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目指したのは、シャンチニケタン

 その日本人大学生から初めてのメールが届いたのは三週間前。個人旅行でインドに来るのだという。

 泰三は返信メールで歓迎の意を表し、個人ガイドを雇いたいと思った経緯を質問した。
 しかし初めの一通以来、大学生からのメールはなかった。ひやかしだ、いつものこと。
 泰三は他の仕事に忙殺された。

 忙殺と言っても日本のように身を粉にして働くようなことはしない。
 インド時間で働いている泰三にとっての忙殺とは、いつもは三時間かけて取っている昼休みを二時間に短縮せねばならないという程度だ。
 それでも泰三にとって、それは大いなる不満の種だった。

 泰三は働くのが嫌いだ。勉強も嫌いなのに大学には六年も通った。
 その間にあちらこちらを旅した。日本の全都道府県を巡り、中国、韓国、オーストラリア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ。
 バイトして金が貯まれば旅行した。
 古代文明発祥の地を制覇しようと最後に訪れたインドで、泰三は気付いた。

 自分はインド人だったのだと。

 インド人は皆、自分の権利をどこまでも主張し、勤勉などという言葉を知らず、時間にルーズで、そしてそれを大笑いして楽しんでいるように見えた。
 
 自由だ、と泰三は思った。これこそが自分が求めていた自由なのだと。

 観光ビザが切れるまでインドの路上で生活し、出来得る限り言葉を覚えた。
 ビザが切れたら日本に帰り大学を辞め、ありったけの金と就労ビザを持ってインドに戻った。
 デリーの日本人向け旅行会社に働き口を得て、それ以来インド人として生きている。

 

 昼食後、ギシギシと軋む木製デスクに足を乗せて昼寝をしているとドアが開く音がした。

「ナマステ」

 明らかに日本人とわかる発音のインド式挨拶にうんざりしながら泰三は薄目を開けた。客だ。仕事がやって来てしまった。
 時刻は十二時半、昼休みと分かりきった時間にやってくる迷惑な客だ。
 振り向くと戸口に立っているのはバックパックを背負ったいかにも貧乏そうな、学生らしき青年だ。

「ナマステ」

 青年は機嫌よく重ねて言う。泰三は不機嫌を隠しもせず「はい、こんちは」と返す。
 予約なしの飛び込みだ。日本語の看板を見て懐かしく、つい入ってきてしまったのだろう。

 泰三の会社は個人ツアーしか取り扱わない高級店だ。貧乏学生に用はない。泰三は両足を机の上に戻すと顎ひげを引き抜きながら呟いた。

「まだ昼休みなんですよねえ」

 青年は笑顔で室内をぐるりと見回した。

「あ、じゃあ、待たせてもらいます。どうぞごゆっくり」

 押しかけてきてごゆっくりもないもんだ。泰三は呆れたが、ごゆっくり以外には何もするつもりもない。
 昼休みの残り二時間半、ごゆっくりと昼寝した。

 目を覚ますと部屋の隅、象の置物の横に青年が座り込んで、気持ちよさそうに眠っていた。

「……まだいたのか」

 泰三は青年に近寄る。すぐそばまで行っても青年は目を覚まさない。バックパックは肩から下ろされ、少し離れた場所に置いてある。泰三は深い溜め息をついた。
 こいつはこの店を出た三分後には全財産を失うだろうよ。

「もしもし、お客さん」

 声をかけながら青年の肩を揺する。青年はなにごとか呟きながら、上機嫌で目を開けた。

「あ、おはようございます」

「おはようじゃないよ、あんた。インドで自分の荷物を腹に抱えておかないなんて、盗んで下さいって言ってるみたいなもんだよ」

 青年はにっこり笑う。

「でも、あなたは日本人ですよね」

 泰三はむっとして、いっそバックパックを盗んで叩き売ってやればよかったと思う。

「見知らぬ人間を信用するな、って言ってるの。それより、あんた予約してないよね? なんか用?」

 青年は不思議そうな表情で小首をかしげた。

「メールで予約したんですけど。神林です」

 にこにこ笑う青年に泰三は眉を顰め、パソコンのメーラーをチェックした。
 確かに予約のメールは受信されていた。今日の午前十一時三十分に。泰三はため息をつく。
 こいつは時間にタイトな日本人が来てくれたもんだ。

