゃんはとても怖い顔をしていた。夢が初めて見る顔だった。
 右手に枝を持ったまま左手で糸を引っ張った。ぎゅうっと力いっぱい引っ張ったが、なかなか糸は切れない。糸が皮膚に食い込んで自分の手がちぎれるかと思うくらい引っ張って引っ張って、やっとちぎれた。
 川に向かって思い切り投げると、枝は水にもぐりもせずに浮かんだまま、クルクル回りながら流れて行く。夢は痛む手を糸と一緒にポケットに突っ込んだ。
 「それでええよ。それでええ。よくできた。さ、うちに帰ろ」
 おばあちゃんと手をつないで、長く伸びた自分たちの影を踏みながら家に帰った。

 その夜遅くまで夢は眠れなかった。目をつぶっても考え事が次から次に浮かんでしまう。
 「ねえ、おばあちゃん」
 隣の布団に向かって話しかける。
 「なんね」
 おばあちゃんも眠れなかったようで、すぐに返事があった。
 「笑は、風にならなかったの?」
 今度は少し間が空いて、おばあちゃんが静かに答えた。
 「笑はマチで死んだ。マチで吹いた風は汚れに邪魔されて、村までは届かんのよ」
 夢にはよくわからなかったが、『ケガレ』と言ったおばあちゃんの声はとても冷たく、それ以上は何も聞けなかった。
 「明日はばあちゃんと畑へ行かんね?」
 「うん」
 それからまだ何かおばあちゃんが話したようにも思ったが、夢はすうっと眠りに落ちた。

 翌朝まだ暗いうちに、おばあちゃんが夢を起こした。
 「ほい夢ちゃん、朝ご飯を取りに行くよ」
 眠い目をこすりながらついて行ったおばあちゃんの畑は、草がぼうぼう生えているだけで、どこにも作物が見当たらない。
 「さ、草を分けて進むんよ。そこいらにトマトがあるけん。赤いの二つ取っといで」
 おばあちゃんが指さす方を見ても、夢には生い茂る雑草しか見えない。雑草は夢の肩より背が高い。振り返るとおばあちゃんの背中はすでに畑の中に消えていた。
 仕方なく両手でかき分けかき分け進んでいると、なるほど、トマトが実っている茎が五本見えた。夢は吟味してよく熟れて赤いのを二つもいだ。両手に一つずつトマトを握り雑草をかき分けて進むと、手の甲に草が当たってチクチクした。

 道に出て待っていると、草の向こうにおばあちゃんの頭が現れ、ぴょこぴょこ上下しながら近づいてきた。
 「どっこらしょ」
 掛け声とともに最後の草を分けて出てきたおばあちゃんの手には、野菜が入ったビニール袋が握られていた。夢のトマトも一緒に入れて、二人は手をつないで帰った。

 「なんで、畑の雑草を抜かないの?」
 トマトスライスとカボチャの味噌汁、サヤインゲンの胡麻和えの朝食を食べながら、夢はおばあちゃんに聞いてみた。
 「雑草なんて名前の草はない。春には春の、夏には夏の草が生える。今はそうだねえ。大葉子、露草、鉄葎、酸葉、浜菅、蛇苺。みいんな名前がある。名前があるって事は生きている意味があるってこった」
 「草も死ぬのかな」
 夢の口からするりと言葉が抜け出した。そんなこと聞くつもりはなかったのに、と夢は驚いて目を見張った。おばあちゃんは味噌汁を飲んでいて夢の様子には気づかなかったのか、普通の調子で答えた。
 「生きてるものはみんな死ぬ。死ぬってことが生きてるってこった」
 夢はそっとおばあちゃんの横顔を盗み見た。どうして、おばあちゃんは簡単に『死ぬ』と言う言葉をしゃべれるんだろう?何でもないことのように、ご飯が食べられるんだろう?
 「夢ちゃん、食べな。この野菜たちの最後の大仕事だよ」
 急におばあちゃんが大声で言う。夢は慌ててトマトを噛みしめた。酸っぱくて青くさくて甘かった。口の中に次々ご飯をほうりこんでモゴモゴ噛んだ。一口飲み込むごとに、胸につかえていたものが少しずつ少しずつ、お腹の底に落ちていくようだった。
 おかわりしたご飯もカラになったころにはお腹はパンパンで『ごちそうさま』と言うなり畳にゴロンと転がった。いつもは行儀が悪いと叱るおばあちゃんが、何も言わず食器を片付けに台所に立った。

 夢は天井の木目を見ていた。去年の夏、笑が、木目がお化けに見えると騒いだのを思いだす。今では笑こそがお化けだ。そう思うとなんだか木目が笑の顔のように見えた。笑はわがままで臆病で泣き虫で、死んでも夢を振り回す。
 あの日も。あの雪の日も笑は駄々をこねた。だから夢は、
 夢は、どうしたんだっけ?
 考えても思い出せなかった。お腹がくちくて頭が働いていないせいかもしれない。それ以外の理由かもしれない。考えてみたが、夢にはどちらなのかよくわからなかった。