 青年に、アンケート、というより問診表のような用紙を渡し記入させる。

 氏名、年齢、住所、ビザの種類、渡航目的、希望するツアーの種類、エトセトラ、エトセトラ。全部書き終わるまでに軽く三十分はかかる代物だ。
 そんな面倒くさいことインド人なら文句の十や二十は出てくるが、日本人は皆、文句も言わず丁寧に書く。
 その間に、泰三は青年を観察した。

 身なりはみすぼらしいが姿勢よく、真顔でいても微笑を浮かべているように見える。育ちが良さそうで人や動物に好かれそうだ。

 親切で爺婆ガキんちょにはとことん尽くすタイプ。金払いはかなりいいだろう。
 あたりを付けた泰三は、ビジネス用の笑顔を浮かべて青年から用紙を受け取る。
 書いてある情報はほとんど読まず、青年に訊ねた。

「で? 個人ツアー希望とありますが、どちらへいらっしゃりたいんですか?」

「原始的な仏教の説法を見たいんです」

 泰三は二、三度、目をしばたたいた。

「はあ?」

「ブッダが説法をしたように、今もそのように教えている寺に行きたいんです」

「つまり、ブッダが初めて説法したところに行きたいんですか? ヴァーラーナシーに?」

 青年はにっこりと、穏やかに笑い首を振る。

「いえ、仏蹟ではなく現在、まさに今も人が集うところに行きたいのです」

「インドの仏教寺院に行きたいんですね?」

 青年はにっこりを崩さない。まるで微笑みと共に産まれてきた人のように。

「普通の寺院ではなく、古代と同じようなスタイルの寺に行きたいんです」

 泰三は青年の言うことが理解できず、しかし目的地は絞らねばならなかった。

「で、出発はいつごろをご希望ですか?」

「いつでも。今からでもいいですし」

 泰三は室内を見回して大きく両手を広げてみせた。

「ご覧の通り当社は現在、社員が出払ってまして。ご案内できるのは早くて三日後ですね」

 青年は笑みを深くして頷く。

「では、三日後にまた来ます。よろしくお願いします」

 深々と頭を下げて青年は出ていった。
 泰三はぽかんとその後ろ姿を見送ってアンケート用紙に目を落とした。「神林聖夜」芸名のような華やかな名前は青年の密やかな微笑には似合わない。
 そう思いつつアンケート用紙をその辺に放り出して、青年の事は忘れることにした。

 三日たっても社員は誰も帰ってこなかった。
 インドでは予定通りに旅行するのは難しい。特に列車やバスを使った移動は時間通りになることはマレというか、時間通りに来れば奇跡というほどで、社員の帰社予定が大幅に遅れるなんてことは日常茶飯事だった。

 予約は青年のもののほかに入っておらず、社に届くメールは出先でも読めるよう携帯に転送されるので、どこにいても対応できる。
 依頼を断る口実は無い。青年のガイドは泰三が引き受けるしかなかった。

 しかし原始的な寺などというものを泰三は知らない。一応、近所の仏教寺院を回って聞いてみたが難しい顔をした僧侶に追い帰されただけだった。
 泰三は残る一つの望みをかけて日本にメールした。

 泰三がインドに永住すると決めてから友人の数は激減した。定期的に顔をあわせない人間は、あっという間に忘れ去られる。こちらも、あっという間に忘れてしまう。
 十年たった今では彼らの名前も覚えていなかった。

 ただ一人だけ、日本にいてもインドにいても変わらぬ付き合いをしている者がいる。
 それを友人と言っていいのか、泰三に自信はない。ただ思い付いた時に何でもないメールを送り、忘れた頃に相手からメールか葉書が届く。

 そんな関係が大学時代から二十年近く続いていた。
 その男は、英哲という名の浄土真宗の僧侶だった。学生時代から仏教にのめり込みインドに二年間留学しインド人に日本語を教えるほどインド通になった。