 片付けが終わると、おばあちゃんはもう一度畑に行くと言う。夢もついて行った。途中、橋で並んで立っていたおじいさんに会った。
 「風が吹上げたようで、おめでとうございます」
 そう言っておばあちゃんがきちんとお辞儀をしたので、夢もあわてて頭を下げた。
 「お宅様も吹上げおめでとうございます」
 おばあちゃんはちょっと困った顔で会釈した。夢は自分が悪いことをしてしまった気がしておばあちゃんを見上げたが、おばあちゃんは何も言わずニッコリしただけだった。
 
 おばあちゃんが野菜を収穫している間、夢は畑の中をあちこち草をかき分けて歩いた。夢が名前を知らない色んな草が生えている。
 うろうろしてピーマンが繁っているのを見つけた。においを嗅いでみると、大嫌いなピーマンなのに嫌なにおいとは感じなかった。枝の先の、小指の先くらいの赤ちゃんピーマンがかわいくて、夢はそっとつまんでみた。
 赤ちゃんピーマンはポロリと枝から取れて夢の手のひらに転がった。なんとなくギュっと握り締めてみた。プチ、と軽い感触がして、手を開くと赤ちゃんピーマンは潰れていた。

 振り返ると目の前が真っ白になって、息がつまった。顔に軽い衝撃と冷たさを感じた。笑が雪玉を投げつけたのだ。雪玉は夢の顔のど真ん中に命中した。笑はケタケタと笑っていた。雪に厚くおおわれた砂場に立って、笑は笑い続けた。夢は……。
 夢は、あの時、どうしたんだっけ?
 
 ガサガサと草を分けておばあちゃんがやってきた。
 「どうしたね? 蛇に噛まれたんかね?」
 いつの間にか、夢は声をあげて泣いていた。心配そうに夢の顔を覗き込むおばあちゃんに、わあわあ泣きながら手を突き出してみせた。おばあちゃんは潰れたピーマンを見ると、夢の手の上に手を重ね、夢の頭をなでた。
 「泣かんでええよ。泣かんでええ。潰れてしまってびっくりしたんやね」
 夢はしゃくりあげ、つっかえながら話した。
 「ピーマン、まだ赤ちゃんなのに、潰しちゃった。赤ちゃんピーマン、死んじゃった」
 おばあちゃんは夢の顔を覗きこんで言った。
 「夢ちゃん、赤ちゃんピーマン食べてみ」
 夢はピーマンを生で食べたことなんか一度もない。しかし自分の手の平の上でひしゃげた姿を見ると、なんとかしてやらなければという気持ちに襲われた。夢はおそるおそるピーマンを口に入れて噛みしめた。
 「甘い!」
 びっくりしておばあちゃんの顔を見ると、おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「夢ちゃんに食べられて嬉しいから甘いんさ。これでピーマンの命が夢ちゃんに宿った。命はそうやって次の命を育むんよ」
「風になって?」
「そうさ。風になって」
「でも、おばあちゃん、でも! でも! 食べられなかったら? 死んじゃった子どもは? 風になれなかった子どもはどうなるの!」
 おばあちゃんは、じっと夢の顔を見つめた。夢はもう泣いてはいなかった。その瞳はおばあちゃんを見ているようで、けれどどこか遠くを見つめていた。

「笑の馬鹿! 凍えて死んじゃえ!」
 怒鳴ると、夢は公園の出口に向かって猛然と歩き出した。雪に足をとられ歩きにくい。
「まって! おねえちゃん!」
 笑が叫んでいる。夢は振り返らない。
「おねえちゃん! おねえちゃん! おねえちゃん! おねえちゃん!」
 夢は立ち止まり、ため息をついて振り向いた。笑の顔は今にも泣きそうだった。その表情が、夢の視線を捉えたとたん笑顔になった。笑の名のとおりの満面の。掛け値なしの笑顔に。そして何か叫ぼうとしながら駆け出した。 笑の長靴が雪にとられ真っ白な素足が見えた。
 笑はよろけて横倒しになり、そのまま雪の中に姿が見えなくなった。夢はしばらく黙って見ていたが、笑の姿は見えないままだ。
「もう、笑! ふざけてないでさっさと立って! 帰るよ!」
 笑は立ち上がらない。返事もしない。
「勝手にしなさい! おねえちゃん、もう知らないからね!」
 夢はそう言い捨てると、自宅へ戻った。

「私が! 私があの時、帰っちゃったから! 笑が落とし穴に落ちて気絶したのに、私が気づかなかったから! 放っておいたから! 笑は風になれない! 笑は汚れちゃった!」
「夢ちゃん落ち着いて。夢ちゃんのせいじゃなか」
「私が待ってなかったから! 私が……」
 バシン!と重い音が夢の耳のそばで鳴った。頬がじんわりと熱くなる。夢はポカンと口を開けたまま左の頬を撫でた。
「夢ちゃん。いいかい、よおく聞きな。あれは夢ちゃんのせいじゃなか。事故だ。笑は汚れちゃおらん。風になるんよ」
 夢はぼおっと、おばあちゃんを見ていた。
「でも、夢は風を捕まえられなかった」
「おいで」
 おばあちゃんは夢の手を引いて畑の真ん中へ歩いていく。色んな草が隙間なく生えた畑の、真ん中だけポッカリ空き地になっていて、土が小山に盛ってある。その山の真ん中に木の枝が突き立ち、先端に結び付けられた糸が風もないのにユラユラとゆらめいていた。
 夢は小山に近づきうずくまった。枝の根かたにカエル模様の長靴が片方、置いてあった。
 「笑ちゃんの骨が埋まっとる。笑ちゃんはこれから長い時間をかけてこの畑の土になっていく。ばあちゃんと夢とママはこの畑の野菜を食べて、笑ちゃんを風にしていくんよ」
 夢は小山に縋り付くように顔を伏せると、静かに涙をこぼした。

 それから夢は毎日おばあちゃんと一緒に畑に行き、草の名前をたくさん覚えた。夏休みが終わる頃には日に焼け真っ黒になった。自分で収穫した唐黍とオクラをリュックに詰め込んで、夢はマチへ帰っていった。



 夢はまた一人『玉川前』でバスを降りた。黒いスーツが日差しを吸い、汗が吹き出る。ハイヒールが砂利道にささり歩きにくい。杉木立の中の階段を上りながら、落ちている枝を拾い、家から準備してきた糸を結びつけた。

 橋に出た。
 真っ赤な欄干から枝を突き出すと糸はピンとまっすぐ張った。じっと待つと糸はしだいにユラユラゆれて、ついにはクルクルと回転しだした。喜びおどる舞人のように。
 「ようきたねえ、夢ちゃん」
 顔を向けると、おばあちゃんが橋の真ん中に立っていた。夢は枝を構えたまま、おばあちゃんの方に向きなおった。
「ばあちゃん、一緒にマチに行こう。ママが、ここの家も畑も売るって言ってるんだ」
 おばあちゃんは静かに首を横に振った。
「いいや、ばあちゃんはここにおるさ。家がなくても畑がなくても、ここには森がある。川がある。ばあちゃんはずっとここに、風になった笑ちゃんと一緒におるよ」
「でも、ばあちゃん!」
「それより夢ちゃん、風をつかまえた時の作法は覚えてるのかい?」
 おばあちゃんが指さす糸の先はクルクル舞ったままだ。
「だいじょうぶ。覚えてるよ」
 夢は枝を高く持ち上げ、逃げる糸の先を追って口に咥えた。糸はピタリと止まった。
「ようし、ようし。夢ちゃんはいい子だ。ちゃあんと言いつけを覚えとる」
 いつのまにか、おばあちゃんの後ろに笑が立っていた。おばあちゃんの服にしがみついて、恥ずかしそうに夢を見ていた。おずおずと夢に話しかける。

「おねえちゃん、あのね。ごめんなさい。雪玉ぶつけてごめんなさい。おねえちゃんの言うこと聞かなくて、ごめんなさい。いつもわがままばっかり言ってごめんなさい。おねえちゃんをかなしませてごめんなさい」
 夢は思わず口を開いて話しかけようとした。
「夢!」
 鋭い声にビクっと身を竦めると、おばあちゃんが怖い顔で夢をにらんでいた。夢はあわてて口を閉じなおす。
「ようしそれでいい。夢ちゃんはいい子だ。ばあちゃんの風をしっかり受け継いどる」
 夢は黙って、おばあちゃんを見つめた。おばあちゃんも黙ってうなずいた。夢は笑を見つめた。笑は、はにかんでおばあちゃんの後ろに隠れてから、そっと顔だけ覗かせた。

 夢は作法通り、口に糸をくわえたまま枝をクルクル回して糸を巻きつけた。だんだん枝が口に近づく。クルクル回すたびに笑の姿がぼやけて薄くなっていく。クルクル回すごとにおばあちゃんの影も薄くなっていく。
 「ようしよし。夢ちゃんはいい子だ。まっすぐ育ったいい子だよう。今度はその風を、あんたのお腹の子に吹かせておくれね」
 最後の糸を巻き終わると、おばあちゃんと笑の姿は消えた。夢は枝をギュッと握って胸に抱いた。胸の奥にとてもあたたかなものがあることに、初めて気づいた。
 「うん、ばあちゃん。わかったよ」
 そう言うと、夢は糸をちぎって枝を川に投げた。振り返ると西の空が真っ赤に燃えている。夏の終わりを知らせる夕焼けだ。
 やさしい涼風が夢の頬をなでて、通り過ぎていった。

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