 そんな男に泰三はメールを送った。
 原始仏教のままに説法する寺に心当たりはないか。返信はすぐにあった。

「シャンチニケタンへ行け」

 英哲の言葉が正しくなかったことは今までに一度もない。泰三はシャンチニケタンへの道程を調べ始めた。

   ~~~~~~~~~

「ナマステ」

 旅程表を作り終えた、まさにその時、青年が扉を開けて入ってきた。

「いらっしゃい、待ってましたよ」

 実際には一分たりとも待ってなどいなくても、相手に申し訳なさを感じさせるために泰三はいつもこう言う。
 バクシーシ、いわゆるチップを多めに貰うための一案だ。

「あなたが僕のガイドをしてくれるんですか?」

 青年は微塵も申し訳なさそうな様子を見せなかった。最近の若者は可愛げがねえ、と泰三は腹の内で悪態をつく。

「はい。私がご案内します、江口泰三です」

「泰三さん、よろしくお願いします」

 青年は人懐こい笑顔で右手を差し出す。年下の客からいきなり姓ではなく名で呼ばれたことに泰三は内心むっとしたが、ビジネススマイルで握手に応じた。

 唐突に旅程表を青年の鼻先に突きつけて説明を始める。

「シャンチニケタンというところへ行きます。デリーからコルカタまで寝台特急に乗り、そこで乗り換えてボルプールまで。あとはサイクルリキシャで移動します」

「サイクルリキシャ! オートバイでなく!」

 青年は目を輝かせた。

「乗ってみたかったんですよ!」

 泰三は半眼で青年を見下ろす。

「ただの人力車ですよ。まあ、人が走るのではなく自転車で引っぱりますから自転車力車と言う方が正しいのかな」

 青年は上の空で泰三の言葉にうなずき「楽しみだなあ」と呟いている。
 泰三は、くみしやすいのか難しいのか見当がつかない青年を少々面倒くさく感じ始めていた。

 デリーからコルカタまでは特急列車を使っても十四時間かかる。列車が時刻通りに走ってくれればの話だが。

 インドの列車は複線から単線への切り替えに手間取ったり野良牛の群れに阻まれたりと、なにしろ遅れる事情が満載だ。
 泰三はデリーの駅で電光掲示板をチェックし、案の定、出発時刻が遅れる事を知った。

「出発予定の十九時まで時間があきますので、列車内での食料を買い足しましょうか」

 青年はにっこり笑って自慢げに言った。

「僕はりんごを持ってますから大丈夫です」

「りんごですか。デリーで買ったんですか? 高かったでしょう」

「百二十ルピーでした」

 泰三の口があんぐりと開いた。

「い、いったいいくつ買ったんですか?」

「二つですが」

 泰三はさらにまた口をあんぐりと開いた。百二十ルピーあれば背負いカゴいっぱいのりんごが買える。それを二つだけとは……。

「値切らなかったんですか?」

「はい。安かったので」

 こいつはインドを旅行する間中、どこへ行ってもカモにされるに違いない。

 インドでの買い物は値切り交渉からすべてが始まる。
 最初に店員が口にする値段は高額に切りだしているぼったくり値段だ。泰三はそこから正札の半額にまでまけさせる手腕を自慢にしていた。青年は実直な笑みで続ける。

「お店の人はとても親切でした。バナナを一房おまけしてくれたんです。昨夜はそれで晩ご飯を済ませることができました」

 泰三は三度、顎が落ちそうなほど口を開いた。まさかインド人の頭の中に『おまけ』という概念があるなんて!
 インドに暮らして十年、泰三はそんなインド商人に出会ったことはなかった。

 ホームに入ってきた寝台列車はピカピカ光る銀色の車体に、曇り一つないガラス窓が嵌まっていた。新品の車両だ。

「ラッキーですね。エアコンがきちんと動く」

 泰三が言うと青年はただ黙ってにこにこ頷く。
 インドの列車に普通はエアコンなどついていないことや、エアコン付きの特等車両でさえ故障したままのエアコンしかなく辟易することも多いなど考えもつかないのだろう。

 二人は予約している寝台車に乗り込んだ。一つの車両に寝台が片方の壁に上下三段、横に二列。一車両で十二人しか乗れない。
 エアコンがあり、トイレがあり、洗面台がある。日本では当たり前の設備だが、インドでは目の玉が飛び出るほどの料金を出さないと乗る事ができない。
 とは言っても、日本の寝台車に比べたらはるかに安いのだったが。

 青年は物珍しさに、きょろきょろと車両内を動きまわった。

「写真、撮ってあげましょうか」

 珍しくサービス精神を発揮した泰三に、しかし青年は首を横に振ってみせた。

「カメラは持っていないんです」

「携帯は?」

「携帯もスマホも、なにも」

 泰三は怪訝な表情を浮かべた。

「目で見たとおり、見たままを記憶しておきたいんです」

 そう言う青年の言葉になぜかムッとした泰三は、自分のカメラで有無を言わさず青年を写真に納めた。青年ははにかみながらも、まんざらでもない笑顔を向けた。

 列車が出発したのは定刻を一時間越えてからだった。到着時刻は何時になるか予想もつかない。最上段のベッドに上っていった青年にその事を伝えようと、泰三は声をかけた。しかし青年からの返事はない。

 梯子を上って見てみると、青年は毛布もかけずカーテンも引かずに、突っ伏して寝ていた。
 梯子を上ったところで力尽きたような姿勢だった。バックパックも背中に背負ったままだ。

 泰三はため息をつきながらバックパックを外して、それを枕に青年の体を横たえてやった。



「チャーイ、カフィー、チャーイ、カフィー」

 茶売りの声で泰三は目を覚ました。時計を見ると午前六時半。いつもよりも三時間も早起きして不機嫌な顔で、茶売りからコーヒーを買う。ミルクと砂糖がイヤというほど入った濃厚に甘いコーヒーで、頭はすぐにすっきりと働き出した。

 普通の旅行者ならチャイの方を喜ぶだろう、青年は飲むだろうか。
 泰三は上段の青年の様子を見ようと梯子を上り愕然とした。青年の姿が消えていた。

 まさか強盗にでもあったのかと震えたが、青年のバックパックは昨夜枕にしたとおりの姿でそこにある。
 泰三はとりあえずそのバックパックを背に負って、青年を探して歩いた。

 探しあてた時、青年は二等車両の硬い座席に腰を沈め、隣に座ったおばあさんと、にこにこと何か話をしていた。泰三はあきれて、無言でバックパックを青年の膝に放り出した。

「泰三さん、おはようございます」

 青年は悪びれもせず、泰造に笑顔を向けた。

「あんたねえ。前にも言ったでしょうが。インドで自分の荷物を腹に抱えておかないなんて、盗んで下さいって言ってるみたいなもんだって。盗まれてから気付いたって遅いんだよ」

 青年は頭をかきながら、ぺこりとお辞儀する。

「そうでした、ごめんなさい。つい夢中になっちゃって」

 泰三は深い溜め息をつくと、ビジネス用の表情を取り戻した。

「で、何に夢中になってたんですか」

「すごいんですよ! この列車、行商がたくさんいるんです! 僕は歌声で目覚めたんですが、なんと水を売っている少年が歌っていたんです!」

 それはインドの列車ではよく見る光景だ。早朝に水を売り歩く子供たちは、未だ寝ている者を起こさぬよう子守唄のように密やかに歌いながら歩く。

「水を一杯買ってみましたが、あれはおいしいですね。冷たくて」

「あんた、あの水を飲んだのか! 生水だぞ! 腹を下すぞ!」

 泰三が叫んでも青年はけろりとしている。

「インドに来てから、ずっと飲んでます。最初の日は下しましたが、あとは平気になりました」

 付き合っていられない、という意思を表すために両手を広げ首を横に振り、泰三は自分の車両に戻ろうと足を踏み出した。

「泰三さん」

 呼びかけられて、無視したいという気持ちを押し隠し、泰三は作り笑顔で振り返る。

「なんでしょう」

「これ、御婦人からいただいたんです、ピーナッツ。泰三さんも召し上がってください」

 青年の隣のおばあさんは泰三に向かって手まねきしている。
 泰三は曖昧な愛想笑いを浮かべ、青年の手からピーナッツを受け取る。炒りたての殻付きピーナッツは香ばしく美味しく、泰三を少し落ち着かせてくれた。

「英語、話せるんですか」

 ピーナッツをかじりながら泰三が尋ねると、青年は首を横に振った。

「ぜんぜん」

「じゃあ、ヒンディ語?」

「ぜんぜん」

「パンジャーブ語?」

「ぜんぜん」

 泰三は原色のサリーを着たおばあさんと見つめあった。額に赤いビンディを塗った彼女は青年を指差し自分を指差し、「トモダチ」と訛りの強い覚えたての日本語で宣言した。
 泰三は思わず殻がついたままのピーナッツを口に放り込み、咳き込んでそれを吐き出した。

 コルカタに到着したのはお昼時。予想していたよりは早い時刻の到着に、泰三はほっとして腰を伸ばした。
 青年はにこにこと、去っていく列車を見送った。

「ああ、残念だなあ。もっと乗っていたかったなあ」

 青年の手にはピーナッツやらブドウやらおもちゃの花輪やら竹笛やら、通りすがりの行商や二等、三等車両の乗客からプレゼントされたものが盛りだくさんに乗っかっていた。

 泰三は信じられないものを見る目で青年を見つめた。
 青年はバックパックを開けてそれらをしまい込もうとしたが、バッグの中身も手に持った荷物とほぼ同じようなものが詰まっていて、もう少しも詰め込む余裕はなかった。

「……まさかカバンの中身は全部インド人からもらったものですか?」

「大体そうですね」

「大体以外のカバンの中身は何が?」

「僕のパンツくらいでしょうか」

 泰三はもう口を開ける気にもなれなかった。

 ボルプール行きの列車の出発時刻まで二時間あったので、二人はコルカタの街を観光することにした。

「インド博物館を見たいです!」

「二時間じゃ無理です」

 青年が目を輝かせて提案した言葉を泰三は、すっぱりと切り捨てた。

「インド博物館は広大な敷地に数え切れない展示品が並んでいます。半日かけてもすべてを見るのは難しいでしょう」

「じゃあ、最初のちょっとだけ。ちょっとだけでいいんです」

 青年の熱心さに負け、泰三はインド博物館を目指して歩き出した。

「あ、泰三さん見て下さい、あのバス! 歴史が古そうですよ!」

「泰三さん、あのビルは二十世紀初頭くらいのものでしょうか? イギリス風ですね」

「泰三さん」「泰三さん」「泰三さん」……。
 青年は三歩歩けば立ち止まり、物珍しげに街のあちこちに目を止め泰三に興奮を伝えた。

「泰三さん、あのチャイ! 素焼きの器で飲ませてますよ!」

 泰三が時計を見るとすでに十四時を過ぎていた。腹が減った。

「ではあの店で昼食にしましょうか」

 その店はビリヤニをメインのメニューに据えていて、昼遅い今頃でも品切れなくビリヤニを食べることができた。

「泰三さん! これすごくおいしいです!」

 青年はいたく感激して三杯おかわりした。

「ご飯とカレーを炊きこむんですが、両方を別々に作ってから一つに合わせて炊くんですよ。広い窯が必要な料理なので、日本ではなかなか食べられないと思います」

 せっかく泰三が説明したが、青年は聞いているのかいないのか。慣れぬ手つきでインド流に素手で米をつかみ、頭を振り振り一生懸命ビリヤニの皿と向き合っていた。

 結局、その店で一時間ほどのんびりと過ごし、博物館に行くことなく二人は駅に戻った。

 目的地ボルプールへ向かう列車は定刻通りに発車した。一等車両を予約していたため発車直前に悠々と乗り込む。
 青年はバックパックを無造作に網棚に乗せ座席に座った。泰三はもう荷物について口を挟むのをやめた。

 車窓からは一面の平原が見える。行けども行けども地面しか見えない。泰三は初めて大陸を旅行した時の事を思い出す。

 
 日本に暮らして視界に山がある事を当然と思っていた泰三は、硬い地面がどこまでも続く風景に恐怖をかき立てられた。
 どこまでもどこまでもいつまで歩いていっても果てがない。

 遠近感は狂い、ぐらりと眩暈を起こした。帰る場所を失い、平らな地面を永遠に歩き続けねばならないような錯覚に陥った。

 泰三は今でも地平線が苦手で窓の方に顔を向けられない。青年は窓枠に両手を置き、幼い子供のように外を見つめていた。

「泰三さん」

「なんですか」

「地球は本当に丸いんですねえ」

 泰三は何も答えなかった。青年はいつまでも地平線を見つめ続けた。

 ボルプール駅についたのは夕暮れて平野が赤く染まった頃だった。
 黄色の駅舎に夕焼けが映え、駅舎に描いてあるヒンドゥーの神々の壁画が生き生きとして見えた。

 駅から見渡すと緑が多い。道には日用品や飲食物、衣服などを商う屋台が多く、それよりもはるかに多いのがリキシャの運転手だった。

 俺のリキシャに乗れ、いや俺の方が早い、俺は誰よりも値引きするぞ、と口々に褐色の肌の男たちが二人に詰め寄る。
 泰三は片っぱしから値段交渉を始めた。値切って値切って値切り倒した。

 その結果、一人の屈強な若者と話がついたころ、青年が泰三に話しかけた。

「泰三さん、あのリキシャに乗りましょう」

 指差した先にはまだ十五、六歳に見える少年がいた。恥ずかしそうに俯いて上目づかいで二人を見ている。泰三はその少年に近づき値段交渉をした。

 村まで八十ルピー。どんなに泰三が値切ろうとしても少年は八十ルピーと繰り返した。おそらくベンガル語以外話せないのだろう。泰三はベンガル語は片言しか話せない。
 仕方なく青年に高いということを伝えた。

「いくらでも構いません。この子がいいんです」

 泰三は諦めを顔に張り付け、少年に予約しているホテルの名を告げた。

 少年は二人を幌付きの台車に乗せて自転車をこぎ出す。まだ力の弱い少年は耳まで真っ赤になりながら一生懸命ペダルを踏み大の男二人を運ぶ。
 泰三は興味なさげに道端の屋台をぼんやり眺めていたが、青年は両手を握りしめ少年の雄姿を見守った。

 少年がリキシャを止めたのは、一軒の民家の前だった。泰三は英語でここではないと文句を言ったが少年は困った顔で小首をかしげるだけ。
 泰三が腕組みした時、家の中から太った女が出てきた。どうやら少年の母親らしい。

 母親はヒンディ語で、ここは素晴らしいホテルだ、是非ここに泊まるようにと二人に語りかけた。泰三は烈火の勢いで、目的地が違う、予約したホテルへ連れて行かないなら料金は払わないと叫んだ。

 母親は平気な顔で、そんなホテルよりうちが最高だから、その宿はキャンセルするようにと穏やかに語りかける。

 泰三がさらにがなりたてようとするのを、青年が袖を引いて止めた。

「ここに泊まりましょう」

 泰三は呆れて口を開けたくなったが、もう驚くのもアホらしく、黙って頷いた。

 二人が通された部屋は狭かったが、掃除が行き届き、庭に面した窓からは涼しい風が入ってきた。シャワールームもトイレも清潔で、申し分なかった。

 部屋まで案内してくれた少年に、泰三はチップを渡した。通常の半分以下の額しかやらなかったが、少年はうれしそうに笑って部屋を出ていった。

「明日はタゴール大学に行きます。インドの詩人タゴールが作った大学です。そこで行われる仏教の授業を見学します」

 青年は大人しく「はい」と答えた。

 宿で出された夕食は素晴らしかった。気取った料理は一つもなかったが、いかにも料理上手なおっかさんが作ったとわかる滋味深いものだった。

 少年とその両親といっしょに二人はテーブルを囲んだ。
 青年は言葉はほとんど通じないのに、少年と、母親と、父親と顔を見合わせてにこにこ笑いあう。
 泰三は黙ったままひよこ豆のカレーを喉の奥に押し込んだ。

 翌日、早朝に目覚めた泰三は、青年のベッドにバックパックが置き去りにされているのを見つけた。もう驚くこともなく、その荷物は放り出したままで青年を探して庭に下りた。

「泰三さん、おはようございます。見て下さい、庭の木の上にリスがいるんですよ」

「あっちには野良猿がいますよ」

 泰三があくびしながら塀の上を指差す。

「ほんとうだ!」

 青年は顔の黒い猿に駆け寄ったが、猿は長い尻尾をぴんと立てて身を翻して逃げだした。

「泰三さん、朝の散歩に行きませんか」

 青年に誘われ、泰三はズボンのポケットに両手をつっこんで歩き出した。

 赤や青やオレンジに塗られた民家のカラフルな塀と、好き勝手に生えているバナナの木に挟まれた細い道路をぶらぶらと歩く。
 路上には気の早い屋台が立ち、取れたてのフルーツや日差しを遮るための笠を売っている。

 青年はフルーツ屋台でヤシの実とマンゴスチンを両手いっぱいに買った。やはり値切らない。
 店の者は満面の笑みで青年を見送る。泰三は値切らなくても十分安いそれらの価格に口をつぐんだ。

 青年が持ち帰ったフルーツと、おっかさんが作ってくれたナンと目玉焼きの朝食を済ませて、二人は大学に向かった。

 タゴール大学は広大な敷地を持つ。というより、大学の敷地ではないところに人々が住んでいるというような状況だ。村のほとんどが大学なのだ。

 大学の門はあるけれど塀は無い。どこまでも続く地面と、そこここに生える大きな木。その木々の下に子供が集まって座り、青空授業が開かれていた。

 小学生から大学生まで、子供であれば皆ここに集うらしい。
 きょろきょろと辺りを見ていた青年が突然走り出した。泰三は慌てて追いかける。

 青年は一本の菩提樹の下、足を組んで座った老人のそばに駆け寄った。黄色の衣をまとったその老僧は十数人の学生に囲まれ、ベンガル語で講義をしていた。

 青年は自然な様子で学生の輪に入り込む。学生たちは青年に向かって微笑みかけただけで、すんなりと彼を受け入れた。

 泰三は少し離れた場所から授業を見学した。
 青年にも泰三にも老僧が話す言葉はわからなかったが、歌うように高く低く、波のようにゆるやかに穏やかに紡ぎだされる音は耳に心地よく、子守唄のようで、ただ聞いているだけで満ち足りた気持ちになった。

 二十分ほどたったころ講義は終わり、学生は三々五々散っていった。老僧は青年に向き直り、流暢な日本語で語りかけた。

「よく来たね。ここが君の探していた地であるとよいのだが」

 青年は正座して老僧の方へ身を乗り出した。

「ここです、あなたです、僕が探していたのは。ずっとこの場所に来たかった」

 老僧はゆっくりと頷く。それから泰三に目を向けた。

「あなたは」

「いや、俺は違います。ただのガイドです」

 老僧はゆったりと笑う。

「私の弟子であり、日本語の師である彼から便りがあった。あの子が人を紹介するなど今までなかったことだ。あなたはずいぶんあの子と近しいようだ。よく似ている」

 あの子とは泰三の友人、英哲の事だろう。似ていると言われたのは初めてだった。

「魂の色が似ているのだよ」

 老僧はにこりと笑うと、青年と泰三に向けて語りかけた。

「ここには何もない。けれど何もかもがある。わかるね」

 青年はただ頷き、満足したように黙ってしまった。
 泰三は沈黙に耐えられず、もじもじと足踏みして、老僧に質問した。

「いつも木の下で授業してるんですか?」

「そうだよ」

「雨が降ったらどうするんですか?」

「屋根の下で昼寝をするのさ」

 そう言って老僧はぱちりとウインクした。


 この日の事を泰三は忘れることがない。十年たった今でも昨日の事のように思い出せる。
 そこに何があったのか、青年が何を得たのか泰三にはわからない。
 けれどそれ以来、泰三は値切る事をやめた。

 今でも折々に青年から絵葉書が届く。中国、韓国、オーストラリア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパ。色んな国の色んな地平線の写真。
 そこにはいつも同じ一言が添えてある。

「晴れた日には晴れのように、雨の日には雨のように生きていきましょう」

 青年ならきっとそのように生きていくことだろう。泰三は微笑む。そして顔を上げて地平線を見つめる。

 そこにもう恐れは無い。泰三はどこまでもどこまでも歩いて行ける。

 遠い地平線の先にきっと、魂が帰る場所はあるのだから。

#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

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